第19話 天使たちの抜け殻
「……はあ、マジで疲れた」
カレンが玄関のドアを閉めた、その瞬間だった。
先ほどまでの音叉が震えるような可憐な声色は消え失せ、地を這うようなドスの効いた低い声が吐き出された。
彼女は履いていたヒールを乱暴に脱ぎ捨てると、足先で蹴って適当な位置に転がした。
「おい、誰だよ。昨日のゴミ出し当番。玄関まで臭ってんだけど」
カレンが舌打ち混じりにリビングへの扉を開け、照明のスイッチを入れる。
パッと明るくなった視界に広がったのは、先ほどの感動的な「青春」とは対極にある、地獄のような光景だった。
そこは、足の踏み場もないほどのゴミ屋敷だった。
広々とした2LDKのリビングダイニングは、コンビニ弁当の空き容器、飲みかけで変色したペットボトル、脱ぎ散らかしたストッキングやレッスン着、そして雑誌や宅配便のダンボールで埋め尽くされている。
ダイニングテーブルの上には、いつ食べたかわからないカップ麺の残骸が放置され、スープの油が固まって膜を張っている。
高価そうなフローリングの床は見えず、部屋全体に澱んだ生活臭と、安っぽい芳香剤の匂いが混じり合った奇妙な悪臭が漂っていた。
「あーあ、だる」
センターのミウが、ソファの上に積み上げられた洗濯物の山――取り込んで畳むのを放棄された服の地層――を、無造作に足で押しのけた。
雪崩を起こして床に落ちた服を踏みつけ、ミウは空いたスペースにドカリと座り込む。
そして、持っていたレッスンバッグから一冊の分厚いファイルを放り投げた。
バサッ、とテーブルの上のゴミの上に落ちたそのファイルには、太字でこう書かれている。
『【極秘】"It is the truth." ドキュメンタリー収録用 進行台本・ハプニング指示書 Vol.3』
「ねえ、今日の私の『足くじく演技』どうだった? タイミング完璧じゃなかった?」
ミウがスマホを取り出し、自撮りカメラで前髪を直しつつ自画自賛した。
その顔に、先ほどまでの「あどけない天使」の面影はない。口角はだらしなく下がり、目は獲物を値踏みするような鋭さを帯びている。
「ああ、よかったんじゃない? カメラ位置もバッチリだったし」
カレンが冷蔵庫から缶チューハイを取り出し、プシュッと音を立てて開ける。リーダーとしての威厳は、今や場末のスナックのママのような貫禄に変わっていた。
カレンは一口あおると、睨めつけるような視線を最年少に向けた。
「それよりサクラ、あんた泣くの早すぎ。私の『みんな、ありがとう』ってセリフと被ってたんだけど。音声さんが困るでしょ?」
叱責されたサクラは、部屋の隅で高級ブランドのショップ袋を開けていた。中身を確認しながら、全く悪びれる様子もなく答える。
「えー、ごめんなさいぃ。でも監督がカメラ横で『もっと早く! 巻いて!』ってジェスチャー出すからぁ。しょうがないじゃん」
サクラはお尻をかきながらふてぶてしく鼻を鳴らし、スマホをいじり始めた。
画面には複数のマッチングアプリと、パパ活用のSNSアカウントが表示されている。
「ちっ、前のパパ、手当しょぼいな……次はもっと太客捕まえなきゃ」
健気な努力家という仮面の下には、最も腹黒く計算高い策士の顔があった。
ビジュアル担当のリナは、帰宅するなり身軽な下着姿になり、無言で冷蔵庫を漁っていた。
奥から取り出したのは、賞味期限が三日前に切れたコンビニのロールケーキだ。
「リナ、それやばくない? クリーム変色してない?」
ミウが指摘するが、リナは気にする素振りも見せない。
「平気。糖分足りないし」
彼女はフォークを使うことすら面倒がり、指で直接クリームをほじくって口に運んだ。
クールビューティーの売り文句が泣くような、下品極まりない食事風景。彼女は金遣いが荒く、ストレスを買い物と食欲で発散する悪癖がある。
四人がそれぞれの本性を晒け出す中、リビングの壁に埋め込まれたタッチパネル式の管理端末――AIコンシェルジュ端末が、青白く、不気味に明滅していた。
それは、ただ静かに、彼女たちの醜態を見つめている。
この部屋で交わされる会話、散乱するゴミ、そして「台本」という名の嘘。そのすべてを、無数の「目」が見守っていた。
「あーあ、早くデビューして金持ちになりたい。こんな共同生活、マジでうんざり」
ミウが天井を仰いで吐き捨てた。
その言葉は、四人の共通認識だった。
「わかる。プライベートないとか無理」とリナが指についたクリームを舐めとる。
「ホントそれな。ファンとかマジでATMにしか見えないし、早く回収フェーズに入りたいわ」とサクラが毒づく。
「そのためには、このクソみたいな『密着ドキュメンタリー』を成功させなきゃなんないのよ。……あ、明日マネージャー来るんだっけ?」
カレンが思い出したように言った。
明日からはいよいよ、この嘘にまみれたドキュメンタリー企画のクライマックス、『72時間完全密着生配信』が始まることになっている。
研究生たちが一つの屋根の下、衝突し、和解し、デビューに向けて絆を深めていく感動のリアルタイム・ドキュメンタリー。
もちろん、そのすべてが『It is the truth.』というタイトルのファイルに記された、精巧なフィクションであることは、ここにいる四人とごく一部の大人たちしか知らない。
「ま、なんとかなるでしょ。私たち、女優志望じゃないけど演技力だけは鍛えられたし」
ミウがケラケラと笑い、テーブルの上のファイルを足先でつついた。
ファイルがめくれ、「ハプニング指示書:深夜の涙ながらの告白タイム」というページが露わになる。
「さ、今日はもう寝よ。明日は『解散ドッキリ』の撮影だから、泣いても崩れないメイク仕込んでおかないと」
「めんどくさー」
「お風呂入るのたるいなぁ……誰か私の体洗ってよ」
「自分でやりなさいよ」
罵詈雑言と本音が飛び交う、掃き溜めのような304号室。
壁の端末のカメラレンズが、冷ややかな光沢を帯びて、四人の私生活をじっと見据えていた。




