第三章 第七話
志信が帰ると家は喧騒に満ちていた。
倫江のすすり泣くような声が玄関を開けた瞬間に聞こえてくる。
「だって、お義母さんが勇助さんに本当のことを言ってくださらないから……」
それを遮って慶子のけたたましい怒鳴り声がそれを遮る。
「言えるわけないじゃない!わたしはあの子の母親なのよ!」
「ですけど……」
「何よ。ですけど何なの?とにかく、あんなビンボったらしいお弁当は金輪際作らないこと。顔から火が出る思いだったんだから」
どうやら、お弁当の内容が気に食わなかったらしい。
志信も同じ弁当を食べたからわかる。明らかに、節約という言葉が当てはまる弁当だった。
生活費を払わないという宣言を受けているのだから、無理もないことなのだが……。
その原因を担っている慶子が当たり散らすのは、まったく身勝手だ。志信は思った。
「それから、もっと内容を若い人向けにすること。あんたにやらせてやってるんだから、それくらい考えればわかるでしょう」
「でも、お義母さん。相手の方について何もおっしゃってくださらなかったじゃないですか。まさか三十代だなんて思いもしませんでした」
「三十代を相手にしちゃ悪いっての?」
志信の背筋に悪寒が走る。三十代?たしか父さんが四十五くらいだったから、それよりも若いってことになる。うええ、自分の息子より若い男を狙うなんて。
「わかったら、次はもっと若い人向けの派手なお弁当を作ること!ハンバーグが好きだって言ってたからね、入れるんだよ!わたしはハンバーグ嫌いだから入れないで!」
志信は慶子とはち合わせる前に、そそくさと自分の部屋にこもった。
今のやり取りを聞いて、志信はようやく決心した。
このまま僕が手を出さなくても、母さんはつらい思いをしつづける。それが早く終わるか長く続くかの違いなんだ。
ピタ聖心愛スイッチ、やってやろうじゃん!
翌朝、早く目覚めた志信には武器があった。
功に押し付けられたデスソースだ。
辛すぎて食べる気にもならず、とりあえず冷蔵庫に入れておいたのだが、使うとしたら今しかない。志信はキッチンに向かった。
「おはよう」
「あらノブくん。今日は早いのね」
キッチンに入ると、まさに今、倫江が弁当と朝食を並行して作っているところだった。
「なにか手伝おうか?性的な悩み以外で」
「それじゃあ、頼んじゃおうかな。お弁当にふたして、お箸つけて包んでくれる?」
チャンス!志信は心のなかでガッツポーズをした。
並んでいる弁当箱は四つ。志信と勇助のは知ってる。それとあと二つ。あと二つのうちどっちが慶子の相手のものだろう?
母に聞こうか。いや、不審な動きがバレたらまずい。
そうだ。昨日たしか何か言ってたじゃないか。……そうだ、ハンバーグだ。
弁当をよく見ると、確かに違いがあった。片方にはハンバーグが入っていて。もう片方には入っていない。
ということは、このハンバーグの弁当にデスソースを存分にまぶせばいい。
ハンバーグには手製のデミグラスソースがかかっている。だからデスソースがかかっても別に気にならないはずだ。
以前、悶絶した時より多く、たっぷりかける。慶子の相手に恨みはないけれど、許してください。
謝りつつも手はとめない。志信が功に騙されたときには甘い卵焼きが助けてくれた。すこし色がつくがお弁当なら気が付かないだろう。この卵焼きも辛くする。隣にはプチトマトが添えられていたので、これも辛くしてしまおう。
「うふふふ……」
志信の口から、思わず小さな笑みがこぼれた。
「どうしたの?ノブくん」
「えっ、いや。別に……ちょっとエッチなこと考えてただけ」
「そう?たしかになんだか変な笑い声だったけど……」
「いやー。考えてることがいつも駄々漏れで申し訳のうござんす」
「なにそのしゃべり方」
危ない危ない。もう少しで気づかれるところだった。
志信は素知らぬ顔をして弁当に蓋をし、箸を添えて袋に入れた。
この爆弾が、ピタ聖心愛スイッチの第一押し。トントン拍子に進めば、今日の夜が最後の一押しになるはずだ。
ピタ聖心愛スイッチの経過をこの目で見られないのが誠に残念である。
その日は授業が手につかなかった。
何をしていても、ピタ聖心愛スイッチのことばかり頭に浮かんでしまう。
期待もあれば、あれでよかったのかという後悔もあった。
聖心愛の口車にのせられてしまったが、本当に聖心愛の言うように上手くいくのだろうか。
いいや、上手くいくさ。いつだって聖心愛の作戦は、痛みを伴うけど上手くいった。
そう考える志信の心の中からは、聖心愛の親権が母親側に渡ってしまったという大きな計算外の出来事はすでに抜け落ちているのだが――。
昼休み。まんが研究会の部室には、功の他には一年生は来ていなかった。
「うーっす。おまえが来ないと弁当を食う気にもなれねえし、待ってたぜ」
ガタッ。
功が言った瞬間に、二年生の舞が立ち上がった。
「ど、どうしたんですか……」
「……な、なんでもないです。ど、どうぞ……続けて……」
志信はこの腐女子の先輩が少しこわかったが、ミーティングの時の意見どおりなら、勝手にまんがに出されたりすることはないだろう。
「人が見てるじゃないか……そういうのはふたりきりの時にやってよ」
志信は小声で言ったが、功は気にした様子もない。
「えー、いいじゃん。愛してるぜぇ志信う」
舞はすっかり箸を止めてこちらに耳を向けている。一緒にいる他の二年生女子はもう慣れたものだ。
功も志信もそれをわかっているから調子に乗る。
「そんなこと言って、僕以外の男にもそういうこと言ってるんでしょう?」
「いいや、俺が愛してるのは志信だけだぜ」
功が立ち上がって、志信の肩に手を置く。
「功……だめだよ、先輩が見てる」
「見せてやればいいさ……」
「んっ」
そして舞からは、二人はキスをしてるかのように見える角度で顔をあわせる。もちろん数センチの距離があるのだが。
「あ、あのっ……志村くんと仲本くんは……」
舞がこらえきれずに言った。
「つきあってないよ」
「うん、つきあってない」
「キスもしてない」
「うん、してないね」
「センパイ、ナマモノでのBLは本人に伝えるのはご法度でしょう?」
「あ……う……」
舞は顔を真赤に染めて、弁当に戻る。
「ま、ま、ま。とにかくメシにしようぜ。で、聖心愛ちゃんとは何かあったの?」
功が弁当の包みを開きながら聞いてくる。が、志信はなんと答えたらいいかわからない。家庭の事情に首を突っ込ませるほどの関係ではないのだ。
「まさか、あのまんがみたいな悪巧みしてるんじゃないだろな?」
「えっ……」
問われて、弁当箱を開く志信の手が止まる。
「おい……おまえ、まさか……」
「やだなあ。ははは……そんなわかるあるわけないじゃじゃいか」
「呂律まわってねえぞ」
「それより、ごはんだごはんだ」
志信は弁当の蓋を開け、ごまかすようにハンバーグに箸を伸ばした。
ああ、このお母さんの手作りハンバーグが、ピリっとしていて……。
ピリっ?
「んむ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
瞬間、志信は口を押さえて悶絶する。噴き出すようなカッコ悪い真似はしたくない。どうにか飲み込むが、それが第二の間違いだった。
辛みが痛みとなって喉を刺激する。慌てて志信は甘い卵焼きをつまみ、飲み込もうとしてついに咳き込み、噴き出してしまう。卵焼きも、確かに辛かった。
「うわっ、汚ねっ!」
「ごっ、ごめん……ひぃ……はぁ……」
どういうことだ?デスソースは確かに目的の弁当箱に入れたはず。
そしてようやく気づく。弁当箱がいつもと違うのだ。
功と一緒に舞をからかいながらだったから気づかなかったが、箸と包みは志信のものなのに、弁当箱だけがまるごとターゲットの弁当箱と入れ替わっていたのだ。
「なに?デスソースやられたの?」
「……うん、そうみたい……」
「お袋と喧嘩でもしたの?」
「それならまだ、よかったけどね……」
「え?」
弁当箱をを入れ替えることができたのは、倫江だけだ。
志信と勇助が弁当を持ち出し、そのあと慶子のところに倫江が残った弁当を届けるのだから、入れ替えたのは倫江に違いない。
だったら倫江は、なぜ弁当箱を入れ替えたのだろう。
答えは簡単だ。
志信がしていることを見ぬいて、慶子の怒りを買わない方法を選んだ。
爆弾入りの弁当の処理は志信自信に責任をとらせることにしたのだ。
なにはともあれ、ピタ聖心愛スイッチは失敗に終わった。
それは揺るぎない事実だった。




