第30話 執着
その感触は、どこまでも慈悲深く、そしてどこまでも冷徹だった。
日矢倉美容クリニック、特別個室。
窓のないその部屋は、外界から切り離されたシェルターのようだった。
空調の低い駆動音だけが響く静寂の中で、黒浦玲子はベッドに横たわっていた。
顔全体が分厚い包帯で覆われている。視界は遮断され、鼻と口の部分だけが呼吸のために開けられている状態だ。
術後の痛みは、点滴から送られる鎮痛剤によって鈍く麻痺している。まるで深い水底に沈んでいるような浮遊感があった。
「……レイさん。失礼するよ」
耳元で、日矢倉亨の囁くような声がした。
温かい蒸しタオルが、玲子の首筋に触れる。
亨が彼女の体を拭いているのだ。
「ん……亨、さん……?」
「ああ、じっとしていて。術後は汗をかきやすいからね。清潔にしておかないと」
タオルの温もりが、鎖骨をなぞり、肩へと降りていく。
亨の手つきは、熟練の職人のように丁寧で、かつ執拗だった。皮膚の一ミリたりとも見逃さないというような、粘着質な愛撫に近い清拭。
「あ……そこ、は……」
玲子がわずかに身をよじる。
亨の手が、パジャマのボタンを外し、胸元へと滑り込んでくる。
さすがに羞恥心が湧いた。だが、亨の声はあくまで医師として、そして「愛する婚約者」として諭すように響く。
「恥ずかしがらなくていいんだよ、レイさん」
亨は優しく、しかし有無を言わせぬ力強さで玲子の腕を押さえた。
「僕は君のすべてを知っている。骨格も、筋肉の付き方も、皮膚の質感も……手術ですべて見せてもらったからね。今さら隠すことなんて何もない」
タオルが胸の膨らみを包み込むように拭う。
玲子の背筋にぞくりとしたものが走る。それは快感ではなく、解剖台に乗せられた蛙のような無防備さへの恐怖に近い。
だが、玲子はすぐにその感情を押し殺し、甘く吐息を漏らしてみせた。
「……ふふ、そうね。私、もう亨さんのものだものね」
「そうだよ。君は僕の作品であり、僕の魂の家族だ。これからは僕が君の手足になる。食事も、着替えも、排泄の世話だって……君が老いて動けなくなるまで、僕が全部やってあげるから」
亨の声が熱を帯びる。
「一生、こうして君を愛でていたいんだ。誰にも触らせない、僕だけの宝物として」
(……うわ、重っ)
包帯の下で、玲子は白目を剥いていた。
「排泄の世話」というワードが出た時点で、普通の女ならドン引きして逃げ出すところだ。
だが、玲子の脳内では、黄金色の計算機が凄まじい速度で叩かれていた。
――こいつ、筋金入りの尽くすタイプだわ。
多少の粘着質さは、金のためなら我慢できる。むしろ、これほど依存してくれれば、結婚前でも財布の管理権を握るのは容易い。
献身的な介護? 大いに結構。私は何もしなくていいってことだ。
家事も労働も放棄して、一生このATM男に寄生して生きていく手もある。
「嬉しい……。そんなに愛してもらえるなんて、私、世界一の幸せ者だわ」
玲子は亨の手を握り返し、指を絡めた。
「早く包帯を取りたいな。亨さんが作ってくれた『新しい私』で、あなたにキスしたい」
「……ああ、僕もだよ。待ち遠しい」
亨が玲子の指先に口づけを落とす。その唇はひどく冷たかったが、吐息だけが火傷しそうに熱かった。
「完璧なんだ。君の新しい顔は……僕の理想そのものだよ」
亨の言葉に、玲子は勝利を確信した。
「理想」と言うからには、きっと絶世の美女に仕上がっているに違いない。
人気芸能人か、フレッシュアイドルか。もしくは、往年の大女優のような気品ある顔立ちか。
どちらにせよ、指名手配中の「黒浦玲子」とは決別できる。
(さようなら、惨めな逃亡生活。待ってなさい、セレブな港区女子ライフ)
玲子は包帯の中で、誰にも見えない笑みを浮かべた。
亨が愛おしそうに撫でているその肌が、誰の顔を模しているのかも知らずに。
+++
一週間後。
退院の日がやってきた。
顔の抜糸は済み、腫れも引いたが、まだ包帯は巻いたままだ。「自宅で、二人きりの時に外して鏡を見てほしい」という亨の強い希望だった。
深夜、人目を避けるように裏口から出ると、亨の車が待っていた。
玲子は深々と帽子をかぶり、助手席に滑り込む。
「気分はどう? 痛みはない?」
ハンドルを握る亨が気遣わしげに尋ねる。
「ええ、大丈夫。少しつっぱる感じがするけど」
「それは皮膚が定着しようとしている証拠だ。すぐに馴染むよ」
車は夜の首都高を滑るように走る。
玲子の胸は高鳴っていた。
これから向かうのは、あの要塞マンション『レジデンス・アルゴス』。
そして、亨が「君のためにリフォームした」という愛の巣だ。
「ねえ、亨さん。お部屋、どんな風になったの?」
「着いてからのお楽しみだよ。……きっと、君なら泣いて喜んでくれるはずだ」
亨は自信たっぷりに微笑む。
「家具も、カーテンも、小物の一つ一つまで……僕が記憶を頼りに集めたんだ。君が一番リラックスできる、本当の『家』にするためにね」
(記憶を頼りに? ああ、私の好きそうなものを想像してくれたってことね)
玲子は都合よく解釈した。
きっと、白を基調としたロココ調の家具や、シャンデリア。あるいは、モダンでシックな高級ホテルのような内装。
金に糸目をつけない医師の彼が用意したのだ。期待値は天井知らずに上がっていく。
亨の声が弾んだ。
「やっとだ……やっと、元の生活に戻れる」
「元の生活?」
「あ、いや。……理想の生活、という意味さ」
亨は一瞬言い淀んだが、すぐに優しい声に戻った。
玲子は気にも留めなかった。男はマリッジブルーにでもなっているのだろう。
やがて、車は重厚なゲートをくぐり、『レジデンス・アルゴス』の地下駐車場に滑り込んだ。
エンジンが止まる。
静寂が戻ってくる。
「さあ、行こう。僕たちの本当の城へ」
亨がドアを開け、手を差し伸べる。
玲子はその手を取り、姫君のように車を降りた。
+++
午前二時。
エレベーターは無音で上昇し、4階で停止した。
内廊下には、誰もいない。監視カメラのレンズだけが、黒い瞳のように彼らを見つめている。
401号室の前。
亨が鍵を取り出す手が、微かに震えていた。
武者震いだろうか。それとも、感動に打ち震えているのだろうか。
「……ここを開ければ、僕たちの新しい人生が始まる」
亨が厳かに宣言し、鍵を回す。
カチャリ、という解錠音が、運命の歯車が噛み合う音のように響いた。
ドアが開く。
真っ暗な室内。
「どうぞ、レイさん」
背中を押され、玲子は一歩足を踏み入れた。
その瞬間。
鼻をついたのは、新築マンション特有の建材の匂いでも、高級アロマの香りでもなかった。
(……線香?)
古びた畳の匂い。樟脳の匂い。
そして、湿気た煎餅のような、生活感の染み付いた埃っぽい匂い。
玲子は眉をひそめた。
ここ、本当にあの高級マンションよね?
「電気をつけるよ」
パチン。
スイッチが入る。
玲子の視界――包帯の隙間から見える世界――が、明るくなった。
そして、彼女は絶句した。
「…………は?」




