第三章 第五話
聖心愛と別れて家に帰り、玄関前の外階段を登ると、一階に降りてくる慶子とすれ違った。
慶子は志信を一瞥すると、これまでの優しい顔が嘘だったかのように目をそらした。当然、声をかけたりもしない。志信も何も言わなかった。
志信は軽くがっかりして、玄関を開けた。
案の定、志信がはじめに見たのは、テーブルについてうなだれる母親の姿だった。慶子がいわゆる嫁いびりを隠さなくなったように、倫江もそれによって疲れた自分を隠さなくなっていた。
「ただいま……」
「ああ、ノブくん……。おかえりなさい」
しばし、沈黙が続く。
志信は自分の部屋に帰ろうとして、思い直した。
「……今日はなにされたの?」
「……何もされてないわよ」
「じゃあ、デリヘルで働けとでも言われた?」
「やめて、お母さんいまセクハラ受け流せる気分じゃないの」
「だったら本当のこと言ってよ。聞くくらいならできるからさ」
「……」
「溜めこむの、よくないよ」
男も溜まったら発射するんだから、と言うのはやめておいた。
「わたしは、母親失格ね。息子にこんなに心配かけちゃって」
倫江はコップの水を一口すすり、改めて志信に言った。
「お弁当を作れ、って言われたのよ。しかも二つ」
「二つ?」
「おばあちゃん、最近パート始めたでしょう?」
「うん、聞いた気がする。でも、一つはおばあちゃんの分として、もう一つは?」
それに、倫江のつくる料理を平気で捨てるような祖母である。それがなぜ倫江の弁当を欲するのだろう。
「パート先の男の人に、お弁当を作ってあげる約束しちゃったんだって」
「えっ?色ボケ!?」
「しっ」
女性が男性にお弁当をつくってあげる。つまり、そういうことだ。
そりゃ悪いことはない。慶子は夫に先立たれて今は独り身なのだ。恋愛だって自由だ。だが、年齢を考えれば変な話である。
「大丈夫、お弁当なんか二つも四つも大して変わらないから」
「でも……穴は二つしかないんだよ」
「上にもあるわよ……。ノブくん、母親にこういうこと言わせて良心痛まないの?」
「正直、言うとは思わなかった」
「とにかく、大丈夫だから」
「……うん」
倫江が大丈夫と言う以上、志信からはなにも言えない。
『オメーはどうしたいわけ?』
聖心愛の言葉が頭の中で踊る。
母の味方をして祖母をやっつけるのは簡単な考え方だ。
けれども、家庭内ではそんな簡単な方法ではない。ショコラママの悪事を明かして、聖心愛の父の判断に委ねるのとはわけが違う。そもそも今回は、父親も敵なのだ。
家族の縁を志信が切ることはできない。かといって慶子に嫁いびりをやめさせることは出来ない。
どうすればいいんだろう。僕は、どうしたいんだろう……。
それから一ヶ月ほどしたある夜のこと。
「なんでも母さんのせいにするんじゃない!」
父親の怒鳴り声、そして何かが倒れる音が聞こえて、志信はまんがを描く手を止めた。
こっそりと廊下に出ると、リビングのスライドドアが小さく開いていて、光が漏れていた。声はそこから聞こえる。
「母さんが何歳だと思ってるんだ。今更男にどうこうする年齢じゃないだろう!」
志信は恐る恐る隙間からリビングをのぞき見た。
倒れた椅子と、くずおれる倫江。そしてその側に仁王立ちになった勇助が見えた。
「本当の事を言え、この家計簿の『弁当代』が増えた分は何に使った?」
「本当なの、お義母さんのパート先の分を……」
「まだ言うのか!母さんに聞いてみればすぐわかることだぞ」
言って、勇助は電話機をとった。内線で慶子にかけているのだろう。
「そうか、じゃあ母さんは知らないんだね。うん、ごめん夜中に。それじゃあ」
それだけ話すと勇助は電話を置く。
「聞いての通りだ。これでもまだ言い逃れするなら、本当の事を言うまで生活費はもう払わないぞ」
「そんな!それじゃあ食費もお弁当も……」
「君がこっそりちょろまかした金があるだろう。それを使えばいいじゃないか」
勇助が立ち上がり、志信の方へ向かってくる。志信は慌てて玄関の方に身を隠した。
志信は勇助が階上に行く足音を聞きながら、聞いた話を反すうした。どうやら倫江がつけている家計簿を勇助が見て、弁当代が急に増えたことを、倫江のごまかしだと決めつけているらしい。しかも、電話で慶子に確認した上で、慶子の嘘を信じ、倫江のことはまるっきり信じていない風だった。
思い返せば勇助は昔から倫江のことを下に見ていた。小学校の頃の、聖心愛の時もそうだ。あのころ、勇助が少しでも倫江の味方をしてくれれば、違う結果が待っていたんじゃないだろうか。
志信はそっと自分の部屋にもどった。倫江を助けたい気持ちもあったが、覗いていたのがバレたら始末に負えない。
そしてベッドに倒れ込むと、携帯に新しく追加されたアドレスにメールを送る。
程なくして返事がきた。
『眠いんで、ぁしたガッコ終ゎってからでぃぃ?☆♥☆Chocola★♡★』




