第29話 完全な顔へのドライブ
「ただの整形じゃ嫌なの。……あなたの『一番好きな顔』にしてほしいの」
その言葉を聞いた瞬間、亨の表情が凍りついた。
時が止まったような静寂。
玲子は内心でほくそ笑んだ。
男にとって「一番好きな顔」と言えば、好きなアイドルか女優、あるいは初恋の相手だろう。
亨の好みはわからないが、彼のような神経質なエリートは、大抵清楚な美人を好む。
どんな顔にされようと、今の「手配写真の顔」よりはマシだ。別人にさえなれれば、それでいい。
「……本当に? 僕の、理想の顔にしていいの?」
亨の声が震えていた。
彼は信じられないものを見るように、玲子の顔を凝視している。
その目は、恋人の目ではなく、品定めをする芸術家の目であり、振って舞い降りた宝物を見る目であった。
「ええ。すべてあなたに任せるわ。あなたの好みの女になって、あなたとずっと一緒にいたいの」
「ああ……!」
亨は感極まったように声を上げ、玲子を押し倒した。
ソファの上に玲子の体が沈む。
上から覆いかぶさった亨は、恍惚とした表情で玲子の顔のあちこちを撫で回した。
「約束だよ。君を、世界で一番美しい……僕だけの『聖女』にする」
「……ええ、お願い」
亨の手は、愛撫というよりは触診に近かった。骨格を確かめ、皮膚の厚みを測り、筋肉の動きを読む。
その冷徹な指先の動きに、玲子はわずかな寒気を覚えたが、すぐに打ち消した。
これで逃げ切れる。
新しい顔と、この男の財産。そのお金で新しい戸籍を買えばいい。
すべてが手に入るのだ。
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手術の日程は、翌週の週末に決まった。
場所は、亨が経営する『日矢倉美容クリニック』。休診日を利用して、極秘に行うことになった。
「誰にも見られないように、深夜に移動しよう。スタッフも帰した後だ」
亨は手際よく計画を立てた。医師としての彼は有能そのものだった。
「術後はしばらく腫れが引かないから、一週間ほどクリニックの特別室に入院してもらうことになる。その間、僕が専任で看病するよ」
出発の夜。
玲子は深々と帽子をかぶり、マスクで顔を覆った。
最後に401号室を見渡す。
殺風景ではないが、どこか無機質なデザイナーズマンションの一室。次にここに戻ってくる時は、私は別人になっている。
「ねえ、レイさん」
玄関で靴を履いていると、亨が背後から声をかけてきた。
玲子が振り返ると、彼は少年のように目を輝かせていた。
「君が退院して戻ってくるまでに、この部屋をリフォームしておくよ」
「リフォーム?」
「ああ。君の新しい顔にふさわしい、最高の空間にしておく。家具もカーテンも、全部変えるつもりだ」
玲子はパッと顔を輝かせた。
(やっぱり金持ちは違うわね。私のためにインテリアを一新する気だわ)
きっと、高級なイタリア製家具や、シャンデリアが輝くような部屋になるのだろう。
この男のセンスは悪くない。今の部屋もシンプルモダンで悪くないが、もっとゴージャスな方が好みだ。
「嬉しい! 楽しみにしてるわ。どんなお部屋になるのかしら」
「驚かないでくれよ? きっと、君も気に入るはずだ。……嬉しくて、涙が出るくらいにね」
「ふふ、ハードル上げますね」
玲子は亨の腕に手を回し、甘えた声を出した。
亨は「懐かしい」という言葉を多用する。きっと、彼の中の美学はクラシックで伝統的なものなのだろう。アンティーク家具で揃えられた部屋を想像し、玲子の期待は膨らむばかりだった。
二人は深夜、家を出た。
4階の廊下を歩きながらエレベーターへ向かう足音が、静寂に吸い込まれていく。
その時、エレベーターの現在地階数が「5」になっている。
ボタンを押して少し待つ。エレベータが到着した。
誰かが乗っている?
こんな時間に?それも上から?
「……ッ!」
玲子は身を強張らせた。
もし管理人だったら。もし私の事を知っている誰かだったら。
チーン。
扉が開く。
中にいたのは、ジャージ姿の猫背の男だった。
手には小銭入れとスマートフォンを持っている。
501号室の住人、つまりこのマンションのオーナーだ。
玲子は以前、廊下ですれ違ったことがある。昼間から酒臭く、覇気のないダメ人間。
男は二人を一瞥もしない。
気だるげにあくびを噛み殺しながら、壁を見つめて顎を上げながら何かを考えている。
(なんだ、あの不敵なオーナーか……)
玲子は胸を撫で下ろした。
(こんな無気力な男がオーナーだなんて、このマンションも先が思いやられる。まあ、セキュリティさえしっかりしていれば、オーナーが誰だろうと関係ないが)
その時、男の口元が、ニヤリと歪んだように見えたのは気のせいだろうか。
扉が閉まり、エレベーターが下降を始める。
玲子は身震いした。
何コレ。気持ち悪い。
1階でエレベータが止まると、男はふらふらとコンビニの方へ出て行った。
「寒かったかい? レイさん」
亨が心配そうに肩を抱く。
「ううん、大丈夫。……早く行きましょう、亨さん。新しい私になりに」
地下駐車場には、亨の愛車である黒塗りの高級セダンが待っていた。
助手席に乗り込み、シートベルトを締める。
エンジンがかかり、重厚な振動が体に伝わる。
車は夜の闇へと滑り出した。
玲子は窓の外を流れる街灯を見つめながら、勝利の予感に酔いしれていた。
これが、地獄へのドライブだとも気づかずに。
隣でハンドルを握る亨は、口ずさんでいた。
誰にも聞こえないほどの小さな声で、古い童謡のようなメロディを。
「どんぐり ころころ どんぶりこおいけにはまって さあたいへん……」
その横顔は、雨の日の墓地で見せたような弱々しいものではなく、メスを握る医師の冷徹さと、狂信者のような熱を帯びていた。
「もうすぐ会えるね。……さん」
その呟きは、エンジンの音にかき消され、玲子の耳には届かなかった。




