第26話 雨に濡れた獲物
冷たい雨が、都心のアスファルトを黒く染め上げていた。
六月の長雨。湿った空気は肌にまとわりつき、逃亡者の体力をじわじわと削ぎ落としていく。
黒浦玲子は、コンビニエンスストアで購入した黒いビニール傘を目深に差しながら、繁華街の路地裏を早足で歩いていた。
マスクと伊達メガネ、それに深めに被ったキャスケット帽。かつて港区の夜を席巻し、数多の男たちを狂わせた「清楚系美女」の面影は、今の彼女にはない。あるのは、獲物を狙う野良猫のような殺気と、追われる者の焦燥だけだ。
(……しつこい。あのクソおやじ、警察に駆け込むなんてルール違反じゃないの?)
玲子は心の中で悪態をついた。
彼女の正体は、プロの結婚詐欺師だ。
マッチングアプリや婚活パーティーを主戦場とし、「親の借金」や「事業の失敗」という古典的だが効果的な嘘で、寂しい男たちの財布の紐を緩ませてきた。
今回のターゲットは、地方の不動産王だった。六十過ぎの好色な男で、一億円近くを引っ張ったところでドロンする計画だったのだ。
だが、誤算だったのは男の執着心だ。彼は玲子への愛が強すぎるあまり、探偵を使って玲子の隠れ家を特定したが、冷静になってしまい被害届を提出したのだ。
今朝のニュースサイトには、防犯カメラに映った玲子の顔が「結婚詐欺の常習犯」として掲載されていた。SNSでは特定班が動き出し、彼女の過去の偽名やSNSアカウントが掘り返されている。
(顔を変えなきゃ。それも、一刻も早く)
だが、今の玲子には正規の病院で整形手術を受けるリスクは冒せない。保険証を使えば足がつく。闇医者を探すツテもないわけではないが、今の所持金では心許ないし、何より術後のダウンタイムを過ごす安全な隠れ家がない。
「……最悪」
水たまりを踏みつけ、玲子は舌打ちをした。
どこか、人目のつかない場所へ。警察の目も、ネットの特定班の目も届かない、深い穴のような場所へ。
あてもなく歩き続けた彼女の足が止まったのは、都内にある広大な霊園の近くだった。
雨に煙る墓地。灰色の石碑が無数に並ぶその光景は、死んだように静まり返っている。
生きた人間の気配がない場所は、逃亡者にとって唯一心が休まる場所だった。
玲子はふと、墓地の一角に目を留めた。
雨脚が強まる中、一つの墓石の前にうずくまる黒い影があった。
男だ。
黒いスーツを着ている。傘も差さず、ずぶ濡れになりながら、墓石にすがりつくようにして泣いている。
(……何あれ。ドラマの撮影?)
玲子は目を細めた。
男は三十代後半くらいだろうか。遠目にも仕立ての良さがわかる喪服を着ている。その背中からは、この世の終わりのような悲壮感が漂っていた。
普通の人間なら「可哀想に」と同情するか、「関わりたくない」と目を逸らす場面だ。
だが、玲子の目は違った。
彼女の網膜は、男の左手首に巻かれたスイス製の高級時計と、泥に汚れた革靴のブランドを一瞬でスキャンした。
――金持ち。
――精神的に弱っている。
――孤独。
玲子の脳内で、カシャリカシャリと計算機が弾かれる音がした。
詐欺師としての本能が告げている。あの男は「極上のカモ」だと。
身元がしっかりしていて、金があり、今まさに心の隙間風が吹き荒れている状態。そこに優しく入り込めば、依存させるのは赤子の手をひねるより簡単だ。
(隠れ蓑、いけそうだわね)
玲子は口元のマスクを整え、意を決して墓地へと足を踏み入れた。
泥濘む地面にヒールが沈むのも構わず、彼女はゆっくりと、足音を忍ばせて男に近づいていく。
「……うう、あぁ……置いていかないで……」
近づくにつれ、男の嗚咽が聞こえてきた。
男は墓石に額を押し付け、まるで子供のように泣きじゃくっている。その胸元には、銀色のロケットペンダントが握りしめられていた。
玲子は男の背後に立ち、そっと自分のビニール傘を差し出した。
雨音が、傘の幕によってふっと遠ざかる。
「……風邪をひきますよ」
玲子が発したのは、作り込んだ「聖母」の声だった。
低すぎず、高すぎず。相手の鼓膜を優しく撫でるような、慈愛に満ちた周波数。
男の肩がビクリと跳ねた。
彼は驚いたように顔を上げ、振り返った。
雨に濡れた髪が額に張り付いている。
色白で、線の細い顔立ち。整ってはいるが、どこか神経質そうで、頼りなげな印象を与える男だった。その瞳は涙で赤く腫れ上がり、焦点が定まっていない。
日矢倉亨。それが、この哀れな男の名前だった。
「……え?」
「こんなに濡れて。お辛いのはわかりますけど、あなたが倒れてしまっては、眠っている方も悲しまれますよ」
玲子はハンカチを取り出し、亨の濡れた頬を拭った。
ためらいのない、自然な接触。
亨は呆然と玲子を見つめている。彼からすれば、灰色の絶望の中に、突然光が差し込んだように見えたに違いない。落ち着いた様子の玲子の目は、計算された角度で細められ、悲しみを共有するかのように潤んでいる(ように見せている)。
「き、君は……?」
「通りがかりの者です。……私も、大切な人を亡くしたばかりで。あなたの背中を見たら、他人とは思えなくて」
嘘だ。玲子の両親は健在だし、何なら絶縁状態だがSNSを拝見するとピンピンしている。
けれど、亨の瞳が揺らいだのを見て、玲子は確信した。フックがかかった。
亨は震える手で、自分の胸元のロケットペンダントを握り直した。
「そ、そうなんだ……君も……」
「はい。辛いですよね。世界にたった一人残されたような気がして」
「そう! そうなんだよ! 僕をわかってくれる人がいるなんて……!」
亨は縋り付くような目で玲子を見た。
誰が死んだのか、いつ死んだのか、そんな具体的なことは聞かない。聞けばボロが出るし、相手に喋らせた方が情報は引き出せる。
玲子はただ、雨の中で濡れた子犬を拾うように、優しく微笑み続けた。
「少し、場所を変えませんか? 温かいお茶でも飲みましょう」
「あ……うん。そうだね。ありがとう……」
亨は素直に立ち上がった。その足取りはふらついており、玲子が腕を支えてやらなければ転びそうだった。
玲子の腕に、男の体重がかかる。
重い。けれど、この重みは「突破口」の重みだ。
+++
霊園近くの喫茶店に入り、温かいコーヒーが運ばれてくると、亨はようやく落ち着きを取り戻したようだった。
濡れた上着を脱いだ彼は、仕立ての良いシャツ姿になった。カフスボタンが照明を反射して光る。
「僕は。あのまま、死んでしまってもいいとさえ思っていたんだ。でも君に…」
亨は自嘲気味に笑い、コーヒーに口をつけた。
「僕は日矢倉亨といいます。君の名前は?」
「……レイ、と呼んでください」
玲子は偽名を名乗った。本名を知られるわけにはいかない。
「レイさん……素敵な名前だ」
亨はうっとりとした目で玲子を見つめた。その視線には、異性に対する欲望というよりは、何か神聖なものを崇めるような熱がこもっていた。
「あの、日矢倉さんは……その、お仕事は?」
玲子はさりげなく切り出した。ここが重要だ。金持ちに見えても、実態が自転車操業の経営者では意味がない。
亨は少し照れくさそうに、胸ポケットから名刺を取り出した。
『日矢倉美容クリニック 院長 日矢倉 亨』
玲子は名刺を受け取り、内心でガッツポーズをした。
美容形成外科医。しかも院長。
大当たりだ。これ以上の「一等賞」はない。
金があるだけではない。「顔を変える技術」を持っているのだ。




