第三章 第八話
結局、弁当でまともに食べられたのは白米だけだった。
デスソース愛好家の功とおかずを交換してなんとかしのいだが、問題はそれだけではない。ピタ聖心愛スイッチが失敗したという事実のほうが大きなダメージだ。
志信は家に帰ってからも、倫江と口を聞くことができなかった。辛さで口が麻痺してるわけではないが。
倫江は何も言わずに弁当箱を片づけている。弁当を完食したことなど、気にも留めていないかのようだった。
ああ、まだ口の中がヒリヒリするような気がする。志信は冷蔵庫から牛乳をとりだした。辛い時には牛乳だ。
その、コップに注いだ牛乳の表面が、小刻みに震えている。地震か?いや、階段をのぼる足音が、強い怒気を孕んでいるような――。
「倫江さんっ!!」
ばんっ、とドアが強く開け放たれた。慶子が仕事帰りのまま、直接飛び込んできたのだ。
「あんたっ!どういうつもりなの!?」
「あら、どうしました?お義母様」
それに対する倫江はなぜかすまし顔だ。
「どうしましたじゃないわよ!なによこれ、食べてみなさいっ!」
慶子が机に叩きつけたのは、志信の弁当箱。
「なんでこんなもの作ったのよ!?」
「あら、お義母様の言うように、とびきり派手な、若者向けお弁当を作らせていただいたまでですわ」
そう言う倫江の口調は、いつもと違って芝居がかっていた。余裕すら感じられる。
「まさかお義母様、お召し上がりに?まあ大変。若者向けですから、お義母様がお召し上がりになったら心臓発作を起こしてしまいますわ。なんともなくて何よりですわ」
志信もそれにきづいた。母がいつもと違う。なんというか、演技過剰。例えるなら、まるで継母たちに下克上を叩きつけるシンデレラのようだった。
「こ……この……嫁のくせに……っ!」
慶子は怒りのためか言葉につまっているようだった。
志信はこっそり、慶子が叩きつけた志信の弁当箱からおかずをつまんでみた。
ひいっ!
今までにない辛さが志信を襲った。自分が食べた弁当のそれを、はるかに上回る量のデスソースが使われていたようだ。よく見れば白米もうっすらデスソース色に染まっている。
「そもそも、大切な愛人様のお食事を、自分がいびっている嫁に任せる時点で、こうなるのは予測できなかったんですか?お義母様。わたしは奴隷でもなんでもないんですよ?」
倫江の芝居は続く。
「それに、そんな行いばかりで、将来の介護をやってもらえるなんて、本気で思っていたんですか?わたし、お義母様が動けなくなったら、復讐しますよ?老後の事考えてたんですか?本気で」
「許さないんだからね!勇助に言いつけてやる!あんたなんかこの家に居られなくしてやるんだから!」
「どうぞ、ご自由に。こちらにはこれがありますから」
そうして倫江が突きつけたのは、白地に緑色で文字や枠が印刷された一枚の紙。
離婚届、と書いてある。倫江と勇助の名前が記入されていた。
「勇助さんがいつだったか、『なにかあったらすぐ捨ててやる』とばかりに記入させえたものです。保証人はわたしの友達に埋めてもらいました」
「な……っ……」
「馬鹿ですよね。離婚が女に言うことを聞かせるための手段になると思っているなんて。夫なんかいなくても、立派にやっていけることを、お義母様にしっかり教えていただきましたから。パートでもなんでもやりますよ」
パチン!
乾いた音が響いた。
倫江は、打たれた頬をおさえもせず、気丈に言い返す。
「はい。いま暴力を振るいましたね。DVです。いまの会話はしっかり録音してありますので、お義母様の暴力も記録しています。……もちろん、この数日の勇助さんとの会話もです」
「なっ……」
「あとは弁護士を通してお願いいたします。これ、この件を請け負ってくださる弁護士さんの名刺です」
倫江は机の上に名刺を静かに置くと、リビングに置いてあった旅行用鞄とハンドバッグをとり、離婚届を詰め込んで玄関に向かった。
「お母さん!」
ようやく、志信は正気に戻って言った。
「ノブくん、ごめんね。あとでメールするから」
倫江は振り返らずにそう言って、しっかりした足取りで玄関を飛び出した。




