第三章 第九話 章末
その夜の志村家はてんやわんやの大騒ぎだった。
「くそっ、電話もずっと留守電だ!」
その勇助の片手には携帯電話が握られ、何度も何度も留守番電話に声を吹き込み、返事のないメールを送っていた。着信拒否をしていないのが不思議なくらいだ。
「志信!」
突然、勇助が志信を怒鳴りつけた。
「おまえの携帯を貸せ!おまえの携帯なら母さんも出るだろう。貸せよ、父さんたちが離婚してもいいのか?」
そりゃもう離婚して母が救われるなら万々歳だ。
けれども、この携帯をわたして、父が僕の携帯でかけてしまえば、母はもう僕の携帯からも出てくれないだろう。そうしたら、連絡手段がなくなってしまう。
そう思いながら、携帯をとりに部屋に戻ろうとすると、勇助の携帯に逆に電話がかかってきた。
「倫江からだ!」
勇助は慶子たちに静かにするように言うと、電話に出た。
「俺だ、いまどこに……誰だおまえは?さてはおまえが間男だな!浮気が原因なら慰謝料を払うのはそっちだぞ!……え?なんだと、いま……弁護士と言ったのか?」
「まあ!本当に弁護士さんなんかに相談して、みっともない!」
「母さん、静かにしててくれ」
そして勇助は電話の向こうの弁護士相手に、がなりたてるように会話を続けた。
どうやら倫江はいま、その弁護士事務所にいるようだ。
携帯を着信拒否しない理由は、それをすると『話し合いをするつもりがない』ということになって裁判で不利になるらしい。その上、留守番電話に吹き込んだ内容はすべて裁判で証拠にするということだった。
その上で、倫江は離婚を前提で話を進めるつもりでいて、これまでの経済的DVや嫁いびりを盾に、慰謝料を要求するらしい。
その漏れ聞こえる電話の中で、志信の親権については触れられなかった。志信はもう高校生なのだから、自分で選べということなのだろうか。
それとも――志信などいらないということなのだろうか。
次の日。
志信は家に帰るのが憂鬱だった。
部活がないので早く帰れるのだが、いま家に帰っても誰もいない。いや、もしかすると静かに怒りをたたえた祖母がいるかもしれない。
そんな家に早く帰りたいはずもない。
いずれ帰らなければならないとはいえ、少しでもそれを遅くしたかった。
小学生の頃の聖心愛も、こんな気持ちだったのかもしれない。
そんなこんなで、気づけばこどものころに住んでいた川沿いのマンションに足が向いていた。
そこには中庭があり、小さなガゼボが建っていた。むかし聖心愛と遊んだこともある思い出の場所だ。
「あれ、志信じゃん。どったの?」
まさかそこに、いまも聖心愛がいるとは思わなかったけど。
「聖心愛!?」
「いやー。懐かしいなここ。なんか、来ちゃった。オメーはどうしてここに?」
「君の靴下のにおいをたどってたら、ここに」
「警察犬かよ。つまり、あたしに会いに来たってわけか」
「あ、いや……別にそういうわけじゃ……。だって、聖心愛がここにいることも知らなかったのに」
志信はだがしかし、安堵を感じていた。
「でも……会えてよかった……」
「な、なんだよ。気持ち悪い」
「僕が気持ち悪いのは昨日今日のことじゃないだろ?」
「自覚あんのかよオメー。でも、なんか顔色悪いぜ?何か相談したいことがあるなら言ってみろ」
「実は……できちゃったみたいなんだ」
「帰るわ」
「ごめん、もう言わない。実はさ……やったんだよ、ピタ聖心愛スイッチ」
「お、やるじゃんオメー!で、どうなった?」
志信はその結果をありのままに話した。
ターゲットと志信の弁当がいつの間にか入れ替わっていたこと、にもかかわらずなぜかターゲットにもデスソース入り弁当が入っていてピタ聖心愛スイッチが発動したこと。倫江が離婚届も含め、準備万端で家を飛び出したこと。それから、弁護士を通して父が会話していたことなどをそのまま話した。
「なるほどなー。でさ、オメー、弁当箱にデスソースってやつ入れたあと、どこに置いた?」
「えっ……あ」
言われて思い出したが、志信はデスソースを使ったあと、片付けるのを忘れてその場に置きっぱなしにしてしまったのだ。
「オメーはソースを仕掛けるんじゃなく、その場に置いておくだけでよかったんだよ。デスソースを見た時点で、オメーの母ちゃんはやる気になってたんだな」
「じゃあ、なんでお母さんは弁当箱を入れ替えたの?」
「オメーが犯人にならないようにしたんだろうな。あくまで手を下したのは自分だってわけさ。それが決心なのか、それともオメーをかばっただけかはわからねーけどよ」
つまり、あくまで志信は自分の弁当箱にデスソースをかけただけであり、この一件には無関係だということ。それにターゲットにデスソースを送り込んだのはあくまで倫江であるということを事実としてのこしたのだ。
母心、と言うやつなのか、それとも自分で手を下したかったのか。結果は同じなのに。
「そこまでして守ったオメーを母ちゃんが見捨てるわけねーだろ。それに、母ちゃん、オメーにメールするって言ったんだろ?ほら、オメーちょっと携帯貸してみ」
「あ、うん……」
「で、ネットワーク認証パスワードは?」
「07214545」
「推測されやすい番号は避けろよ」
聖心愛は志信のスマートフォンをいじって、『メール非通知設定』を開いた。
「あ、これって……」
「そうだよ。オメー、非通知の電話と、パソコンからのメール拒否してただろ。それ外してみろ。きっと母ちゃんからメール来るからよ」
『お母さんです。いま平気ですか?平気であれば、非通知の電話着信拒否を解除してください。こちらから非通知で電話します』
聖心愛の言ったとおり、その日の深夜にパソコンの知らないアドレスからメールが届いた。
志信は大丈夫だとメールに返事をする。念のため、自分の携帯電話番号を添えた。
しばらくして、非通知で電話がかかってきた。
「志信です」
「あ、ノブくん……こんな時間にごめんね」
「女性からの夜の電話は大歓迎」
電話の向こうには、昨日別れたばかりの母の、懐かしい声。
「非通知でごめんね。ノブくんの携帯から、お父さんたちがわたしの連絡先をつきとめると面倒になっちゃうから。……あと、お弁当の入れ替えも、ごめん。辛かったでしょう?」
「ううん、こちらこそ勝手なことして、ごめん。聖心愛と話したら、なぜお母さんが奏したかもわかったし」
「聖心愛ちゃん?」
「うん。実は最近、お父さんの方に戻ってきたから、僕のセフレになったんだ」
「ふうん……じゃあ、やっぱり、聖心愛ちゃんの作戦なのね?」
「あ、いや。作戦自体は僕が……」
「うそおっしゃい。わかってるんだから」
倫江にはなんでもお見通しのようだ。
「ノブくん……言いづらいんだけど、聖心愛ちゃんは、いい子じゃないわよ」
「うん……でも、悪い子でもない。悪いのはショコラママなんだ」
「……それがわかってるなら、大丈夫ね。気をつけるのよ」
それから、倫江は弁護士のことなど、前に父が電話で話していたことをひと通り話した。
「で、ノブくんは……どうしたい?」
それは弁護士と父の間の話にはなかったことだ。
「お母さんと暮らす?お父さんと暮らす?」
「それはもちろん、お母さんについていきたい……けど」
志信はそこで一瞬、言いよどむ。
「僕がお母さんの負担になるなら、僕はお父さんの方に残るよ」
「負担?まさか、お金の心配とかしてる?」
「……うん」
「生意気に育ったんだから」
「えへへ……もう高校生だもん」
「わかった。そこはなんとかするから、もうちょっとだけそっちで我慢しててくれる?」
「えっ?」
「聖心愛ちゃんの時もそうだったけど、親権は母親有利なのよ。それに今回はお父さんのほうに責任があるんだし、志信が高校生なんだから何よりも本人の意思が尊重されるから」
「でも、お金が……」
「大丈夫。親権がとれたら慰謝料と養育費はしっかりもらうつもりだから」
「……うん。いろいろ、ありがとう。今度、身体で払うよ」
「そうしてもらおうかしら」
「えっ?」
「志信が健康で元気でいてくれること、それが母親にとっては、身体で払うことになるの。わたしはあなたのお母さんなんだから」




