不良と人形と人殺しと
◇◆◇◆
「うん……、うん……。わかってる。それじゃあ来月に。……うん」
通話を切って時間を確認してみる。通話時間はおよそ三分半。五分にも満たない短い会話だったのに、永遠のように長く感じられた三分半だった。
「なんだって?」
旦那との通話が終わったのを見計らって、ダイちゃんが訊ねて来た。私はどう答えようかと悩むものの、しかしようやく本当の家族になってくれた実の息子に嘘はつけないと、通話の内容を正直に話す。
「来月、一度うちに戻って来るって」
「それで?」
「……」
「うちに戻って来てどうなんの?」
「……」
「離婚?」
「……」
しばらくの沈黙を経て、私は「多分」という言葉を添えながら静かに首を縦に振った。
「あ、そ」
そんな私を見て、バツが悪そうに俯くダイちゃん。実の息子のそう言う顔が見たくなかったから、一瞬嘘を吐こうかと悩んでいた筈なのに。ちゃんとした母親なら、こういう時どんな風に答えていたのだろう。28にもなってそんな事もわからない私に、果たして母親としての資格はあるのだろうか。
「ごめん」
「え……。ち、違うよ。ダイちゃんは悪くなくて」
「いや、俺が悪いんじゃん」
「……」
「俺だけが悪いんだろ」
「……」
「ごめん」
「……」
今の旦那は、ダイちゃんという連れ子の存在を認知した上で私の事を受け入れてくれた。商社勤めで出張や単身赴任も多い身だから、春頃までの荒れていたダイちゃんの姿も知らない人だ。ダイちゃん自身、稀に旦那が帰って来た日には静かな自分を演じていたものだから、まさかこの子に盗みや暴力を平気で働いていたような時期があっただなんて、微塵も思っていなかっただろう。
でも、例の事件があってからはいよいよ我が家の荒れた環境を隠し通す事が出来なくなった。何十万もの家のお金にダイちゃんが手をつけていたのがバレ、ダイちゃんの普段の素行の悪さもバレ、そして。
「……あ。お兄ちゃんお母さん、おはよう……ふわぁ……っ!」
アキを引き取り、娘として育てて行くつもりだという私の意思もあの人に打ち明けた。
だからこれは、当たり前な話だ。私達が暮らすこの家は旦那の物で、私達の生活費だって旦那が稼いでくれた物。それなのにこの家で暮らす私達は、旦那だけが血縁関係の蚊帳の外。あの人の人生はあの人の物でなければならないのに、血縁関係のない私達があの人の人生に根を張るのは、あまりにも強欲な事だから。
「おはようアキちゃん。ご飯の支度するから、早く顔洗っておいで」
「はーい……」
私は寝ぼけ半分のアキが洗面所へ向かう姿を見届けてから朝食の準備に。
「…………いっ……」
取り掛かろうとしたその時。下腹部と腰に張り詰めたような鈍痛がのしかかる。
別にその痛みに対して不思議に思う事はない。女として生まれた以上、月に一度は必ず訪れる、閉経するその日まで付き合い続けなければならないあの痛みである。
28年間の人生の中で、私は人より痛みが重く長引く事も知っているから、こう言う日の為に鎮痛剤だって常備してある。薬を飲んで少し休めば動けるようになるし、パートの時間までに少しでも痛みが引いてくれればいいんだけど……と。いつもならそれで終わる筈の問題だった。
「……え」
でも、その日は違った。主に額を中心に体のあちこちから大粒の冷や汗が滲んで来て、視界もぼんやりとしている。感覚で理解出来た。このままだと後数秒で私は気を失うと。
こう言う時、どうすればいいんだっけ。とりあえず頭を下にして脳に血を送らないと。こうしている間にも、どんどんと視界が黒に染まっていっている。……あれ、でも下ってどこだろう。上下感覚がわからない。視界を頼りにしようにも、肝心の視界がぼやけてしまって。
「……」
それで……。
「……………………」
声が聞こえた。
「はい。今日は行けそうにないです」
懐かしい気持ちだ。
「忙しい中、当日に急な事を言ってしまって申し訳ありません。今日は大事をとって一日安静にさせておきます。……はい」
小学生の頃に感じたあの気持ち。風邪で寝込んでいる隣で、母が小学校にお休みの連絡を入れているのを聞いた時のあの気持ちだ。
「……あの! 俺で良ければその……、手伝いますけど。一応親戚の焼肉屋とか手伝ってますし、人並みには働けると……。え、あー……はい。その……、小学生です。はい」
皆んなが学校に行く中、自分は堂々と学校を休めるんだと思うと、熱の不快感や喉の痛みも忘れてとてもワクワクしてしまう。子ども番組なんてとっくに卒業しているのに、母に看病してもらいながら見る、平日のNHK教育テレビがやけに面白く感じてしまうのだ。
「……いえ、とんでもないです。いつも母がお世話になっているのはこっちですし。……はい」
……それでだ。どうして私は急にこんな気持ちになれたのかと言うと。まぁ、恥ずかしい話が思い当たる原因があれしかなくて。
「はい。ありがとうございます。お仕事頑張ってください。……はい」
私は姿も見えない相手に、電話越しにペコペコと頭を下げる彼の方へと視線を向ける。
「……ダイちゃん」
私に声をかけられたダイちゃんは、驚いたように目を見開きながら電話を切って私の方へと歩み寄った。
「お袋。大丈夫か?」
「……えっと。大丈夫だけど……。今の電話は?」
「お袋のパート先。今日は休むって連絡入れといた」
「え……。何でそんな勝手に。……だ、ダメだよ。これからはお金だって色々掛かって」
私はそう遠くない未来に離婚する。誇れる学歴もなければ、28年も生きた大人なら当然埋まっていなければいけない職歴だって空白な身である。そんな状態での離婚ともなれば、頭の中を埋め尽くすのはいつだってお金の心配事ばかり。今は少しでもお金を貯めなければならない状況なのだから、こんな生理痛なんかで休むわけには……。
そう思って私は思わず起き上がってしまうのだけれど。
「いたっ……!」
それでもやはり、体を蝕む痛みが気力程度でなくなるわけもなくて。
「無理すんなよお袋。わかってんのか? 倒れたんだぞ?」
「……」
「一日くらい安静にしてろよ」
「……」
私は上体をゆっくりと倒して、静かに布団の中へと戻っていった。
「……ダイちゃん」
「何?」
「電話の言葉遣い、凄い丁寧だったね。お母さんびっくりしちゃった」
「まぁ焼肉屋って接客業だし、言葉遣いは向こうで色々叩き込まれたから」
「……そうなんだ。それとダイちゃん……、聞き間違いなのかも知れないけど、もしかしてお母さんの代わりに手伝いに行こうとかしてなかった?」
「ん、んー……。それはその……まぁ。小学生つったら断られたけど」
「……当たり前だよ」
頬を引き攣らせながらそう語るダイちゃんの姿に、少しだけ笑ってしまいそうになった自分がいた。なんか、久しぶりだ。ダイちゃんのこういう顔を見るのって。あの事件があってから、ダイちゃんは私を置いてどんどん大人になって行ったから。今だって倒れた私の為に……あれ。そういえば私が倒れたのって。
「……ねぇ」
「今度は何?」
「えっと……、そういえばここ、お母さんの部屋だから。お母さん、リビングで倒れたんだよね?」
「あー、気にすんなよ。お袋軽かったし」
「……」
「つうか軽すぎてこっちがビビった。ちゃんと食ってるか?」
「ん。大丈夫。ちゃんと食べてるよ」
「なら良いんだけど」
と、その時。家の奥から「お兄ちゃーん!」と叫ぶアキの声が響いて来た。時計を見てみると、今の時刻は八時五分前。40分近くも眠っていたのか。子ども達もそろそろ学校に行く時間だ。こんな所で寝てなんかいられない。
「……そうだ。私、まだ朝ご飯の用意もしてない……」
私はついさっき息子に注意されたのも忘れ、再び上体を起こしてしまうものの。
「いや、俺がやっといたから」
ダイちゃんはそんな私の肩を押し、再び布団の中へと潜り込ませた。
「ちょっとアキんとこ行って来る。お袋の飯も持ってくるからちゃんと寝てろよ?」
「……」
私は歳の割に頼りになり過ぎるそんな息子の背中を、黙ってジッと見つめる事しか出来なかった。
ダイちゃんがあんな風になってから、もう5ヶ月は経つのだろうか。かつて彼が見せてい暴力性や衝動性はすっかりと形を潜め、今では別人のように変わってしまった。それなのに今の彼の姿があまりにも自然体で、たった5ヶ月優しくされただけで、私は彼に虐げられたそれまでの数年間全てを無かった事にしようとさえ思えてしまっている。
私がとんだ親バカである事は、他でもない私が自身が一番よく理解していた。
かつてのダイちゃんからは、見た目からも内面からも、彼の実父の面影を何度も垣間見ていたものだ。きっと私だけでなく、私の知らない所でも私の知らない人を数多く傷つけていたに違いない。でも、そうだとしても私は彼を責めたいとは思えなくなっているのだ。
昔に見たお昼の報道番組で、いじめによる自殺が特集されていた事があった。自殺したいじめ被害者家族の悲痛な訴えを報道する反面、いじめ加害者の母親はと言うと『いじめなんてなかった』、『言いがかりだ、もう一度しっかり調査をして欲しい』と、こちらもまた被害者のような顔で子どもの無実を訴えていたのが、酷く印象に残っている。息子を愛する母というのは、ここまで太々しくなれる物なのかと憤りさえ覚えた程だ。
……でも、いざ自分がそちら側に立ってみると、私もあのいじめ加害者の母と同類なのだと思い知らされる。たった5ヶ月優しくされただけで、彼の全ての罪を洗い流したいと思えてしまっている。
親の責任を果たそうと。壊れた私達の関係をもう一度修復しようと、アキを引き取る事を選んだ私だけれど、私は親としてまだまだ未熟なのだと理解した。……いや。きっと親としてだけではなく、一人の大人としてもまだまだ未熟者なのだろう。
「お袋。飯持って来た」
少しして、卵粥の匂いを纏わせながらダイちゃんが戻って来た。子ども離れした彼の姿を見る度に、彼の異常なまでの成長具合には驚かされてばかりである。妹の面倒はよく見てくれるし、家事にも積極的に手をつけてくれる。私が目を覚ました時、既に食卓の上に三人分の朝食が並んでいた事だってこれまでに何度もあった。五ヶ月前の彼からは想像も出来ない不思議な光景だ。
本当に出来た子に成長してくれたと思う。それはもう、ダイちゃんが暴力的なあの人の子である事も、未熟な大人である私の子である事も疑ってしまいそうな程で……。
「……ありがとう」
「いいよ。こんくらい」
「ダイちゃん、お粥も作れるようになってたんだね。……ごめんね、わざわざ作らせて」
「だから別にいいって。バイトのまかない飯とかしょっちゅう作らされてるし、慣れてるから」
ダイちゃんはそう言いながら小型のテーブルを私のベッドに広げ、その上に手作りの卵粥を置いてくれた。
良い匂いだ。わざわざ一からお粥を作ってくれた辺り、私の体調不良の原因を風邪の悪化か何かだと思っているのだろうか。実際の所は今朝の電話……、今の旦那から明確な離婚の意思を示唆された事で、将来への不安が脳内を駆け巡った。短時間で過剰なストレスを受けた上に、それが元々重かった生理と重なった事で、心因性の気絶を引き起こしたのだと思う。それなのに風邪だと誤解され、わざわざお粥まで作らせてしまったわけか。
ご飯なんてありもので十分なのに、心配をかけるばかりかお粥を一から作らせてしまった罪悪感が胸を蝕む。けれどそれと同じくらい、11歳の子どもとは思えないくらいの気遣いをしてくれるダイちゃんの気持ちが嬉しくもあった、そんな平日の朝だった。
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