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『野球人生、2周目。〜51歳の元球児、小学生からやり直し日本人初の大リーグ二刀流になる〜』  作者: あちゅ和尚


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第2話 左投げ、両打ち

「山下君、もう1球投げてみ」


橋本監督に促された直人は、硬球の縫い目へ左手の指を掛け直した。


最初の1球で、現在の身体がどこまで動くのかはおおよそ分かった。足を上げたときの重心、踏み込んだ膝の安定、腕を振った後に左肘へ残る感覚を頭の中で順番に拾っていく。


痛みはない。ただし、9歳の筋肉は思っていた以上に頼りなかった。頭の中に球速175km/hを投げるための設計図があっても、そのとおりに動かせる身体はまだ出来ていない。


直人は1球目より少しだけ歩幅を広げ、左腕を振った。


白球はほとんど横ぶれせず、上級生が構えたミットの中央へ収まった。先ほどより鋭い捕球音が響いたものの、直人はボールの行方ではなく、自分の肘と肩に意識を向けていた。


肩の前側にわずかな張りがある。痛みではなく、これまで使っていなかった筋肉が急に働いたためだろう。


「もう1球いけるか?」


「その前に、少し肩を回してもいいですか」


橋本監督の眉が動いた。


「しんどいんか?」


「しんどくはないです。でも、いきなり強く投げたら肩を痛めるから」


直人が左肩をゆっくり回すと、監督は急かさずに待った。


昭和の少年野球では、指導者に言われたとおり動く子供が好まれる。体験入団へ来たばかりの9歳が、自分の判断で投球を止めれば、生意気だと受け取られてもおかしくない。


「自分の肩の具合が分かるんか?」


「投げるのは自分やから、分からなあかんと思います」


「誰に教わった?」


直人は返事に詰まった。


51歳まで生きた経験です、と答えるわけにはいかない。


「テレビで見ました」


苦し紛れの答えだったが、橋本監督は深く追及しなかった。直人の右手からグラブを受け取ると、大きさと傷み具合を確かめる。


「このグラブ、新しいな」


「買ってもろたけど、まだあんまり使ってません」


「道具は使わな手になじまへん。せやけど、身体は使い潰したら終わりや。そこは一緒にしたらあかんぞ」


その言葉を聞き、直人は橋本監督を見直した。


怒鳴り声の大きさから、根性だけで子供を動かす指導者だと思いかけていたが、少なくとも肩や肘を消耗品とは考えていないらしい。最初の人生でこの体験入団へ参加していれば、自分の左肘は壊れなかったのではないか。そんな考えが浮かんだものの、今さら答えを探しても意味はなかった。


監督からグラブを返してもらい、肩の張りが薄れたところで、直人はさらに3球を投げた。橋本監督は球速を求めず、足の運びや腕の振りを黙って観察している。


「今日はこれでええ」


「もう終わりですか?」


「体験初日から何球も投げさせる必要はない。次は打つほうを見せてみ」


渡された金属バットは、子供用でも直人の記憶にあるものより重かった。ゲームの選手なら片手でも振り抜けるだろうが、現在の直人には両手で支えるだけでもずっしりと感じられる。


直人は何本か並べられた中から、少し短いバットを選んだ。


「右利き用と左利き用はないから、好きなん使え」


橋本監督の声を聞きながら、直人は左打席へ入った。投げるコーチが右利きなら、左で打つほうが球の見え方も間合いも有利になる。


最初の人生では左でしか打ったことがない。それでもゲーム内の山下は両打ちで、左右どちらの打席でも同じようにバットを操った。その感覚が本当に引き継がれているのか、まだ確かめていなかった。


直人はバットを寝かせすぎず、肩の力を抜いて構えた。コーチが投げた最初の球には手を出さず、速度と軌道を目で追う。


「振らな当たらへんぞ」


後ろで見ていた上級生が笑った。


直人は言い返さなかった。51歳の自分が子供を相手に腹を立てても仕方がないし、初球を見たことでタイミングは分かった。


2球目が外寄りへ流れてくる。


直人は無理に引っ張らず、踏み込んだ左足の上で腰を回した。金属音とともに打球が一、二塁間を抜け、外野の芝の手前で弾む。


上級生の笑い声が止まった。


「直人、そんなん打てたんか!」


外野の列から声を上げたのは、体験入団へ誘ってくれた同級生の中村健太だった。直人は返事の代わりにバットを構え直す。


力はほとんど入れていない。飛距離も大したことはなかったが、ボールを芯で捉えた感触だけは、ゲーム内の山下と変わらなかった。


その後も直人は5球のうち4球を前へ飛ばした。空振りした1球も、高めの球へ意識して手を出し、現在の身体でどこまでバットを止められるか試した結果である。


橋本監督が隣にいた左投げのコーチを呼んだ。


「松岡、今度はお前が投げてやれ」


左投手を相手に、左打席でどれだけ対応できるかを見るつもりなのだろう。


直人はバットを持ったまま、反対側の打席へ移った。


「おい、そっちは右打席やぞ」


「右でも打てます」


橋本監督だけでなく、周囲にいた子供たちまで黙り込んだ。


「左利きやのにか?」


「はい。たぶん」


「たぶんて、どういうことや」


直人にも説明しようがない。ゲームで出来たから現実でも出来ると思います、などと言えば、頭を打ったのかと心配されるだけである。


右打席でバットを構えると、左打席に立ったときとは景色がまるで違って見えた。それでも足の置き方や腰の回し方に迷いはなく、身体の奥からもう1人分の打者の感覚が浮かび上がってくる。


松岡コーチの投じた球が、直人の胸元へ来た。


9歳の子供なら、左投手の球が身体へ向かってくるだけで腰を引いてもおかしくない。直人は右足で地面を押し、身体の近くまで球を呼び込んでからバットを出した。


打球は三塁線の内側で弾み、そのまま外野まで転がっていく。


「ほんまに打ちよった……」


捕球役の上級生が呟いた。


橋本監督は驚いていたが、すぐに直人の握りと足元を確認した。


「右は誰に教わった?」


「テレビで見て、まねしました」


先ほどと同じ答えを使うしかなかった。


「テレビいうても、見ただけで出来るもんやないぞ」


「家で素振りはしてました」


これは嘘ではない。最初の人生では、左肘を壊してから右打者へ転向できないかと考え、何度もバットを振った。ただし、そのときは右でボールを捉えられず、野球を続ける道にはならなかった。


橋本監督は腕を組み、しばらく直人を眺めていた。


「山下君、走るのは嫌いやないか?」


「嫌いやないです」


「ほな、次は走塁と守備や。無理して速く走ろうとせんでええぞ」


体験練習の最後に短い走塁と守備を試され、直人はどちらも無難にこなした。ゲームの能力があるからといって、最初から全力で走るつもりはない。急に速く走れば、鍛えられていない筋肉を痛める恐れがあった。


すべての体験が終わると、橋本監督は父を呼んだ。


「息子さん、入る気があるなら来週から連れてきてください。まだ身体は小さいですけど、投げ方も打ち方も面白いもんを持ってます」


父は直人より戸惑った顔をしていた。


「こいつ、そんなに出来ましたか?」


「出来るいうより、知ってるんです。自分の身体をどう動かしたらええか、初めから分かっとる。せやけど、今は身体が追いついてへんから、家で勝手に投げ込ませたらあきません」


「分かりました」


父がすぐに頷いたことで、直人は胸をなで下ろした。


帰宅してから入団に必要な費用を聞くと、ユニフォームや帽子、会費を合わせて、子供だった直人には大金と思える額になった。


直人は学習机の引き出しから菓子の空き缶を取り出した。正月の小遣いや、買い物の手伝いでもらった硬貨が入っている。それを食卓へ持っていくと、母が不思議そうに覗き込んだ。


「どうしたん、これ」


「ユニフォーム代に使って」


「そんなん、お父ちゃんとお母ちゃんが出すよ」


「でも、俺がやりたい言うたから」


母は空き缶を直人の前へ押し戻した。


「あんたが自分からやりたい言うたん、初めてやろ。お金のことは心配せんでええから、その代わり途中で放り出したらあかんよ」


最初の人生でも、両親は必要な道具を黙って揃えてくれた。当時の直人は、それが家計にとってどれほどの負担だったか考えもしなかった。


「絶対に放り出さへん。道具も大事にする」


直人が答えると、新聞を読んでいた父が口元だけで笑った。


翌週、直人は西宮中央リトルへ正式に入団した。


最年少に近い新入りが、すぐに投手を任されることはない。まず覚えさせられたのは挨拶、道具の運び方、グラウンド整備、キャッチボールの基本だった。


51歳の知識があっても、9歳の身体を鍛える工程は飛ばせない。直人は地味な反復を嫌がらず、足の裏から指先まで正しく力が伝わっているかを確かめながら、1球ずつ投げた。


家に帰ってから壁当てをすることはなかった。代わりに股関節や足首をほぐし、母が用意してくれた食事を残さず食べ、夜更かしせずに眠った。


怪物の能力を持っていても、身体を作る材料までゲームから出てくるわけではない。焦らず食べ、眠り、動くことが、今の直人にできる最も確実な練習だった。


入団から3週間が過ぎた日、チームを2つに分けた練習試合が行われた。


直人に与えられたのは、下級生中心の組の9番右翼だった。投手ではなかったが、不満はない。試合へ出られるだけでも、入団したばかりの9歳としては早いほうである。


最初の打席は3回、2人の走者を置いて回ってきた。


相手投手は6年生の左腕だった。直人は迷わず右打席へ入る。


「また反対で打つんか」


捕手が面白そうに尋ねた。


「左投手やから」


「右のほうが打てるんか?」


「どっちも同じくらい」


初球は内角へ速い球が来た。直人は打ちにいく動きを見せながら、バットを止める。審判役のコーチがボールと告げると、相手投手は不満そうに息を吐いた。


続く球は外角だった。


直人は歩幅を小さく取り、球へ近づくように踏み込んだ。大振りせず、バットの芯を投球の軌道へ重ねる。


打球は一、二塁間を抜け、右中間の深いところまで転がった。前にいた2人の走者が次々と本塁へ向かい、直人も一塁を蹴って二塁を狙う。


右翼手が追いついたとき、2人目の走者はすでに三塁を回っていた。返球が本塁へ向かうのを見た直人は速度を落とさず、二塁も回る。


「三塁で止まれ!」


三塁コーチ役の上級生が両手を広げた。


直人は余裕を持って三塁を踏んだ。本塁へ返されたボールが内野へ戻ってきたのは、直人が呼吸を整え始めた後だった。


ベンチがどっと沸いた。


橋本監督は腕を組んだまま、打球ではなく直人の走塁を見ていた。


練習試合が終わると、監督は直人を呼び止めた。


「来週から、投手の練習にも入れ」


直人の顔が自然にほころんだ。


「投げてもええんですか?」


「投げさせるかどうかは、練習を見てから決める。ただし、打つ練習も今までどおりや。お前を投げるだけの選手にするんは、もったいない」


直人は自分の右手と、その中に収まったグラブを見た。


投手か打者か、どちらかを選ぶ必要はない。少なくとも橋本監督は、最初から片方を捨てろとは言わなかった。


「はい。両方やります」


野球人生をやり直してから、まだ1か月もたっていない。


それでも直人は、最初の人生では立てなかった場所へ、確かに足を踏み出していた。



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