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礼金無双のマンションオーナー ~相場よりも安い賃料でカモを釣り、住人の秘密を暴いて即追い出す~全室隠しカメラ完備ですが、覗きが趣味ではありません  作者: 団田図
第6章 美容整形外科医 日矢倉 亨(38)

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第26話 雨に濡れた獲物

 冷たい雨が、都心のアスファルトを黒く染め上げていた。

 六月の長雨。湿った空気は肌にまとわりつき、逃亡者の体力をじわじわと削ぎ落としていく。


 黒浦くろうら玲子れいこは、コンビニエンスストアで購入した黒いビニール傘を目深に差しながら、繁華街の路地裏を早足で歩いていた。

 マスクと伊達メガネ、それに深めに被ったキャスケット帽。かつて港区の夜を席巻し、数多の男たちを狂わせた「清楚系美女」の面影は、今の彼女にはない。あるのは、獲物を狙う野良猫のような殺気と、追われる者の焦燥だけだ。


(……しつこい。あのクソおやじ、警察に駆け込むなんてルール違反じゃないの?)


 玲子は心の中で悪態をついた。

 彼女の正体は、プロの結婚詐欺師だ。

 マッチングアプリや婚活パーティーを主戦場とし、「親の借金」や「事業の失敗」という古典的だが効果的な嘘で、寂しい男たちの財布の紐を緩ませてきた。

 今回のターゲットは、地方の不動産王だった。六十過ぎの好色な男で、一億円近くを引っ張ったところでドロンする計画だったのだ。

 だが、誤算だったのは男の執着心だ。彼は玲子への愛が強すぎるあまり、探偵を使って玲子の隠れ家を特定したが、冷静になってしまい被害届を提出したのだ。


 今朝のニュースサイトには、防犯カメラに映った玲子の顔が「結婚詐欺の常習犯」として掲載されていた。SNSでは特定班が動き出し、彼女の過去の偽名やSNSアカウントが掘り返されている。


(顔を変えなきゃ。それも、一刻も早く)


 だが、今の玲子には正規の病院で整形手術を受けるリスクは冒せない。保険証を使えば足がつく。闇医者を探すツテもないわけではないが、今の所持金では心許ないし、何より術後のダウンタイムを過ごす安全な隠れ家がない。


「……最悪」


 水たまりを踏みつけ、玲子は舌打ちをした。

 どこか、人目のつかない場所へ。警察の目も、ネットの特定班の目も届かない、深い穴のような場所へ。

 あてもなく歩き続けた彼女の足が止まったのは、都内にある広大な霊園の近くだった。

 雨に煙る墓地。灰色の石碑が無数に並ぶその光景は、死んだように静まり返っている。

 生きた人間の気配がない場所は、逃亡者にとって唯一心が休まる場所だった。


 玲子はふと、墓地の一角に目を留めた。

 雨脚が強まる中、一つの墓石の前にうずくまる黒い影があった。

 男だ。

 黒いスーツを着ている。傘も差さず、ずぶ濡れになりながら、墓石にすがりつくようにして泣いている。


(……何あれ。ドラマの撮影?)


 玲子は目を細めた。

 男は三十代後半くらいだろうか。遠目にも仕立ての良さがわかる喪服を着ている。その背中からは、この世の終わりのような悲壮感が漂っていた。

 普通の人間なら「可哀想に」と同情するか、「関わりたくない」と目を逸らす場面だ。

 だが、玲子の目は違った。

 彼女の網膜は、男の左手首に巻かれたスイス製の高級時計と、泥に汚れた革靴のブランドを一瞬でスキャンした。


 ――金持ち。

 ――精神的に弱っている。

 ――孤独。


 玲子の脳内で、カシャリカシャリと計算機が弾かれる音がした。

 詐欺師としての本能が告げている。あの男は「極上のカモ」だと。

 身元がしっかりしていて、金があり、今まさに心の隙間風が吹き荒れている状態。そこに優しく入り込めば、依存させるのは赤子の手をひねるより簡単だ。


(隠れみの、いけそうだわね)


 玲子は口元のマスクを整え、意を決して墓地へと足を踏み入れた。

 泥濘ぬかるむ地面にヒールが沈むのも構わず、彼女はゆっくりと、足音を忍ばせて男に近づいていく。


「……うう、あぁ……置いていかないで……」


 近づくにつれ、男の嗚咽おえつが聞こえてきた。

 男は墓石に額を押し付け、まるで子供のように泣きじゃくっている。その胸元には、銀色のロケットペンダントが握りしめられていた。

 玲子は男の背後に立ち、そっと自分のビニール傘を差し出した。

 雨音が、傘の幕によってふっと遠ざかる。


「……風邪をひきますよ」


 玲子が発したのは、作り込んだ「聖母」の声だった。

 低すぎず、高すぎず。相手の鼓膜を優しく撫でるような、慈愛に満ちた周波数。

 男の肩がビクリと跳ねた。

 彼は驚いたように顔を上げ、振り返った。


 雨に濡れた髪が額に張り付いている。

 色白で、線の細い顔立ち。整ってはいるが、どこか神経質そうで、頼りなげな印象を与える男だった。その瞳は涙で赤く腫れ上がり、焦点が定まっていない。

 日矢倉ひやくらとおる。それが、この哀れな男の名前だった。


「……え?」

「こんなに濡れて。お辛いのはわかりますけど、あなたが倒れてしまっては、眠っている方も悲しまれますよ」


 玲子はハンカチを取り出し、亨の濡れた頬を拭った。

 ためらいのない、自然な接触。

 亨は呆然と玲子を見つめている。彼からすれば、灰色の絶望の中に、突然光が差し込んだように見えたに違いない。落ち着いた様子の玲子の目は、計算された角度で細められ、悲しみを共有するかのように潤んでいる(ように見せている)。


「き、君は……?」

「通りがかりの者です。……私も、大切な人を亡くしたばかりで。あなたの背中を見たら、他人とは思えなくて」


 嘘だ。玲子の両親は健在だし、何なら絶縁状態だがSNSを拝見するとピンピンしている。

 けれど、亨の瞳が揺らいだのを見て、玲子は確信した。フックがかかった。

 亨は震える手で、自分の胸元のロケットペンダントを握り直した。


「そ、そうなんだ……君も……」

「はい。辛いですよね。世界にたった一人残されたような気がして」

「そう! そうなんだよ! 僕をわかってくれる人がいるなんて……!」


 亨は縋り付くような目で玲子を見た。

 誰が死んだのか、いつ死んだのか、そんな具体的なことは聞かない。聞けばボロが出るし、相手に喋らせた方が情報は引き出せる。

 玲子はただ、雨の中で濡れた子犬を拾うように、優しく微笑み続けた。


「少し、場所を変えませんか? 温かいお茶でも飲みましょう」

「あ……うん。そうだね。ありがとう……」


 亨は素直に立ち上がった。その足取りはふらついており、玲子が腕を支えてやらなければ転びそうだった。

 玲子の腕に、男の体重がかかる。

 重い。けれど、この重みは「突破口」の重みだ。

 

+++


 霊園近くの喫茶店に入り、温かいコーヒーが運ばれてくると、亨はようやく落ち着きを取り戻したようだった。

 濡れた上着を脱いだ彼は、仕立ての良いシャツ姿になった。カフスボタンが照明を反射して光る。

 

「僕は。あのまま、死んでしまってもいいとさえ思っていたんだ。でも君に…」

 亨は自嘲気味に笑い、コーヒーに口をつけた。

「僕は日矢倉亨といいます。君の名前は?」

「……レイ、と呼んでください」


 玲子は偽名を名乗った。本名を知られるわけにはいかない。

「レイさん……素敵な名前だ」

 亨はうっとりとした目で玲子を見つめた。その視線には、異性に対する欲望というよりは、何か神聖なものを崇めるような熱がこもっていた。


「あの、日矢倉さんは……その、お仕事は?」

 玲子はさりげなく切り出した。ここが重要だ。金持ちに見えても、実態が自転車操業の経営者では意味がない。

 亨は少し照れくさそうに、胸ポケットから名刺を取り出した。


『日矢倉美容クリニック 院長 日矢倉 亨』


 玲子は名刺を受け取り、内心でガッツポーズをした。

 美容形成外科医。しかも院長。

 大当たりだ。これ以上の「一等賞」はない。

 金があるだけではない。「顔を変える技術」を持っているのだ。

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