博愛の魔女 ⑨
『……ダイゴロウ』
『……』
『ダイゴロウ……っ』
私がチヅちゃんのお家で一年と数ヶ月を過ごしたその日。私の異世界留学が残り二ヶ月となったその日。ダイゴロウさんが戦地から帰還した。一年数ヶ月ぶりの再会だった。オート三輪の車窓からこちらを覗くその顔は、例え数百年ぶりの再会だったとしても忘れらるはずがない。私はいても経ってもいられず、すぐにオート三輪の扉まで駆け寄るのだけれど。
『兄ちゃん大丈夫か? 一人で降りれるかい?』
ダイゴロウさんの隣の席から、心配そうに声をかける運転手さんの姿に違和感を覚え、私は思わず足を止めてしまう。
一人で降りれるかとは、一体どう言う意味なのだろう。そもそもダイゴロウさんはオート三輪を運転出来るはずなのに、どうして助手席に腰を下ろしているのだろう。それに。
『えぇ、お気遣いありがとうございます。大丈夫です。このくらいも出来なきゃ、これから先も生きるのに苦労してしまいますよ』
どうしてダイゴロウさんは、さっきから一向に私の方へ顔を向けてくれないのだろう。ずっと顔の側面だけを私に向けて、まるで何かを隠しているような、そんな態度を貫いている。
『そんな事言うもんじゃねえよ。兄ちゃんはこれから、沢山の人の世話になって生きなきゃいけないんだ。人に頼る癖くらいつけといた方がいい』
運転手のおじさんはそう言うと、先にオート三輪から降りて助手席側の扉へと歩み寄った。そしてダイゴロウさんが降りれるようにゆっくりと扉を開けて。
『……』
四肢の内の二本を。手と足が一本ずつに加え、片目まで失った唐傘お化けのような姿を、ダイゴロウさんは私の目の前に晒した。
『地雷、踏んじまってな』
運転手さんに肩を抱かれ、助手席から降ろされながらダイゴロウさんが口を開く。
『この体じゃあ使いもんにならねえってさ。酷え話だな。そっちが勝手に連れてったくせに、使いもんにならなくなった途端勝手に帰れと来たもんだ。……でも、おかげで帰って来れた』
オート三輪から降ろされた後は、杖をつきながらバランスを取るダイゴロウさん。一歩一歩足を踏み出しながら、私の目の前まで躙り寄るように近づく。そして杖に体重を預けながら、残った右腕をゆっくりと私の頭に乗せるのだ。
『どうした? その頭。折角の綺麗な髪だったのに』
ダイゴロウさんの右手が、私の頭上で蠢く。
『……お風呂がもったいないからって、チヅちゃんのお母さんに』
私がそう答えると、ダイゴロウさんは残念だとでも言わんばかりに眉を垂らした。私の長い黒髪を好きだと言ってくれた彼である。そんな私が当時の子ども達と同じ、バッサリと短いおかっぱ頭になってしまったのを嘆いているのか。……いや。どちらかと言えば、私をチヅちゃんの家に預けた事で、私をこんな髪にしてしまった自分の選択を責めていたのかもしれない。
『そっか。……悪かった』
ダイゴロウさんは詫びるように頭を下げるのだけれど。
『悪かったじゃないわ』
その時の私に、彼の謝罪を受け入れられる度量なんて全然なくて。
『どうしたでもないのよ。それはこっちのセリフだわ。私の髪が何? こんな髪、ダイゴロウさんに比べたら』
『……』
『ダイゴロウさんに……、比べたら……』
髪なんて放っておいてもいつかは生える。けれど彼の失った物は、二度と生えては来ない唯一無二の大切な宝物。大粒の雫を目に貯める私の泣き顔を見ないよう、ダイゴロウさんは私の頭を引き寄せて自分の胸に埋めさせた。そして一年数ヶ月ぶりの私の変化を実感するように、私の頭に手を置くのだが。
『もう10歳か』
しかし。
『10歳なのに、こんなに小さいのか。体もこんな痩せこけて……』
生憎私の体には、育ち盛りの子どもが一年過ごしたような変化が見えなくて。身長が伸びていないのは仕方ないにしても、体重に関してはダイゴロウさんを見届けたあの頃よりも落ちていて。
『一人にしてごめんな。残りの二ヶ月は、ゆっくり二人で暮らそう』
異世界留学を終えるまで、残り二ヶ月。私達は最後の家族ごっこをする為の約束を交わした。
それから私達は、ダイゴロウさんをここまで運んでくれた運転手さんにお礼を言う。運転手さんは日中戦争を経験した事もある為か、ダイゴロウさんの体を深く労わり、私達の幸せな日常を願った上で、東京へとオート三輪を走らせた。私はそんな彼の背中が見えなくなるまで見届けてから、小さな背丈ながらもダイゴロウさんに肩を貸し、彼を一年と数ヶ月ぶりの我が家へと招く。
『久しぶりだな』
『そうね』
『うちは今、どうなってるんだ?』
『ずっとチヅちゃんの所にいたからわからないわ。……でも、包丁とかラジオとか農具とかは、金属類回収令持っていかれたの。他の物は大丈夫だと思うけど……』
『……そっか。まぁ気にするな。昔の人は金属なんてなくても立派に過ごしていたそうじゃないか。そうだ、折角だから俺が小さい頃にやっていた遊びを教えてやろう。楽しく遊ぶのに金属なんていらないからな』
一年と数ヶ月ぶりの会話は、とても戦場帰りの人と交わす物とは思えない程に平和なものだった。あまりにもいつも通りの空気でお喋りをするものだから、本当に彼と一年以上も顔を合わせていないのかと疑ってしまう程だ。
確かにダイゴロウさんは、徴兵された事で見た目を大きく変えてしまった。けれど変わったのは見た目だけで、中身はやはり私の知るダイゴロウさん本人だ。昔と変わらない彼の言動に胸を撫で下ろしながら、私は彼を玄関先まで連れて行った。そして家の引き戸を開こうと扉に手を伸ばした際。
『あ』
一匹の蜘蛛が引き戸の取手を歩いていて、私は驚いて手を引いてしまう。
『どうした? ……お、珍しいな。こんな季節に虫だなんて』
ダイゴロウさんは杖をつきながら私の隣にやって来て、その小さな来客を物珍しそうに見つめる。私は一年以上も掃除をしなかった家の惨状を恥じながら。
『ダイゴロウがいない間、掃除もしてなかったから。待っててね? すぐにお掃除して………………』
そう、言いかけた。そこまで言いかけて、出かかった言葉が喉の奥へと逃げてしまったのである。
『どうした? 早く中に入ろう。寒いだろ』
平然と話すダイゴロウさんを見て、私は息を飲んだ。目の前で起きた出来事が信じられず、夢でも見ているのではないかと目の前の現実を疑った。……でも、私の目の前にいるダイゴロウさんは、自分の手のひらを服ではたいている。
手についた汚れを。自らが握りつぶした蜘蛛の死骸を振り払おうと、何食わぬ顔で手のひらを服ではたいているのだ。
『……』
ダイゴロウさんは蚊の命さえ惜しみ、真夏でも蚊取り線香ではなく蚊帳を張るような人だった。
そんな彼が、何の躊躇いもなく虫を殺した。私の目の前で、間違いなく一つの小さな命を啄んだ。
異世界留学最後の二ヶ月間。その二ヶ月を私と共に過ごしたダイゴロウさんは、私の知るダイゴロウさんではなくなっていた。
しかし、そんな違和感も彼との生活を続ける内に、次第に薄れて行く。蜘蛛を躊躇なく殺した姿に驚いたとは言え、その時は二月という冬の真っ只中。野外でも屋内でもそもそも虫を見かける事が珍しく、彼の殺生を見たのはあれっきりだったのだ。
確かにダイゴロウさんは私の目の前で蜘蛛を殺していた。けれど私と話す時の言動はそれまでのダイゴロウさんと寸分足りとも変わらなかったし、結局彼が殺生する姿を見ない時間が長引くにつれて、彼への不信感も彼への違和感も次第に薄まっていくのである。彼との生活が一週間も経った頃には、すっかり私と彼の関係は以前通りに戻っていた。……まぁ、完全に元通りなのかと言われればそうでもないのだけれど。
『はい、ダイゴロウ。口を開けて』
例えば片腕しかないダイゴロウさんが不便そうに食事を摂る物だから、私が彼の亡き腕代わりとなってご飯を食べさせてあげたり。
『大丈夫ダイゴロウ!? 待ってて、すぐに魔法で鎮めてあげるから!』
例えばダイゴロウさんが幻肢痛に魘された際には、魔法を用いる事で彼の痛みを和らげてあげたり。
『背中流すわよ! 遠慮しなくていいの! しっかり背中を洗えないで臭う方が迷惑なんだから』
例えば片腕では背中の真ん中まで洗う事の出来ない彼の為に、入浴の度にその大きな背中を流してあげたり。四肢を失った事でまともな生活を送れなくなった彼の為に、誠心誠意尽くす日常が続いたものだ。
そんな生活が続く物だから。
『お前には世話になってばかりだな。これじゃあどっちが保護者なんだか』
ダイゴロウさんも子どもの世話になり続ける現状を憂う。そして。
『お前がいなくなったら、俺はどうやって生きていけばいいのかわからないよ』
私が魔界に帰るまで残り一ヶ月しかない現実も憂いた。だから私は彼を安心させるように、異世界留学完遂後の予定について、胸を張って彼に伝えた。
『心配しないで。私、魔界に帰った後も何度だってダイゴロウに会いに行くつもりよ?』
私は何度でもこの世界に来ると。いつまでもあなたの助けになってあげると。
『ダイゴロウさんは私の事を忘れているだろうけど』
仮にダイゴロウさんが私の事を忘れていたって。
『それでもいいの』
この気持ちは揺るがないと。
『何度だってお手伝いしに来るし、痛いのだって魔法で和らげてあげる。それで一人前の魔女になった時には、手足と目だって元通りにしてあげるから』
それでいて。
『だったらいっそのこと、ダイゴロウのお嫁さんになった方が手っ取り早いわね』
私らしからない、そんなませた冗談も言ってみたりして。……まぁ。
『そんな事になったら、カドリーのお母さんに呪われるかもな……』
私のお母さんの気持ちを知っているダイゴロウさんからしたら、その冗談はあまり気持ちの良い物ではなかったようで、苦笑いを浮かべながらそう呟いたのだけれど。
ともかく、そんな平和で静かな日常が。国の外では、今もなお殺し合いが行われているとは思えないような穏やかな日常が、淡々と過ぎていく。そして月が変わり三月に入った頃に。
『カドリー。どこか行きたい所はあるか?』
今日も今日とでダイゴロウさんの代わりに家事をこなす私に、ダイゴロウそんがそんな一言を投げてきた。
『行きたい所?』
『あぁ。行きたい所でもいいし、食いたいもんでもいい。みんなで何か楽しい事をしたいと思ってな』
『……みんな?』
どうして突然そのような提案を持ちかけるのだろう。私の脳裏に疑問がよぎる。しかしそれよりも気になったのが、みんなと言ったダイゴロウさんの真意だ。みんなとは一体なんだろう。私とダイゴロウさん二人を指して、みんなと言うのは日本語としておかしい。それだとまるで、私達以外にも楽しい事をしたがっている人がいるような、そんな言い方で。
『あぁ。みんなだ』
でも、その言葉の意味はすぐにわかることになる。縁側に腰を下ろしながら洗濯物を干す私の姿を見守っていたダイゴロウさん。そんなダイゴロウさんの視線が、私から僅かに逸れたのだ。どこを見ているのかと思い、私も思わず彼の視線を辿ると。
『……カトリちゃん』
そこには、お爺さんに手を引かれたチヅちゃんの姿があったのだ。
『来月には本当の両親とこに帰るって、本当なのか?』
『……』
『なんで言ってくれねえんだよ。急にいなくなったら寂しいじゃんか……』
『……』
そこから先は、俯きながら押し黙ってしまったチヅちゃんに代わってチヅちゃんのお爺さんが言葉を続けた。
チヅちゃんのお爺さん。戦前は喘息を患った(という設定の)私の為に野菜を届けてくれたり、チヅちゃんのお家でお世話になった時も、国にバレたら大目玉を食らうのにも関わらず、隠し持った食べ物を私に分けてくれた私の恩人。彼はシワクチャな手のひらで俯くチヅちゃんの頭を撫でながら。
『お別れ会がしたいんだよ』
と、押し黙るチヅちゃんの気持ちを代弁してくれた。
私は一度、チヅちゃんの方へ視線を送る。チヅちゃんは相変わらず俯いたままで、どうも話しにくい雰囲気だ。来月に私がこの地を去る事をどこで知ったのか、聞いてみたいのに。
……でも、チヅちゃんにその事を教えられる人間なんて、結局この村には一人しかいないのだ。私はそんな大切な秘密を打ち明けたダイゴロウさんへ視線を送る。
『余計なお節介だって言われたら返す言葉もないな。……でも、それでも俺はこうした方がいいと思ったんだ。何も言わずに別れたら、きっとカドリーも後悔するはずだから』
別にその事についてお節介だとは思わない。余計なお世話だとも思うものか。私だってかねてから、何も言わずにこの地を去る事に躊躇いを感じていたのだから。私にダイゴロウさんを責めたい気持ちはない。だから今、私の中で渦巻くこの感情は怒りなどではなくて。
『でも……お別れ会って』
私はただ、こんな資源不足な日々を過ごす彼らが、私の為に何かをしてくれようとしているのが申し訳なくて。
『明日、皆んなで東京に行こう』
そんな私の気持ちを察するように、チヅちゃんのお爺さんが口を開いた。
『誰にも言うんじゃねえぞ? ここだけの話、兵隊さんに隠してある食糧がまだあるんだ。それを明日闇市で、もっと美味い別のもんと交換しよう。餞別だ、故郷に帰る前に美味いもんをたらふく食わねえとな』
『え……。だ、ダメよ! 食糧があるならそれを食べないと。戦争が終わるまでは少しでも節約して』
私はチヅちゃんのお爺さんの提案があまりにも申し訳なく、折角の厚意を突き返すように拒絶したのだが。
『カトリちゃん』
そんな私の拒絶を食い止める人物が一人。チヅちゃんはようやく頭を上げながら、私との別れを惜しむように私の服を掴んできた。
『俺、アイス食ってみてえ。アイスキャンディーじゃなくて、牛の乳を使ったアイスクリームってやつ。前にラジオで言ってたじゃんか』
『……』
『カトリちゃんがいる間に、二人で食いてえんだ』
『……チヅちゃん』
親友からの誘惑に抗える程、私は出来た人物ではなかった。私は罪を犯したわけではないはずなのに、思わずダイゴロウさんを見上げては、償うような態度で問いかけてしまった。
『……ダイゴロウさん。本当にいいの?』
ダイゴロウさんは笑顔で頷いた。
『もちろんだ。俺もそうしたい』
こうして私達は、いつの日かの果たせなかった約束をもう一度果たすべく、一度は中断してしまった東京の闇市へと向かう事になった。
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