第四章 第一話 志信、高校二年生
半年後くらいです。
「ちっす、センパイ!」
帰りの通学路で、聖心愛が志信に声をかけてきた。
あれから数ヶ月。四月をまたいで入学した聖心愛は、志信の後輩になったのである。
「今までどおりの呼び方でいいよ」
「えー?でもほらよ、学校じゃそういうのあるんじゃね?上級生呼び捨てにしてたらなんか誤解されねー?」
「だったらいっそご主人様って呼べよ」
「そのほうが誤解招くだろーが?」
「むしろ非現実的過ぎて誰も信じないだろ」
「そうかよ……。じゃあご主人様、ちっす」
「……やっぱ変だよ。聖心愛っぽくない」
「オメーがやれって言ったんだろ?」
「ああ、それだ。やっぱそれ」
オメー。だいたい聖心愛からは二人称でそう呼ばれてきた。今更違う呼び方なんかされても、違和感がある。
「そういやオメー、お小遣いどうしてるんだ?」
「なんだよ、急に」
「いや、だってよ。オメーいま父ちゃんのとこで暮らしてんだろ?オメーが母ちゃんの味方だと知られたらさ、父ちゃん、学費に生活費に小遣いに……貰えてんのか?」
志信の両親の離婚調停は、揉めに揉めていた。その間、学校に通うために、また倫江の居場所を勇助たちに知らせないためもあり、志信の位置は宙ぶらりんになっていた。たまに倫江とも連絡はとっているが、それは勇助たちには知らせていない。
家庭科の成績が良かったのは幸いだった。勇助も慶子も何もしてくれないのだから自分でやるしかない。料理はまんがと同じで、できあがりさえ想像していれば上手くいく。洗濯も自分と父のぶんはやらなきゃいけなかった。慶子のぶんは慶子がやるからそこは救いだ。
一度、携帯電話を取り上げられたことがあった。けど、その時は志信が弁護士事務所に連絡して、弁護士からそれを返すよう頼んでもらった。
「まあ……一応もらってはいるよ。学費と生活費は出さないと慰謝料に響くから、ってだけでね。お小遣いは……お母さんからこっそり振り込んでもらってる」
「そっか。オメーも苦労してんだなー」
「お母さんもいま、一人で仕事しながらで厳しいみたいだから、できれば受けとりたくはないんだけどね」
「それなら、もらってあげる」
タイミングよく声が聞こえて、志信は息も止まるような思いをした。
小学校のころの、ショッピングセンターの一件を思い出す。まさか、ショコラママみたいなひとが、また例のよくわからない理論で、頼んでもいないのにお金をとりあげようとやってきたのか?
「わあ、助かります。うちのひと、誰もお酒飲まないから困ってたんです」
……と落ち着いてみればなんのことはない。通りがかりの女性同士の会話だった。
どうやら、飲めないお酒をもらってしまい、処分に困っているという話だった。なるほど、それなら『もらってあげる』もおかしくない。
「いまオメー、うちのババアのこと想像しただろ」
「うん……どきっとした」
「あたしもそうだよ。オメーより長いことあのババアと一緒にいたんだからな。オメーと会えなかった間も、ずっとあの調子なんだぜ」
考えてみれば悲惨な話である。
「ショコラママは……その、ずっとあんな感じだったの?」
「……ああ。いや、もっとひどくなった……かな。みんなが甘やかすからよ」
「甘やかす?え、赤ちゃんプレイ?」
「しねえよ。……ほら、田舎だろ?事なかれ主義ってのかな。被害者が警察に訴えないんだよ。で、じいちゃんばあちゃんが謝って、終わり」
「警察沙汰でもおかしくないようなこと、してるんだ……」
「ああ……まあ、な。それでじいちゃんたちがさ『こどもがいるのでどうか許してください』って頭を下げりゃ、片付いちまうんだ。田舎は」
聖心愛はそう言って、憂鬱そうな顔を一瞬だけする。が、志信の前で強がっているのか、すぐにいつもの顔を見せた。
「あ、そういや一つだけ自由にならなかったみたいだぜ」
「え、男?」
「……オメー時々するどいのな」
「あ……冗談だったんだけどな」
「せっかく離婚して自由になったのに、田舎にはいい男いねーなっていつも言ってたぜ」
「はは……ほんとに、参ったね……あの雌豚には」
「雌豚かー。ぴったりだな、あのババアには」
「なぜ豚を嫌う?」
「豚みたいな人間が嫌いなんだよ」
「……そうだね……」
志信は話を聞いただけでどっと疲れた気持ちになった。
「僕はもう、ショコラママには二度とかかわりたくないよ……。聖心愛には悪いけどさ」
「あたしもできればそうしたいよ。けどあれでも母親だからさ。……オメーはいいよな。母親に恵まれてさ」
「父親には恵まれなかったけどね」
「はは。違えねーや」
聖心愛は言って、ピタリと足をとめた。
「なあ……『噂をすれば影』ってよくいうよな」
「おっぱいの話すれば巨乳のお姉さんが出てくるってやつね」
「前、歩いてるの……まさかうちのババアじゃねえよな?」
「えっ……」
言われて見れば、志信たちの前を同じ方に向かって女性が一人歩いている。
ヒョウ柄のジャケットに、ブランド物のバッグ。歩きタバコをしながら、高いヒールをコツコツと鳴らすその後ろ姿は、確かに見覚えがある。
「そんな、考えすぎだよ」
「……逃げようぜ、念のためさ」
「逃げるって?どっちにせよ駅に行かなきゃいけないだろ?それに、ショコラママは田舎にいるんじゃないか。ここにいるわけないだろ」
「そこなんだけどよ……あたし、一つだけウソついてたんだ」
「まさか……知ってたのか、僕が実は君のパンツをかぶって毎晩うろついてること……」
「そんな度胸ありゃオメーもっとエラくなってるだろうがよ」
聖心愛はごくりと喉を鳴らして、言った。
「あたし、実は家出して父ちゃんのところに転がり込んで来ただけなんだよ。だから、ホントは父ちゃんにかくまってもらってる状態なんだわ。だからよ……その、ババアがもしあたしを探してたら……」
「大丈夫だよ。ショコラママのところに養育費は振込みつづけてるんだろ?それならわざわざ聖心愛を探す必要はないって」
「なんだよそれ。あたし要らない子かよ」
「できちゃった子っぽいし」
「泣くぞオメー」
「あはは。気になるなら、僕がちょっと先歩いて見てくるよ。聖心愛は待ってて」
「あ、ちょっと。おい……」
聖心愛の制止を振りきって、志信は小走りに前の女性を追った。
近づいてみればよく分かる。身長や歩き方はよく似てるが、歳が違うし体型も一回り大きい。自分のことをショコラママと呼ばせていたあの女性は、三十前後のはずだ。その女性は後ろから見る感じ、もう少し上――四十前後に見える。
聖心愛のやつ、考えすぎなんだよ。まあ無理もないけど。
志信はふと、いたずら心が芽生えた。
財布から十円玉を取り出し、目の前に転がす。チャリンと言う音に、女性が振り返った。うん、やっぱり歳が違いすぎる。
「あの、落としましたよ」
「あら、ありがとう」
その声を聞いて、志信は凍りついた。声は完全に、記憶の中のショコラママと同じだった。
「あれぇ……。もしかして、志信くん?」
ああ、僕の名前を知ってる。これはもう間違いない。四十前後、いやもっと上に見える女性は、聖心愛の言うとおりショコラママだったのだ。
この数年の間に、何があったのだろう。人間はストレスなどで早く歳をとるというが、怪人ショコラママにストレスなんてあったのだろうか。
「うち、わかる?ショコラママ。ひさしぶり」
名乗られてそれは決定的になった。志信はちらりと後ろをみるが、聖心愛の姿はない。ひとまず胸を撫で下ろした。
「ちょうどよかった。うちの聖心愛見なかった?」
「しょ、聖心愛ですか?一緒来てるんですか?会いたいなあ……ははは」
自然に振舞ってるつもりだが、声がうわずる。それをショコラママは見逃してはくれなかった。
「ほんとはなんか知ってんだろ?」
「な、何も知りませんよ……」
「ふうん……」
ショコラママの顔が不気味に歪んだ。
「君、いい男に育ったねぇ」
「いっ?」
話の主題が急にかわり、志信の事になった。しかもショコラママは舐めつけるような視線で、志信の全身をジロジロと品定めする。タバコの煙が目にしみた。
志信の半ば忘れかけていた記憶が呼び戻された。
オープンカーに乗っていた、ショコラママの昔の浮気相手に対して、聖心愛が何か言っていたじゃないか。
『そういえばあいつ、なんか志信に似てねえ?』
食われる!
「すみません、急いでいるので!」
「あ、おい!」
嫌だ、嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
ショコラママの視線が怖い。ショコラママの存在が怖い。ここにいたくない。
志信は全力で走りだした。走って、走って、走って。わけもわからず駅前について、立ち止まる。
「志信」
「ひっ」
「安心しろ、あたしだ」
後ろから声をかけられて、志信は戦慄した。しかしその相手が聖心愛だと気づくと、ようやく緊張がとけて、志信はへなへなとその場にくずおれてしまった。
「おい、こんなところでへたり込むなよ。だっせえな……」
聖心愛に手伝ってもらって、なんとか改札を通りぬけ、電車に乗る。座席について、ようやく志信は一息つくことができた。
「な、あたしの言った通りだっただろ?」
「……進化してた……」
「進化かー。うめーこと言うな」
「若い男のエキスを吸えないとああなっちゃうのか……」
「キモいこと言うなよ……」
「ねえ、聖心愛……。僕……」
「ああ、言うな。当ててみせる。オメー、あのババアに言い寄られただろ」
「げっ……あ、う……そこまではまだだけど……」
「あたしも気づいてたんだよなー。オメー、あんときの浮気相手にそっくりに育ったなって」
「眼鏡やめてコンタクトにしておけばよかった」
あの時の浮気相手は、たしか眼鏡をかけてたはずだ。だから余計に似てるのだろう。
「そうすればベッドの上でも相手の顔がはっきり見えるのに」
「はいはい童貞妄想乙」
「……でも、僕まだ高校生だよ。ショコラママ、もう三十は過ぎてるでしょう?それに見た目はもっと上に見えた」
「ヘビースモーカーだからそうなったのかもな。ほら、田舎にゃタバコくらいしか楽しみがねえって四六時中吸ってたからよ」
「……自分の子どもくらいの男を狙うってどういうことなの?おねショタってレベルじゃないよ」
「なんだよ、おねショタって。……年下好みなんだよなー、あのババア。父ちゃんは年上だけど、それ以外の相手はみんな年下だったし。田舎でもオメーくらいの歳の男にストーカーして大変だったんだぜ」
「……どうしよう。僕、狙われちゃったかな……」
「まあ、大丈夫だろ。……目当てはたぶん、あたしだろうからさ」




