第四章 第六話
考えが甘かった。
志信がそれに気付いたのは外に出てからだ。
ファミレスの駐車場に、ショコラママの車が停まっていることくらい想像しておけばよかった。ショコラママは志信の手をしっかり握って、車の中に放り込む。
車の中も煙草のにおいが充満していた。この数日、田舎から出てきてこの車で寝泊まりしていたのか、後部座席には弁当の空き箱が散らばっている。
さて、どうしよう。車が動いてる間は逃げることが出来ない。
だとすればチャンスは赤信号の時だ。幸い、この道の途中で道路工事をしており、今日は渋滞するポイントがあることを志信は知っていた。車が合流して流れが停まる丁字路、そこなら余裕がたっぷりある。そこがチャンスだ。
志信はいつそこに到着してもいいようにシートベルトをはずした。指にひっかけて、悟られないようにする。
「いきつけのラブホとかあったりする?」
車を乱暴に発進させながらショコラママは言った。
「いや、とくにないですけど」
「なんだ、特に決めないタイプ?」
「そうじゃなくて……僕……そう言うところ行った事なくて……」
「マジで?それじゃいつもヤるときどこでヤってんだ?あんた親と一緒に住んでるんだろ?相手の家に行っちゃうわけ?それとも保健室か体育倉庫?やるう」
「いや、ですから僕、こう見えて童貞なんです」
いつもの調子で堂々と言ってしまい、しくじったと思う。ショコラママの目が光ったように感じた。だめだ、これじゃ誘ってるみたいじゃないか。
「うっそ、マジ童貞?その歳で?ありえねぇんだけど?でもいいよ、教えたげる」
教えて欲しくない。そういうのは聖心愛とするんだと決めている。そもそも高校生が童貞でなにがおかしい。ショコラママの貞操観念のほうがおかしい。
志信は心のなかで悪態をついた。もう少しの我慢だ。もう少しで丁字路にさしかかる。
車がそこで止まった時がチャンスだ。もう少し、もう少し……。
「うちがバージン捨てたのは中二んときだったかな?相手はおっさんだったけど上手くてさ、全然痛くなくって……」
道路整理のサインで車が止まる。今だ。
シートベルトに回した手を外し、志信はドアの鍵を開け、ノブを引っ張った。同時に飛び出そうとして――ドアが開かない。
それはチャイルドロック。しかも志信は知らないが、一昔前の車にあちがちな、車が走ると自動的に閉まるタイプのものだ。そのロックは運転席のスイッチを押して開けるか、外からキーで解錠するしか出来ない。
「逃げだそうってたって、そうは行かねぇよ」
ショコラママの声が険しくなる。
「本心から来たいと思ってないのはわかってたかんね」
「そ、そんな……」
「大丈夫。最初は痛いなんてのは女だけの話だからよ。うちが手取り足取り教えたげるから、安心しろって」
そういう問題じゃない。
志信はおとなしく、シートベルトを締め直した。やがて工事現場をこえて渋滞を抜ける。
「あの……」
「なに?」
「なんで、僕にこんなにこだわるんですか?あなたほどの女性なら他にも男性はほっとかないと思うんですけど」
「そりゃもう、志信くん。運命よぉ」
ショコラママがにたあっと、気持ち悪い笑みを浮かべた。歯がタバコのヤニで真黄色だ。
「うちの名前、知らなかったっけ?」
「……いいえ」
そういえば、確かに志信はショコラママの名前は知らない。離婚前の苗字は加藤だ、でもそれは聖心愛のお父さんの苗字だ。だからショコラママの今の姓名はどっちも知らない。
「うちも『しのぶ』って言うんだ。ひらがなで『しのぶ』」
それを聞いて志信は、言いようもしれない恐怖に襲われた。まさかショコラママは、僕が小学生だった頃から、名前を知ったその時から、ずっと僕を狙っていたのか。
僕に似た大学生を相手にしていたのも、僕の代用だったのかもしれないと言うのは、考えすぎだろうか。
でも、聖心愛をうちに預けつづけていたのは、それが理由かもしれない。
運命なんかじゃない。『しのぶ』なんて、男女どちらにもよくある名前だ。ただの偶然だ。けれどもショコラママにとってそれは、運命以外の何物でもなかったらしい。
気が狂ってる。
逃げなければ。逃げなければこの身が危ない。
だが、志信ははやる気を収めた。車が目的地についたら、ドアが開いたら逃げ出す。
ほどなくして、車は停まった。土地勘があったのだろう、その場所は、いつか聖心愛とともにショコラママと追いかけっこをした、あのラブホテルだ。
運転席から降りたショコラママが、助手席側に立ってドアを開ける。今だ!
だがその瞬間、志信の身体をシートベルトが押さえつける。
志信は再び、しくじったことに気がついた。シートベルトを今度はしっかりつけてしまったのだ。それを外す前に飛び出そうとしてしまった。
痛恨のミス。ついにすべての手段は失われた。
志信はショコラママに手を握られ、引きずられるように連れて行かれた。もうだめだ……。志信は抵抗できなかった。
ホテルの受付は薄暗かった、ショコラママは窓口で鍵を受け取ったが、その窓口もお互いの顔が見えないよう、手元以外はすりガラスになっている。志信はその相手に助けを求めようとしたが、声が出なかった。
エレベーターを登る。
二階、三階、四階でドアが開き、狭い廊下にドアがひしめいている。
ラブホテルのなかに入るのは、志信は初めてだった。ここは旅行で泊まる観光地のホテルとはぜんぜん違う。窓はないし、薄暗い。
部屋に入るとそれはもっと露骨になっていた。窓は当然ないし、部屋の真ん中には大きなベッドが占領している。入口横の扉は透明で、その先は丸見えのバスルームだ。
ここが何をするためのホテルなのか、ここまで露骨につきつけられると、いくら耳年増な志信でも恐怖を感じてしまう。相手が聖心愛だったならそれは興奮なのかもしれないが、いま志信の後ろで扉の鍵を閉めたのは、あの妖怪ショコラママだった。
「ここまで来ればもう逃げられないっしょ」
言うやいなや。ショコラママは力ずくで志信を引き寄せ、無理矢理唇を奪った。
志信の口の中に、鉄さびや理科室の薬剤にも似たような刺激臭が広がる。ショコラママがさっきまでタバコを吸ってたからだ。その刺激は志信には強すぎた。だが、ファーストキスがショコラママであるという嫌な現実を、そのタバコの刺激がかき消してくれたのは幸いだった。
いや――これは本当にファーストキスだっただろうか?記憶の細い糸をたどる。だがそれを、ショコラママが許さなかった。
ショコラママは志信をベッドに押し倒して、シャツのボタンを一つ一つ外した。腰のところに馬乗りになっているので志信は動けない。シャツを抑えるので手一杯だ。
ショコラママはシャツを脱がすのが難しいとわかると、手段を変えた。自分の上着を脱いで、派手な下着をずらす。その垂れた醜い胸を、志信にまたも無理矢理触らせようと、腕を掴んできた。
「おっぱいナマで触ったことないだろ?」
ショコラママのおっぱいなんか触りたくない!そんな一線はこえたくない!
志信の頭の中に、これまでの人生が走馬灯のように駆け巡ってきた。
聖心愛とともにショコラママの浮気写真を撮ったこと。ショコラママに刃物を突きつけられて押し倒されたときに、聖心愛が駆けつけてきてくれたこと。人生の節目節目にいた聖心愛が、志信のことを見ていた。
『僕は君のことが好きだもん。知ってるくせに。だから、僕が聖心愛と結婚して、君をお母さんから自由にする』
自分が聖心愛に向けて放った言葉を、そしてその時の聖心愛の顔を思い出し、志信の頭は覚醒した。
そうだ、僕は聖心愛が好きなんだ。僕が聖心愛を守るんだ。だから、僕はショコラママなんかに負けちゃいけない。
「僕の童貞は……聖心愛のものだ!」
志信の腕に力がみなぎる。ショコラママが掴んでいた腕を、強く拒絶し引っ張り合った。
「いまさら、ここまで来ておいてなに言ってんだよ。男なら責任とれよな」
「僕は聖心愛に対して責任を取らなきゃいけない。聖心愛のこどもを作るんだ!」
「聖心愛聖心愛って……まだ勝てると思ってんのか?すぐに気持ちよくしてやっから。それに経験があったほうが聖心愛も喜ぶだろ?」
ショコラママの手が志信の下半身に伸びる。ズボンのチャックを開けて、中に滑り込もんだ。




