第28話 逃亡者の影
その生活は、蜜のように甘く、そして沼のように淀んでいた。
『レジデンス・アルゴス』401号室。
遮音性に優れたこの部屋は、外界の喧騒を完全に遮断している。窓の外で雨が降ろうと、パトカーがサイレンを鳴らそうと、ここには静寂だけが横たわっている。
入居して一週間。黒浦玲子は、この完璧な密室で「理想の女」を演じ続けていた。
「亨さん、お帰りなさい。今日は早かったのね」
玄関のロックが解除される音がすると、玲子は小走りで出迎える。
あえて少し大きめの、亨のYシャツを羽織り、下はショートパンツというあざとい格好だ。男の庇護欲をそそるための計算し尽くされた演出である。
「ああ……ただいま、レイさん」
帰宅した日矢倉亨は、疲れた顔をほころばせた。
彼は玄関に靴を揃えると、吸い寄せられるように玲子に近づき、その肩に顔を埋める。
「……いい匂いだ。落ち着くよ」
「ふふ、汗臭くないですか? お掃除してたから」
「ううん、違うんだ。この匂い……懐かしくて、温かい匂いだ」
亨は玲子の首筋に鼻を押し付け、深々と息を吸い込む。
その仕草は、愛し合う恋人というよりは、母親の胸に甘える幼児のようだった。
玲子の背筋に、生理的な嫌悪感が走る。
(キモっ……。三十過ぎたおっさんが、人の匂い嗅いでウットリしてんじゃないわよ)
内心で毒づきながらも、玲子は慈愛に満ちた表情を崩さない。
そっと亨の頭に手を回し、よしよし、とあやすように撫でる。
「お仕事、大変だったんですね。ご飯、できてますよ」
「ありがとう……君がいてくれて、本当によかった」
亨は玲子に依存していた。
それも、急速に、深く。
彼にとって玲子は、孤独の海に現れた唯一の浮き木であり、失われた「何か」を埋めるためのピースだった。
食卓には、玲子が作った(ように見せかけてデパ地下から配達で取り寄せた惣菜を皿に盛り付けただけの)夕食が並ぶ。
亨はそれを「美味しい、美味しい」と涙ぐみながら食べる。
「この煮物の味……家の味に似てる」
「あら、そうですか? お口に合ってよかった」
「うん、僕が一番好きな味だ。まるで……あの日が戻ってきたみたいだ」
亨は遠い目をしている。
「あの日」とは、おそらく亡くなった誰かと過ごした日々のことだろう。
玲子はあえて、「誰」が亡くなったのかを聞かなかった。
墓場で見た時の彼の錯乱ぶりからして、それは彼にとっての最大の地雷だ。下手に触れて情緒不安定になられても面倒だし、余計な情報を引き出すよりも、今はただ「悲しみを癒やす聖女」のポジションを確立することの方が重要だった。
(ま、誰が死んでようがどうでもいいわ。せいぜい私の財布として長生きしてちょうだい)
玲子は微笑みながら、亨のグラスに高級ワインを注ぎ足した。
+++
生活は平穏に見えたが、玲子の内心は焦りで焼き切れそうだった。
日中はカーテンを閉め切り、一歩も外に出ない生活。
亨が仕事に行っている間、玲子はスマホ(足の着かない裏モノ)でニュースをチェックするのが日課になっていた。
『結婚詐欺師・黒浦玲子の目撃情報、都内で相次ぐ』
『被害総額は一億円超か』
亨に対してはニュースを見ていないことを祈りながら濃い化粧でごまかしている。
ネット掲示板には、玲子の過去の整形前の写真まで晒されていた。
「絶対許さない」「見つけたら通報」という書き込みが溢れている。
恐怖で手が震えた。
このマンションのセキュリティは完璧だ。オートロック、監視カメラ、そして一階にはあの目つきの鋭い管理人が常駐している。
外部からの侵入者は防げる。
だが、それは同時に「一度入ったら出られない」ということでもあった。
もし、管理人が何かの拍子にここを訪ねてきたら?
もし、宅配便の配達員が私の顔を覚えていたら?
(早く顔を変えなきゃ。この顔のままでいる限り、私はどこにも行けない)
夜、亨が帰宅すると、玲子は演技のギアを一段上げた。
ソファで怯えるように膝を抱え、亨の帰りを待つのだ。
「……レイさん? どうしたんだ、真っ暗な中で」
亨が心配そうに駆け寄る。
玲子はガタガタと震えながら、亨にしがみついた。
「怖いの……亨さん……」
「怖い? 何が? 誰か来たのか?」
「ううん……さっき、スマホに非通知の着信があって……無言電話だったの。もしかして、あの男が見つけたのかもしれない……」
もちろん嘘だ。着信などない。
だが、亨の顔色は一瞬で変わった。
「なんだって!? あのストーカーか!」
「どうしよう……私、殺されるかもしれない。ここも、もう安全じゃないのかも……」
「そんなことはさせない!」
亨は強い力で玲子を抱きしめた。その腕の力は痛いほどだった。
「ここは僕の城だ。誰にも指一本触れさせない。僕が君を守る。一生、ここから出なければいいんだ」
「……え?」
「君はずっとここにいればいい。買い物も僕が行く。ゴミ出しも僕がやる。君は一歩も外に出なくていいんだよ」
亨の瞳に、暗い光が宿っていた。
それは玲子が望んだ「安全」だったが、亨の口から出ると、まるで「監禁」の宣言のように聞こえた。
(……そんなの絶対にイヤ。こんな息苦しい所とは早くおさらばしたい)
玲子は亨の胸に顔を埋め、涙声で囁いた。
「ありがとう……亨さんだけが頼りなの」
そして、タイミングを見計らって、玲子は切り札を切った。
亨のシャツの胸元を掴み、潤んだ瞳で見上げながら言った。
「ねえ、亨さん。私、もうこの顔でいるのが怖いの」
「顔?」
「ええ。鏡を見るたびに、あの男に狙われている恐怖を思い出すの。……亨さん、あなたは魔法使いなんでしょう?」
玲子は亨の手を取り、自分の頬に当てた。
冷たい医師の指先が、玲子の肌に触れる。
「私を、変えて。あなたの手で、私が私じゃなくなるように」
「整形……したいってこと?」
「ただの整形じゃ嫌なの。……あなたの『一番好きな顔』にしてほしいの」




