博愛の魔女 ⑪
『やめろ!』
『……』
『止まれカドリー! 行くな!』
『……』
『言う事が聞けないのか!?』
『……っ』
東京で何が起きているのかは、遠くの方から微かに轟くサイレンの音と人々の悲鳴、そして東京の上空を飛び交う無数の飛行物体及び過去の経験のおかげで、ぼんやりとだが嫌な予感を感じてしまった。そして、嫌な予感というのは概ね現実となり得るものである。私の脳裏に、空襲の二文字が浮かび上がる。
その予感が頭を過った時は、気のせいだと思った。……いや、気のせいだと思いたかった。確かに日本は過去に四回、米軍からの空襲を受けた事がある。
1942年、米軍による日本本土初空襲であるドーリットル空襲が一回と、1944年、安定した長距離航続を可能にした爆撃機B-29の開発により、福岡と沖縄と武蔵野での空襲が一回ずつの計四回だ。
しかしながらそれらの空襲は民間人の死傷者も出たとは言え、名目上は軍事関連施設や軍需工場の破壊を目的とした空襲である。だから私は現在進行形で東京を燃え尽くすあの戦火を目の当たりにしても、あれが米軍による空襲だと認識する事が出来なかった。米軍が攻撃を仕掛けるのは、軍隊やそれに関係する施設だけ。民間人が炎の標的にされる事は決してあり得ない。そんな根拠もない仮説を、真実だと勝手に思い込んでいた。
でも、東京に近づくに連れてサイレン音や人々の悲鳴、そして無数の爆撃音がより鮮明に、より鮮烈に私の鼓膜を叩いて来る。空中を飛び交う飛行物体の形も、はっきりと爆撃機の形である事が視認出来てしまった。そんな光景を目の当たりにしてまで、空襲が気のせいだと思える程、私は平和な女にはなれなかったのだ。
そして、その事はダイゴロウさんも気づいたのだろう。東京の下町へ。チヅちゃんとチヅのお爺さんがいるはずの銭湯へ向かって飛んで行く私を制止させるべく、ダイゴロウさんが私の前に立ちはだかる。まずは私達の跨る杖を掴み取り飛行の軌道を変えようとしたものの、しかしこの杖は箒で飛ぶ魔女をイメージしただけのお飾りに過ぎない。杖をいくら制圧しようが、私達の飛行は止まらないのだ。
杖の制圧による制止が無理だとわかると、今度は片手しかない不器用な体で私の顔を抱きしめて来た。私の視界を奪い、東京までの方角を狂わそうと思い立ったのだろう。
『止まれって言ってるんだ! カドリーッ!』
『やだぁ! 離して! チヅちゃんが死んじゃうっ!』
そして、その妨害は中々効果的面で、おかげで私は思うように前へ進む事が出来なくなってしまった。もしも東京での異変を気付いた瞬間にこの妨害策に打って出られたら、私は間違いなく東京へ辿り着く事が叶わなかっただろう。
でも、遅かった。私達は既に東京へ接近している最中であり、視覚が封じられても東京から響く禍々しい音が、私の進むべき方向を教えてくれたのだから。
『カドリーッ!』
『うあああああああああああああああああああっ!』
1945年3月10日午前01時02分。私はダイゴロウさんの妨害による大幅な遅延を乗り越えながら、炎と黒煙の渦巻く空襲圏内へと突入した。
『……カドリー』
その瞬間、私の視界を覆い塞いだダイゴロウさんの腕が、力なくだらんと垂れ下がった。ようやく諦めてくれたのかと、一瞬思いかける。しかし目下に広がる惨状を目にした事で、彼が私の制止を諦めた理由を理解してしまった。
『なんで……』
ダイゴロウさんが私を止めようとしていた理由は簡単だ。空襲という無差別爆撃から私の身を守ろうとしての事だった。
『どうして……っ』
それは言い換えれば、私の身の安全が保証されているのなら、ダイゴロウさんに私を止める理由はなくなる。私達が辿り着いたこの場所はもう、爆撃地ではなく爆撃後の焼け野原となっていたのである。
数々の建造物が倒壊し、今なお燃え盛る建物の隙間からは、肉の焼けた匂いがする。飢えを経験している私は、その焼けた肉の匂いの正体を理解してもなお、美味しそうという感情が僅かに芽生えてしまい、そんな自分の食い意地の悪さに吐き気を催した。
死体の数は、思ったよりも少なかった。それでも目に映るだけで数百を超える黒化した死体が目に入ったが、東京の街中である事を踏まえれば、たった数百体の死体というのは妙に数が合わない。ならば他の人達は無事避難に成功したのかと言えばそう言うわけでもなく、私はもう少し進んだ先の隅田川で、東京の人口に見合っただけの大量の溺死体を目にする事になったのである。
東京大空襲において、米軍は大きな円を描くように数十万発もの焼夷弾を投下していったのだと言う。爆撃の円に民間人を閉じ込め、円の外へ逃げられないように追い詰める為だ。炎の円に閉じ込められた人々は、灼熱の空気に肺を焼かれ、僅かな涼を求めて水辺に集まる。川の中に一人が飛び込むと、それに続いて数多の人の群れが一斉に川の中へと飛び込んでいったのだ。
最初の方で水辺に飛び込んだ人間は、後から飛び込んだ無数の人間に押し潰されて圧死した。後から飛び込んだ人間も、人ゴミの中では思うように泳ぐ事が出来ずに溺死した。辛うじて生き残った僅かな人間も、最後は爆円の中心に放たれた焼夷弾によって爆死した。この場所は、私達が到着する数十分も前に、そうやって数多の人間が命を落としていった。そうやってこの日は、午前00時08分から午前02時37分の間に、10万人近い命が東京から消え失せたのである。
視線を地平線の方へと向けると、遠方では未だに爆炎があがっている。この地の掃討は終わったものの、まだまだ他の地では依然空襲は続いているのだろう。なら私はそんな米軍から民間人を守る為に、再び爆撃地の方へと飛んで行ったのかと言うとそうでもなく。
『チヅちゃん……っ!』
私は焼け野原と化した下町の一箇所、私達が宿を取っていた銭湯があったはずの場所へと飛び立つのだが。
『カドリー』
ダイゴロウさんの力ない声が、私の耳に纏わりついた。
『諦めるんだ。ここもまた焼夷弾が落ちて来ないとも限らない。早く家に帰ろう』
『嫌よっ!』
私は渾身の声を捻り出して、彼の言葉を拒絶した。
『何でそんな事言うの!? チヅちゃん達がまだ生きていたらどうするのよ!?』
『生きているわけないだろ。こんなに死体が転がっているんだぞ。その中でたまたま中田さん達が生きているなんて、そんな都合のいい事があってたまるか。俺達だけでも安全な所に』
『うるさーーーーいっ! あってたまるかって何よ!? 私達だけ安全な所にって何よ!? ダイゴロウは二人が死んでた方いいの? 二人はもう死んだって事にして、自分だけ安全な所に逃げたいの!?』
『……』
『ダイゴロウの事逞しくなったって言ったけど、私の勘違いだった……。やっぱりダイゴロウは冷たくなったのよ。何でチヅちゃん達は東京に来たの? 私の為にお別れ会がしたくて、それで来る必要もない東京に来たんじゃない。そのせいでこんな事に巻き込まれたんじゃない。黙ってお別れしていればこんな事にはならなかったのに……っ。そんな二人を見捨てて自分達だけ逃げようって何よ!? そこまでしてダイゴロウは生きたいの!?』
『……』
『ダイゴロウの馬鹿……っ。私は絶対に見捨てないから』
私は銭湯のあった方角目指してスピードを上げた。
銭湯の跡地は、思いの外早く見つかる事になる。下町中が爆撃を受け、焼け爆ぜた家屋やそれらの残骸で道はめちゃくちゃ。自分達がどこを飛んでいるのかもわからない惨状ではあったものの、しかし銭湯があった大まかな方向、銭湯の近くを流れる大きな川、そして瓦礫に混じって倒れている煙突だった物のおかげで、すぐにその場所が銭湯跡地だと理解出来たからだ。
『チヅちゃんっ!』
私はすぐさま杖から降り立ち、崩壊しきった瓦礫の山に飛び込む。
『チヅちゃん! どこ!? いるんでしょ!』
まずは自分の手のひらで投げ捨てられる大きさの瓦礫を拾い上げ、崩れた銭湯を掘っていった。
『返事してよチヅちゃん! チヅちゃーんっ!』
小さな瓦礫を除去した後は、両手を使わないと拾えない瓦礫。両手を使わないと拾えない瓦礫を除去した後は、全身のバネを利用しないと動かせない大きな瓦礫。しかし。
『痛……っ!』
崩れた家屋を手で掘り上げるというのは、尖った瓦礫や砕けたガラス、建物に使われた無数の釘が入り混じった針地獄に素手を突っ込むようなもので、私の両手はあっという間に擦り傷と切り傷の入り混じったガラクタへと変貌を遂げた。
私が普通の人間の子どもなら、ここが私の限界だったと思う。10歳になったばかりの女の子。それは本来誰かに守られるべき対象なのであって、誰かの役に立てるような力なんて到底ない。そんな非力な人間に出来る事なんて、何もないのだ。
でも、私はただの人間ではないのだ。魔法を使える魔女なのだ。痛覚なんて魔法でいくらでも誤魔化せる。腕力だって魔法でいくらでも底上げ出来る。……違う、絶対に出来ないといけない。ここで私が失敗したら、誰も助ける事が出来ない。私に出来ない事なんて、あっていい筈がないんだと。
そんな全能感にも似た傲りが胸の中を満たした時、妙な力が湧いてくるのを感じた。そして。
『ゼルルーッ!』
私は呪文の詠唱さえも忘れていたのに、自分が思う通りの魔法を、今までの私では信じられない程の出力で使えるようになっていた。
まるで重力が逆向きになったかのように、目の前の瓦礫が浮かび上がった。まるで神経そのものが消え去ったかのような極度の鎮痛作用が迸り、私の体から痛みを消し飛ばした。まるで心臓の中に直接動力炉でも埋め込まれたかのように、莫大なエネルギーが私の腕力を強くさせた。私はそれらの魔法を駆使して、駆使して、駆使して。ただただ無心に瓦礫の山を掘り続けた。
『……チヅちゃん』
……そして。
『チヅ……ちゃん……っ』
私とのお別れ会の為にかき集めたお砂糖や牛乳を庇うように覆い被さる、二つの遺体を掘り起こした。
『カドリー』
『……』
『カドリ『ゼルルーゥッ!』
私は背後からかけられた誰かの声などそっちのけで、魔法を放つ。
『ゼルル! ゼルル! ゼルル! ゼルルッ!』
血を止める魔法。瞼を開かせる魔法。痛みを打ち消す魔法。
『ゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルル!』
心臓を動かす魔法。瞳孔を閉じさせる魔法。呼吸をさせる魔法。
『ゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルルゼルル』
血色を良くする魔法。肺を酸素で満たす魔法。脱水を防ぐ魔法。細胞分裂を促進させる魔法。骨化を促す魔法。増血効率を増す魔法。細胞へ栄養を送り込む魔法。傷口から侵入した菌を除去する魔法。脳幹へ刺激を送る魔法。
『ゼルルゼルルゼルル……、ゼ、ゼル……ゼルゥ……ゼルル……ゼル……ゼル…………ル……う、うぅ……っ』
そして。
『ゼルルぅ……っ』
死者を蘇らせる魔法。
でも、ダメだった。死者を蘇らせるなんて芸当は、蘇生の魔法に特化したウィザードか、或いは上級魔女の中でも上位の魔女だけ行える秘術中の秘術だ。上級魔女の入り口に到達したばかりの私では、そんな奇跡を起こせるわけもないのだ。それで。
『もういいだろ』
『……っ』
『もう十分だろカドリー』
『うるさぁいっ!』
私は己の無力さの八つ当たりでもするように、肩に乗せられた彼の腕を叩き落としてしまうのだった。
『触るな!』
『……』
『嫌い!』
『……』
『嫌い嫌い嫌い! みんな嫌い!』
『……』
『死ねっ! みんな死ね! 何でチヅちゃん達なの!? みんな死ねよ!』
『……』
『死ねっ、死ねっ、死ねっ、死ねっ……、みんな……みんな、……っ、みんなぁ……うぅっ……、し、死んで……っ』
でも、親友を失った気持ちをこんな八つ当たり程度で慰められるわけがなくて。なんかもっとこう、大きな何かにぶつけないと気持ちが晴れるわけがなくて。そしたら丁度良いところに。
『………………あ』
アメリカにでも帰る所だったのだろうか。或いはこれから他の地域へ爆弾を投下しに行く所だったのだろうか。私達の上空を、一機の戦闘機が飛んでいて。
『……』
それで私は、その戦闘機にゼルルを向けて。
『おいカドリー!? お前何を』
『………………ゼルル』
一機の戦闘機が、隅田川の上流の方へと墜落していくのが見えた。私は撃墜した戦闘機の後を追うべく、駆け足で隅田川の上流へと向かった。
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