第三章 第三話
「勇助さん」
食器を洗い、慶子を見送り、志信を寝かしつけてから、倫江は勇助に話しかけた。勇助は晩酌をすでに始めている。酔う前が勝負だ。
「なんだよ。お袋のことなら、おまえの思い違いだと何度も言ってるだろう」
勇助は最初から話を聞くつもりはない。それは倫江にも理解できる。自分の母親がそういうことをしているとは、信じがたいのだろう。
「わたしは何も言いませんが、これを聞いてください」
倫江はICレコーダを再生した。
慶子による倫江への暴言が数日分収録されたそれが、十分くらいにまとめられている。それを聞いた勇助の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「ねえ、言ったとおりでしょう?お義母さんは……」
「こんなものを聞かせてどうするつもりだ!」
勇助の怒りの対象は、暴言を浴びせる母にではなく、それを自分に聞かせた妻に向いた。好きあって結婚したはずの妻にである。
「お袋になんの恨みがあるんだ!こんなものを!」
勇助はレコーダを取り上げ、叩きつけた。
「……くそっ……。寝る!」
ああ……。
結局あなたは、わたしよりお義母さんを選ぶということなんですね。
切り札が通じなかったと理解した倫江は、深い絶望に包まれた。
それからしばらくしたある日。
志信はまんが研究会のミーティングを終えて、夕方前に帰ってきた。
「ただいまー。お……このにおいは……」
家中に漂うトマトの香り。
「おかえりなさい。今日はノブくんの好きなビーフストロガノフよ」
ビーフストロガノフは、ロシア料理の中でも比較的ポピュラーな煮込み料理だ。主にバターライスにかけて食べる。名前に含まれる『ビーフ』は牛肉ではなく『〜風の』いうロシア語だ。だから倫江のビーフストロガノフはチキンを使っているが、ビーフストロガノフと呼ぶ。
倫江が最近覚えた料理の一つで、志信の大好物でもあった。
「やった!もう食べられるの?」
「もう少し待たなきゃだめ。さ、宿題でもやってお待ちなさい」
促されて、志信は自分の部屋に戻っていく。
もちろん宿題もするが、それよりまんがだ。
いままで志信は実際の事件をモデルにすることばかり考えていた。それじゃあいけない。自分は平和な日常を送っているが、主人公には波瀾万丈の毎日をおくらせなければ面白くない。
そうだ、たとえばこういうのはどうだろう。お母さんとおばあちゃんの仲がすごく悪いんだけど、実は主人公はそれに気づいていないっていう……。
ピンポーン。
そこまで考えたところで、チャイムが鳴った。
そして怒鳴り声があとに続く。
「倫江さん!いるんでしょう、早く開けなさい!」
あれ……?あれはおばあちゃんの声だ。こんな怒っているおばあちゃんは初めてだ。志信は悪いと思いながら、聞き耳を立てた。
「まー!なにこの変な臭い!ご近所じゅうに漂ってるわよ、みっともない!またあなた、変なカレーを作ったのね!」
「違います、それはカレーじゃなくて……」
「こんな変なもの、勇助たちに食べさすんじゃないの!」
志信は嫌な予感がした。僕のビーフストロガノフが、おばあちゃんの怒りの元凶になっているらしい。志信はビーフストロガノフを救うべく、キッチンを目指した。
「やめてください、志信の大好物なんです。それだけは……」
声を出すことしかできずに立ち尽くす母が見えた。
その向こうに、鍋から日を下ろしている慶子が見えた。
よかった、まだ無事だ。間に合った。
その考えが甘かったと知ったのは一瞬の後。
ざばあ、とシンクにぶちまけられるビーフストロガノフ。
殺した。
おばあちゃんが僕のビーフストロガノフを、殺してしまった!
「あ、ああ……」
その声に気づいてか、悪鬼羅刹のような顔をしていた慶子が、いつも志信に見せていた柔和な笑みを浮かべる。しかしそれは先程の悪魔の所業を見ていた志信にしてみれば、恐ろしい偽物の笑顔に見える。
「ああ、志信。帰ってたんだね。今日はおばあちゃんが美味しいカレー作ってあげるからね」
「僕のビーフストロガノフ!」
「ビーフ……なんだい?お母さんの作るまずそうなものを我慢して食べることないんだよ」
「違うよ、ビーフストロガノフ!僕の大好物なのに!なんで捨てちゃったの!? ヴァージンみたいに簡単に捨てないでよ!」
ようやく、慶子が理解したようで、顔を歪める。
「大きな声を出さないでよ!しかも何その言葉!」
その変貌ぶりに、志信も一瞬怯む。
「ああ、もう。母親が悪いからこんな子になっちゃったのかねえ」
「おばあちゃん……何を、言ってるの……?」
「あんたも勇助の子なら、こんなバカ親の言うことばかりはいはい聞いてるんじゃないの。まずいものは素直にまずいって言えばいいでしょう」
どうやら、もはや慶子の中では、ビーフストロガノフ=バカ嫁のまずいカレーと言う式は覆せなくなっているようだ。それが志信には悔しかったし、さらに自分の行動に対して『親が悪い』と言われるのは、まるで自分に意志がないかのように扱われた気がして、ひどく不快だった。
「倫江さん。今日は勇助とわたしは外に食べに行きます。あんたたちは流しからそのビーフなんとかと言うのをすくって食べてなさいな」
その夜、二人は買いだめしていたレトルトのカレーを温めて食べた。
食べる間に、志信は倫江からすべてを聞いた。
料理を捨てられるのが初めてではないこと。そして、結婚したころから始終イヤミや悪口を浴びせられていることなどを、倫江は淡々と話していった。
カレーの味など感じなかった。すでに胃はビーフストロガノフ用になっていたのだ。その上に辛い話。色々な感覚が麻痺してしまっている。
裏切られたのは人生で初めてではない。けれども、可愛がってくれていると思っていたおばあちゃんに裏切られたのは、志信にはあまりに大きなダメージだった。




