第四章 第四話
その夜、倫江と連絡をとった志信は、次の日の夕方には倫江の家に避難することが決まった。
部活を休んで早く帰宅し、勇助も慶子も仕事に行ってる時間に、持てる限りの大荷物を背負い、家を出る。宝物と言っていい大量のまんがは、全部は持ち出せなかったけど、『志信の私物を汚損などした場合、調停に影響します』と言う紙を部屋中に残したので、勇助の八つ当たりの対象にはならないだろう。
……多分。
待ち合わせ場所のコンビニには、すでに倫江がタクシーでのりつけていた。これで仮に勇助があとをつけてきたとしても、まくことができるはずだ。
「ノブくん!久しぶり!」
倫江は明らかに前より元気そうだった。このように生き生きとした母を見るのは、志信は初めてかもしれない。長年悩まされていたショコラママも姑も、もう目の前にいないのだ。
倫江の新しい家は、小さなマンスリーマンションだった。しかも、以前住んでいたマンションや、今の二世帯住宅と同じ市内。慰謝料と親権をとったら引っ越す予定での、一時的な住居らしい。同じ市内にしたのは、住民票を移すとそこから足が付く可能性があったからだ。
「それで、昨日も聞いたけど……お父さんに殴られたんだって?」
「……うん。僕、どっちかというとSなのに」
「いい?相手が嫌がってるのにセクハラを続けるのはSの資格ないわよ」
「お母さん?」
「……忘れて。いえ、忘れないほうがいいんだけど、わたしが言ったってことは忘れて」
「……うん」
この母にしてこの子ありとはこのことである。志信は間違いなく倫江の子だった。
「かわいそうに……。痛かったでしょう?あとでお医者さんに診てもらおうね」
「そんな、大げさだよ」
「ごめんね、ノブくん。これはノブくんのためだけじゃなくて、調停を有利にすすめるためなの。お医者さんに診断書をもらって、殴られたって証拠を残しておくの」
志信は少し落胆した。結局、母も僕の怪我より離婚調停のほうが大切なのか。
だがすぐに思い直す。そうじゃない。志信は母に協力すると誓ったのだ。
「ごめんね。喜んじゃ悪いんだけど……慰謝料がタクシーメーターみたいに回った音が聞こえちゃって。お父さんたちに、いままで我慢してたでしょう。だから、つい、お母さん……おかしくなっちゃったの」
倫江も志信の反応に気づいて、フォローを入れる。
「お父さんやおばあちゃんたちが悪いって、弁護士さんが認めてくれるし、それがようやく、お母さんの苦労が報われたような気になって、一つ一つが嬉しくなっちゃったのよ……ごめんね」
志信はそこで、もう一度思い直した。
考えてみれば、倫江はずっと我慢の連続だったのだ。志信の知らないところで、勇助や慶子がなにをしていたか、その辛い思い出を逆に武器にかえようとしている。
そんな母の極端なプラス思考を、誰が責めることができるだろうか。
「ごめん、お母さん。僕ちょっと考えが足りなかった」
「ノブくんが謝ることじゃないわよ。こっちの方こそごめんね」
「おう、オメー顔が緩んでるじゃねーか」
「えー?聖心愛だって股が緩んでるよ」
「緩んでねーよ!」
倫江の作ってくれた弁当を片手に、まんが研究会の部室に入るなり、志信は聖心愛にそう指摘された。
今日はまだ他の部員は来ていない。聖心愛とふたりきりだ。
「その様子だと、上手く母ちゃんのとこに転がり込めたみてーだな」
「うん、これでママのおっぱいでもしゃぶってられる」
「それ悪口じゃねーか」
「布団が別なのが残念だけどね」
「残念なのかよ!」
「冗談」
惣菜パンをぱくつく聖心愛をからかいながら、志信は弁当の包みを開いた。
「お、愛妻弁当?」
「似たようなもんだね」
「否定しろよ。オメーもようやく、自分で弁当作る生活から解放されたってわけだな」
「うん。朝ごはんも久々にちゃんとした幼女の丸焼き食べられたし」
「……一応聞くけど、卵かなんかのことだよな?」
「うん。あ、弁当にも幼女が入ってる!」
志信はそう言って、大好物の甘い卵焼きを口にする。
「うまいか?オメーの母ちゃんのメシ、うめーもんな」
「うん、美味しい。ほんとに……幼女……美味しい……」
そう答えた喉に、なにかつかえたような感じがして、志信は言葉に詰まる。
「お、おい……泣いてんのか?」
「泣いてなんか……っく……」
甘い卵焼き。ほのかに料理酒の香るそれの甘みを噛みしめることが、志信には何よりのご褒美だった。
張り詰めていた全身の筋肉が、一気に弛緩していくのがわかる。
「志信……」
「聖心愛も……帰ってきてくれて、うれしいよ」
「はあ?」
聖心愛が大声を出した。
「オメー、突然なに言ってんだ?母ちゃんのことで感動してたんじゃねえのかよ」
「それはそうなんだけど……」
お礼を言うべき母が目の前にいいないから。それだけではない。
「聖心愛がいなかったら、僕、頑張れなかった。聖心愛がいたから、僕、これまで頑張れたんだ……」
「なんだよそれ」
「僕、聖心愛に謝らなきゃいけない。聖心愛に助けてもらった時、何度も僕、心のなかで『聖心愛のせいでこうなった』って考えたりしてた」
「う……まあ……否定できねーな……」
「でもね、僕が人生でつまづいた時、いつも聖心愛がいてくれたから……」
「おいおいおい。ちょっと待て」
聖心愛は泣きながら喋る志信を止めた。
「オメー、自分で気づいてんだろ?オメーが人生でつまづいた時って、それこそオメーの言うとおり、あたしとうちのババアがいたせいじゃねーか」
「それはそうだけど……」
志信はそれを否定出来ない。自分で確かに言ったのだ。
「あたしが悪さするのにオメーを巻き込んで、あたしがあたしのために戦ってきた。それだけじゃねーか。あたしはオメーのためになんか役に立ってねーよ」
そのとおりだ。
志信と倫江が聖心愛を押し付けられて困っていたこども時代も、ショコラママにものを盗まれたのも、どちらもショコラママが原因。
ショコラママに振り回されていたのは、志信と倫江だけじゃない。聖心愛もそうだ。
そのどちらの事件も、聖心愛は志信を利用する形で、志信に厄介を押し付ける形で、事件を大きくすることで解決していた。
ショコラママが志信たちに暴力をふるったこともある。
ショコラママがいなければ、志信の人生はもっと楽だったのかもしれない。
ショコラママに志信と歳の近いこどもが居なければ、志信はもっと楽できたかもしれない。
けれど……。
「お父さんとおばあちゃんが、お母さんをいじめてたのは、聖心愛とは関係ない。むしろ、聖心愛が来てくれたからこそぼくはお母さんを守れたんだ」
「……あたしは、そんなんじゃねーよ……。今だって、あれでよかったのか迷ってる。あたしが他所様の家庭に首突っ込んで、離婚そそのかしてよかったのかって……」
「よかったに決まってるじゃないか」
珍しく聖心愛が真面目な顔をしているので、志信は茶化すのをやめて言った。
「僕とお母さんはそれで救われた。それに、聖心愛のお父さんだって、ショコラママから解放されたんだろ?」
「わかんねーんだよ。家出して、久しぶりに父ちゃんに会って……父ちゃん、すっげー喜んでた。あたしが連れてかれて寂しかったって。だから父ちゃんはあたしを送り返さなかったし、養育費送金してるのに、それとは別にあたしを、こうやっていい学校に入れてくれて……」
聖心愛は言葉を切った。やや迷って、迷って、迷って、言う。
「父ちゃんはそれでも救われてるのかよ?オメーの母ちゃんはこれから生活費とかどうすんだ?あたしたちのやったことは、正しかったって自信持って言えるか?」
志信は、思わずうつむく。確かにそれには答えられなかった。
「あたしたちは、所詮こどもなんだよ。高校生って言っても、まだでかいだけのこどもなんだよ。大人の事情に首を突っ込んだのは、間違いだったんだ……」
「でも、もう大丈夫だよ、きっと……」
「いいや。終わりが近づいてるんだよ、もう。……ババアがこっちに来たから……」
志信はようやく気づいた。
ショコラママが学校前で待ち伏せしていたとき、聖心愛は先生を連れて戻ってきた。聖心愛はショコラママに見つかるリスクをおかして志信を助けたのだ。
あの時、ショコラママは聖心愛の名前をはっきり呼んだ。聖心愛が志信と同じ学校にいることはもうバレている。
法的には聖心愛の親権はショコラママにあるのだ。
だが、ショコラママは親権を行使しなかった。聖心愛は父親の実家に住んでいるのだし、その場所はショコラママも知っているのだ。ショコラママがその気になれば聖心愛はすぐに連れ戻されてしまう。
だがショコラママはそれをしない。聖心愛を説得しようとしているのか、他に考えがあるのか……。
「……そんなの、嫌だよ。聖心愛がまたいなくなっちゃうなんて……」
「仕方がねえだろ……。おとなには勝てねえんだからよ……」
「それでも、僕らは高校生。もう大きいこどもなんだ。できることがあるはずだよ」
「……まあ、あるっちゃ……ある」
聖心愛は絞り出すように言った。
「未成年でも、法的に青年として扱われるようにする方法が一つある。それをすりゃ、親権なんて煩わしいものから、あたしは解放されて自由になる。大きいこどもじゃなく、小さいおとな扱いしてもらえる方法が、ある」
「そんな方法があるの?」
「結婚だよ」
「あっ……そうか。たしか、まんがで読んだことがある……」
「オメーの知識はたいていまんがなのな。まあ、完全に成年扱いされるわけじゃねーけどよ。タバコとか酒とか……やりたいとも思わねーけど」
もっとも、法的に親権を必要としなくなるとはいえ、親元を離れることができるかは別の話だ。未成年同士で結婚しても、収入のアテがなければどうにもならない。
「あたしはまだ十五にったばかりだし……。一年くらい待たなきゃなんねーからすぐにってわけにいかねー。それに……あたしみたいなのをもらってくれる、頭のおかしいやつ、そうそういねーだろ?」
「ん、それ誘ってるの?」
志信は言った。
「僕が聖心愛をもらうよ。男は十八からだから……やっぱり来年末まで待たなきゃならないけど……」
「は、はあっ?オメっ……意味わかって言ってんのか?結婚だぞ、それもあたしと」
「うーん、確かに、エロゲー用のパソコン買う計画とか流さなきゃいけないな」
「そうじゃねえよ!相手があたしでいいのかって言ってんだよ!人生棒に振るぞ!」
「そんなことないよ、聖心愛。僕は君のことが好きだもん。知ってるくせに。だから、僕が聖心愛と結婚して、君をお母さんから自由にする」
「すっ……」
「聖心愛は僕のこと嫌い?」
「……嫌いじゃねえ……けど、よ。あのさ……結婚って、ほんとにわかってんのか?」
「うん、僕と聖心愛は夫婦になって一生寄り添う。離婚はしない」
志信はそれにくわえて言った。
「こどもも大切にする」
「こっ、こども?」
聖心愛は目をまんまるくして驚いた。
「オメー……あたしとこども作ろうって気になれるのかよ!あんな目にあった直後に」
「うん、聖心愛なら抱ける」
「ストレートに言うんじゃねーよ!こっちにも心の準備が……」
聖心愛が言って、黙る。
志信はそんな聖心愛をじっと見つめていたが、聖心愛はうつむいたままだ。
ややあって、聖心愛はそっぽを向いて言った。
「あのさ……志信。試しに、試しにだぞ。あくまでそういう、恋愛感情とか、そういうんじゃなくって……ほら、練習っつーかなんつーか……」
「……なんだよ」
「ここで、子作りしてみねえか?」




