第23話 剥がれ落ちた聖女の仮面
カレンは「ちょっと着替えてくるね」とカメラに告げ、寝室の奥にあるウォークインクローゼットへと向かった。
分厚い扉を閉める。
鍵をかける。
完全なる密室。ここにはカメラもマイクもない。
「……ッあーーーーーーーー!!!」
カレンは手近にあった予備の布団に顔を埋め、絶叫した。
音を殺した叫びが、喉を焼き尽くす。
彼女はそのまま布団を拳で何度も殴りつけた。ドス、ドス、という鈍い音が、狭い空間に響く。
一分間ほど暴れ回った後、彼女は荒い息を吐きながら壁にもたれかかった。
壁には、マネージャーが貼り付けた「カンペ」がびっしりと並んでいる。
『Day314:00~ 将来の夢について語り合う』
『NGワード:金、男、酒、ブランド名』
『喧嘩の仲裁パターンB:ミウが泣いて、カレンが抱きしめる』
カレンは震える手で、隠してあったヒップフラスコを取り出した。中身は度数の高いウォッカだ。
それを一気に煽る。
カッ、と食道が熱くなり、ようやく手の震えが止まる。
「やってらんないわよ、マジで……」
独り言が漏れる。
鏡の前で、ひきつった表情筋を指で揉みほぐす。笑顔の作りすぎで、頬が痙攣を起こしていた。
コンシーラーを取り出し、飲酒で浮き出てきた肌の赤みを丁寧に消していく。
最後に目薬をさし、瞳を潤ませる。
深呼吸を三回。
鏡の中には、再び「聖女カレン」が戻ってきていた。
ガチャリ。
クローゼットを出た瞬間、彼女は完璧なアイドルとしてリビングに戻っていく。
入れ替わりに、今度はリナが入ってくる。
彼女は入るなり、隠していた電子タバコを深く吸い込んだ。
紫煙を吐き出し、手で仰いで煙を散らす。
スマホを取り出し、SNSの裏垢で『ダルすぎ』『視聴者のコメキモい』と書き込む。
そしてまた、笑顔を作って出て行く。
四人は交代でこの「減圧室」を利用し、なんとか精神の均衡を保っていた。
だが、そのサイクルも限界に近づいていた。
+++
配信最終日、三日目の昼下がり。
リビングに無機質なアナウンス音が響き渡った。
『ピンポンパンポーン。視聴者の皆様にお知らせします。ただいまより、システムメンテナンスのため、30分間メインカメラの映像を停止いたします。配信再開までしばらくお待ちください』
それは、事務所が設定した「公式の休憩時間」だった。
もちろん、視聴者には「機材トラブル」や「システム調整」として告知されているが、実際は演者たちを休ませるための措置だ。
モニターの赤いランプが消える。
その瞬間。
「あーーーーーー、クソッ! やってらんねー!」
ミウが叫び声を上げ、着ていた清楚なカーディガンを脱ぎ捨てた。
四人は一斉に、リビングのソファへ雪崩れ込むように倒れ込んだ。
糸が切れた操り人形のように、四肢を投げ出す。
もはや、そこには「アイドル」の欠片も残っていなかった。
「マジでダルい。何なのあのコメント。『ミウちゃん今日元気ない?』とか。うるせーよ、お前ら園児のためにアイドル演じてんだよ」ミウは行儀悪くテーブルの上に足を投げ出し、クッションの裏に隠していた電子タバコを取り出した。
慣れた手つきで吸い込み、天井に向かって煙を吐く。
甘ったるいフルーツ系の香りが、アロマの香りと混じり合い、奇妙な悪臭となって部屋に充満した。
「さっきのコメント見た? 『リナちゃん肌荒れてない?』だって。死ねよ」
リナが、カメラの横に設置されたタブレットを睨みつけながら悪態をつく。
彼女はスナック菓子の大袋を開け、ボリボリと貪り食った。
「あー、ムカつく。この配信終わったら、エステ代と慰謝料請求してやる」
リーダーのカレンは、手に持っていた台本を床に叩きつけた。
バシッ、という乾いた音が響く。
彼女は血走った目で、最年少のサクラを睨みつけた。
「おいサクラ。あんたさっき、私の立ち位置被ったでしょ」
「えー? そうでしたっけぇ?」
サクラは手鏡でメイクを直しながら、生返事で答える。
その態度は、カレンの神経を逆撫でするに十分だった。
「とぼけんじゃねーわよ! あんたもっと私を引き立てなさいよ。自分が主役になろうとしてんじゃないわよ!」
カレンの怒号が飛ぶ。
しかし、サクラは動じるどころか、薄ら笑いを浮かべて顔を上げた。
「はいはい、わーってますよオバサン」サクラはカレンに向かって、中指を立てて見せた。
「あ? なんだその口の利き方は」
「うるさいなぁ。人気投票、私が一番上だったの気にしてるんですか? 惨めですねぇ」
「殺すぞテメェ……!」
罵詈雑言が飛び交う、地獄のようなリビング。
テーブルの上には、飲みかけの酒の空き缶が転がり、スナック菓子のクズが散乱している。
床には、叩きつけられた台本と、彼女たちがストレス発散のために書き殴った「悪口リスト」のノートが無造作に放り出されていた。
そこにあるのは、若さゆえの美しさではない。
欲望と嫉妬、そして疲労が煮詰められた、ヘドロのような人間関係の縮図だった。
彼女たちは完全に油断していた。
「メンテナンス中」という言葉を信じ、カメラのレンズが閉じていると確信していた。
だが。
ウィーン……。
微かな駆動音が、部屋の隅で鳴っている。さっきからずっと。
彼女たちの罵り合いにかき消され、その音に気づく者は誰もいなかった。
部屋の隅にある充電ドックから、ロボット掃除機『サンバ』が静かに発進した。
メンテナンス中のはずなのに。
いや、メインカメラは確かに止まっていた。
だが、この『サンバ』は、独立した回線を持っていた。
設定ミスなのか、それとも誰かの作為なのか。Wi-Fiに接続された『サンバ』のカメラ機能が、この瞬間、密かに起動していたのだ。
『サンバ』の「目」が青白く光る。
その映像は、停止中のメイン画面に代わり、全世界の視聴者の元へ、発信者不明に偽装されたチャンネルへと垂れ流され続けていた。
床すれすれの低い視点――ローアングルから、『サンバ』は獲物を狙う獣のように近づいていく。
まるで意思があるかのように、障害物を避けて進む。
画面に映し出されたのは、あまりにも衝撃的な光景だった。
テーブルの上に投げ出された、ミウの行儀の悪い足。
床に散らばる、カレンが叩きつけた台本。その表紙には「感動のフィナーレ台本」の文字。
そして、「悪口リスト」と書かれたノートのページ。そこには『ファン=金づる』『マネージャー臭い』といった筆跡が鮮明に読み取れる。
視聴者たちが凍りつく中、『サンバ』はさらに奥へと進む。
鬼のような形相で罵り合う、美しいアイドルたち。
その姿を、下からのアングルが残酷なまでに強調する。
二重顎になるほど歪んだ口元、充血した目、額に浮き出た青筋。
普段の照明と補正の効いたカメラでは決して映らない「現実」が、そこにあった。
「だいたいねえ、リナのその服、私のパクリでしょ?」
「はあ? 自意識過剰なんですけど。てか口臭いよカレン」
「んだとコラ!」
『サンバ』は、怒り狂って立ち上がったカレンの足元に忍び寄った。
そして、障害物を避けるような動作で、カレンの足元でクルリと回転した。
そのカメラが真上を向く。
映し出されたのは、ショートパンツを履いたカレンの生足だけではない。
もっと恐ろしいものだった。
下から見上げた、カレンの素足と素顔。
アイドルとしての虚飾をすべて剥ぎ取られ、憎悪に歪みきった、般若のような形相が、画面いっぱいに鮮明に映し出された。
その謎チャンネルの映像は一瞬でSNS上に広がった。メインカメラの「メンテナンス画面」を待ちわびていた数十万人の視聴者が一斉になだれ込む。そしてその網膜に、強烈な焼き印を押すことになった。
まだ、四人は気づかない。
自分たちの破滅が、足元から静かに、確実に始まっていることに。
リビングには、彼女たちの汚い罵り声と、それを世界に届ける『サンバ』の静かなモーター音だけが響いていた。




