第18話 絆の強さ
レッスンスタジオの床を、ラバーソールが激しく擦る音が響き渡る。
張り詰めた空気の中、荒い息遣いだけが支配していた。
壁一面の鏡は、四人の少女たちの熱気で白く曇り始めている。
「ワン、ツー、スリー、フォー! まだ止めない! 笑顔を崩すな!」
鬼コーチと呼ばれる女性トレーナーの怒号が飛ぶ。
BPMの速い課題曲が、心臓の鼓動を急き立てるようにクライマックスへと向かう。
四人の動きは限界を超えていた。だが、誰一人として膝をつく者はいない。
センターに立つミウが、あどけない笑顔を弾けさせながら指先まで神経の行き届いたポーズを決める。
その左隣で、ビジュアル担当のリナが長い髪を美しくなびかせ、クールな流し目を鏡の向こうの仮想観客へと送る。
右翼を守る最年少のサクラは、小柄な体を一杯に使って、健気さと躍動感を全身で表現している。
そして、その全体を統率するように、リーダーのカレンが完璧なタイミングでフォーメーション移動の合図を目線で送っていた。
ジャンッ、というフィニッシュの音が鳴り止むと同時に、四人はピタリと動きを止めた。
数秒の静寂。
誰もが肩で息をしているが、その表情には達成感に満ちた輝きがあった。
「……はい、オッケー。今日はここまで」
トレーナーの厳しい表情がふっと緩み、短く拍手をした。
「よく耐えたわね。今のパフォーマンス、今までで一番良かったわよ」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、四人はその場に崩れ落ちた。
しかし、それは敗北の姿ではない。互いに顔を見合わせ、堰を切ったように歓声が上がる。
「やったぁ……!」
「私たち、やっとここまで来れたね……!」
リーダーのカレンが、感極まったように瞳を潤ませた。大粒の涙が、汗で濡れた頬を伝って流れ落ちる。
すぐさま最年少のサクラが駆け寄り、カレンの肩を抱いた。
「カレンちゃん、泣かないでよぉ。もらい泣きしちゃうじゃん……」
「だって、あんたたちが……あんなに頑張るから……」
「もう、バカだなぁ」
ミウとリナも駆け寄り、四人は床に座り込んだまま円陣を組むように身を寄せ合った。
互いの背中を叩き、健闘を称え合う。
汗と涙にまみれたその姿は、誰もが憧れる「青春」そのものだった。
大手芸能事務所、アススター興業。
そこが主催した今回の大規模オーディションは、過酷を極めるものだった。
応募総数一万二千人。
書類審査、実技審査、合宿審査。その過程で多くの少女たちが涙を呑み、脱落していった。
親友だと思っていたライバルを蹴落とし、精神をすり減らしながら勝ち残ったのが、この四人だ。
彼女たちの背中には、夢半ばで散っていった数千人の少女たちの想いが乗っている。だからこそ、彼女たちの絆は鋼のように固い――誰もがそう信じて疑わない光景が、そこにはあった。
「あ、やば。汗拭かなきゃ……あれ?」
サクラが慌てて自分のバッグを探るが、あるはずのものがない。
「うそ、タオル忘れたかも……」
困ったように眉を下げるサクラ。
その瞬間だった。
カレン、ミウ、リナの三人が、示し合わせたように一斉に自分のタオルを差し出したのだ。
「これ使いなよ!」
「私の貸すよ、まだ綺麗なとこあるし!」
「はい、サクラ」
三方向から差し出されたタオル。
サクラは目を丸くし、それからくしゃりと顔を歪めた。
「みんな……」
「あはは! 被ったね!」
「どんだけ過保護なのよ、私たち」
四人の笑い声がスタジオに響く。
サクラは三人の優しさに感動し、また泣き出してしまった。それを三人が「よしよし」と頭を撫でて慰める。
窓から差し込む夕日が、彼女たちをドラマチックに照らし出していた。
それはまるで、一枚の宗教画のように美しく、尊い光景だった。
「はい、カーーット! 一旦カメラ止めよう!」
その瞬間、宗教画のような静寂は、ディレクターの野太い声によって現実へと引き戻された。
スタジオの空気がふっと緩む。
彼女たちを取り囲んでいたのは、巨大なレンズを担いだ二人のカメラマンと、長いブームマイクを差し出す音声スタッフ。そして照明用のレフ板を持ったADたちだった。彼女らを追った密着取材の撮影が行われている。
「いやー……今の、すごく良かったよ」
ディレクターが、わざとらしく目尻を指で拭う仕草を見せながら歩み寄ってくる。
その声色は感動に震えているようだったが、カレンたちと目が合った一瞬だけ、口の端をニヤリと釣り上げ、親指を立てて見せた。
それは、カメラの死角で行われた『OKテイク』の合図だ。
「ありがとうございます……!」
サクラがまだ涙の残る瞳で、健気に頭を下げる。
周りのスタッフたちは、その純粋な姿に完全にほだされていた。
「いい画が撮れましたね……」とカメラマンが深く頷き、女性ADに至っては本気でもらい泣きして鼻を啜っている。
彼らにとっても、これは「奇跡的に撮れた感動のドキュメンタリー映像」なのだ。
「みんな、お疲れ様。ハードなレッスンだったのによく頑張ったな」
ディレクターが労うように、リーダーのカレンの肩をポンと叩く。
「明日も、カメラ回すからな。……《《いつもの》》、仲の良い君たちらしく頼むよ」
「はい! もちろんです!」
カレンが聖女のような微笑みで即答し、ミウとリナも「任せてください!」と可愛らしくガッツポーズを作る。
その完璧な連携に、とある事情を知らないスタッフたちは「本当に仲が良いグループだなぁ」と感嘆の眼差しを送っていた。
「じゃあ、送りの車待たせてあるから。忘れ物ないようにな」
「はーい!」
スタジオを出て、廊下を歩く彼女たちの背中を、スタッフたちの温かな拍手が見送る。
「絶対デビューしてほしいですね」
「あの子たちなら行けますよ」
そんな無邪気な応援の声が聞こえる距離を抜けるまで、彼女たちは背筋を伸ばし、互いに手を取り合って歩き続けた。
その横顔は、夢に向かってひた走る少女たちの、希望に満ちた表情そのものだった。
事務所が手配した黒塗りのワンボックスカーが、エントランスで待機している。
マネージャーがスライドドアを開け、彼女たちを招き入れた。
「お疲れ様。さ、乗って」
四人は順番に乗り込む。
重厚なドアが、電動音を立ててゆっくりと閉まり始める。
閉まりゆく隙間から、見送りのスタッフたちに最後まで手を振り続けるサクラとミウ。
バン、とドアが完全に閉まり、ロックがかかる音がした。
スモークガラスによって外の世界と遮断された、完全な密室。
車がゆっくりと発進する。
その瞬間、車内の空気がふっと緩んだ――わけではない。
むしろ、真空のような無機質な沈黙が満ちた。
激しいレッスンの疲労と、何時間も笑顔を張り付かせていた顔面筋肉の痛み。
四人は示し合わせたように、真顔でそれぞれのスマホを取り出し、ただ無言で画面をスクロールし始めた。
そこにはもう、互いを励まし合う仲間同士の会話など存在しない。
都心の喧騒を離れ、車は次第に緑の多い閑静なエリアへと入っていく。
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到着したのは、高級住宅街の一角に異様な存在感で佇む低層マンションだった。
『レジデンス・アルゴス』。
重厚な石造りの外観は、見る者を圧倒する威圧感と、歴史ある美術館のような気品を兼ね備えている。
エントランスには、孔雀の羽を模した巨大なオブジェが飾られていた。その羽の一枚一枚にある目玉のような模様が、帰宅した住人を見下ろしている。
「お疲れ様でしたー」
「ありがとうございまーす」
運転手に礼儀正しく挨拶をし、四人は車を降りた。
オートロックの操作盤の前に立つ。
カレンが慣れた手つきで解除コードを入力し、重厚なガラス扉が開いた。
コツ、コツ、とヒールの音が大理石の床に響く。
エレベーターに乗り込み、「3」のボタンを押す。
扉が閉まり、密室となる。
LEDの階数表示だけが、静かに数字を変えていく。
チン、という到着音と共に、3階のホールへ。
一番奥にある部屋、304号室。
ここが、デビューを控えた彼女たちに事務所が用意した「寮」であり、生活の拠点としている場所だ。
カレンが鍵を開け、ドアノブを回す。
ガチャリ、という金属音が、物語の「幕」を下ろす合図だった。




