第三章 第二話
ピンポーン。
志村家の息子世帯のチャイムが鳴った。
倫江はどうせまた義母だろうと思って、うんざりしながらドアを開ける。居留守でも使おうと思ったが、そうするとあとで、許可無く出かけたと嫌味を言われるのだから。
「早く開けないから、またどこか遊び歩いてるんだと思ったわ」
案の定、義母――勇助の母の慶子が、ドアを開けると同時に毒舌を吐いた。
慶子は倫江がなにか言う前に上がり込み、さっさとリビングに腰を下ろす。
「お茶も出そうって気がないのかしら?」
「はい……」
「なに、その不満そうなお返事は。お邪魔だったかしら?」
「いえ、邪魔だなんてそんな……」
「いいわね。勇助の稼ぎがいいから、働かないで一日中ごろごろして暮らせるんだから」
「ごろごろなんてしてません……」
「専業主婦なんてそんなものでしょう?わたしみたいに献身的に夫や婚家に尽くしていた時代とはわけがちがうんだから。洗濯機や食器洗い機みたいな手抜きばかり覚えて……。そもそも勇助と一緒に、わたし達と別居していたことがその証拠です。今だって二世帯住宅だなんて。外階段を他人様に見られたらみっともない」
慶子は口を開くとマシンガンのようにイヤミを吐き出していく。
二世帯住宅に引っ越してすぐからこうだった。いや、結婚するまえから実際はこうだったのかもしれない。
ここに引っ越してからほぼ毎日、慶子は一階の住居から、二階の息子世帯にイヤミを言うためだけに押しかけてくるのだ。
もちろん、慶子だって一度も働きに出たことのない専業主婦である。それだからこそ暇で仕方がないから倫江をいじめに来ているわけだ。それを棚に上げて、何が『ごろごろして暮らせる』だ。倫江はそう思ったが反論はしない。一つ言えば百返ってくるのは身を持って覚えた。
「それにしても……なに?この変な臭い」
「はい、今カレーを煮ていまして……」
「カレー?まあ、これがカレー?」
わざとらしい声をあげて、慶子はキッチンに駆け込む。
「なにこれ!ああ、ひどい。……あんた、勇助たちにこんなもの食べさせる気だったの?」
慶子が悲鳴をあげた理由は、カレーがまずそうだったからではない。ただ、自分の今までの世界になかったものを、大嫌いな嫁が作っていたからなのだ。
そもそも倫江のカレーはスパイスから作る本格インド風カレー。新しいものを受け入れられない慶子にとっては格好の的だった。
「ええ、その……結婚してからずっとこのカレーですけれども……」
「ひどいわ!勇助はずっと我慢してたのね!こんなもの!」
ヒステリックな金切り声をあげる慶子の行動は早かった。鍋をひっくり返し、中身をシンクに流しこむ。排水口に豆や鶏肉がごろごろ流れていき、流れが詰まった。
「カレーはわたしが作ります」
「……はい」
料理を捨てられるのは初めてではない。カレーの前はシチュー。その前は味噌汁。その前はなんだっただろう。勇助や志信が好きなものでも、慶子の世界にないものは処分されるのだ。
捨てられることで負う精神的ダメージは大きいが、『作りなおせ』でないだけまだマシだと思わなければならない。だが、シンクにそのまま流した豆や肉の詰まりを取るのは倫江の仕事だ。
「ただいまー」
志信が鍵を開けて家に入った時、家には誰もいなかった。
ふだんなら夕飯の支度をしている時間なのに、どうしたんだろう。
まあいいや。そう思いながら自分の部屋でノートを開く。
かと言ってアイデアが出るかというとそういうわけでもない。
聖心愛がいない今、もう自分の周りにまんがみたいなトラブルはないのだ。
しばらくノートに向き合い、部長たちに言われた通りエロ描写を抜いていく。
そうするうちに、玄関のドアが開く音がした。お母さんが帰ってきたのだろう。
「志信、帰ってるの?」
その声は母ではなく祖母の慶子だった。志信は部屋を出て階段下を覗く。慶子と、大荷物を抱えた倫江が二人そろって帰ってきたところだった。
「はーい、おかえり!」
「そっちもおかえり。今日はおばあちゃんのカレーだから楽しみにしてるんだよ」
慶子は玄関を入る前に倫江に向けていた顔が嘘だったかのように、優しい顔で志信に話しかけた。志信は知らない。志信は気づかない。生まれてこの方、一度も気づかなかった。
「母さんのカレーは久しぶりだな」
「おかわりまだまだあるからね」
勇助と慶子、それに志信と倫江の四人でテーブルを囲むのは、めったにないことだった。勇助は帰りが遅いことが多いし、慶子は嫁の作ったものなど食えるかとばかり、自分のキッチンで自分のものだけを作って食べている。それでいて『うちの嫁はろくにごはんも食べさせてくれない』と触れ回ってるような、絵に描いたようないじわるばあさんである。
「どうだい、志信。美味しいかい?」
「うん」
慶子のカレーは確かに美味しい。それはそうだ。カレールウの箱に書いてある通りに作ってまずいわけがない。勇助の嫌いなニンジンも入っていないし。鶏肉ではなく豚肉を使っているのも勇助好みのところ。
前述した通り、倫江のカレーはカレー粉から作ったこだわりのカレーだ。慶子のものとは全然違うのに。勇助も志信も大して何も言わない。
倫江にしてみれば、その二つが同じ天秤にかけられるのはさらなる屈辱だった。
慶子が倫江の前でだけ態度を変えるのもストレスだった。いや、そっちが素顔で、他の家族の前での顔が偽物なのかもしれないが。
志信の前では優しいおばあちゃんを演じているが、倫江だけは知っている。例えば勇助と慶子二人で願いを込めて志信と言う名前をつけたのに、自分や義父がその名づけに参加できなかったことをいつまでもいつまでも言い続けるのだ。
もちろんそれだって、勝手に話を進めたわけではなく、双方の祖父が相談して、『名前は親から命の次の贈り物。老人が出る幕ではない』と一歩退いた話だ。勇助もそれに賛同したのに。なぜか慶子の中では倫江だけが悪者になっている。
倫江の前では志信の悪口すら言う。まんがばっかり描いてるバカな孫だと思ったのなら、母親に似て遊ぶことばかり考えている子だと罵るし、逆に美術コンクールで入賞すれば父親に似た勤勉な子と褒める。しかし何度も何度も愛しい志信の悪口を言われるのを、倫江は我慢して聞き流していた。
志信が小学生だった頃の事件もそうだ。慶子の中では、倫江さえ耐えていればなにも起きなかったはずだし、志信さえバカな真似をしなければ何事もなかったと常々言っている。
言われ続けているうちに、そうだったのかもしれないと、いつしか倫江は思うようになってきていた。
でも、そんな幻想も今夜で終わる。
聖心愛ちゃんがくれたヒントがあるんだから。




