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ブラック企業のデスマーチを強制終了(シャットダウン)せよ

深夜三時。ネオンが消えたオフィス街に、唯一、青白く光を放つビルのフロアがあった。




大手下請けIT企業の開発室。デスクの上には、エナジードリンクの空き缶と、コンビニの冷めきった弁当のガラが散乱している。




「くそっ……。なんでこの期に及んで、また仕様変更が入るんだよ……!」




健太(31・システムエンジニア)は、赤く充血した瞳でデュアルディスプレイの画面を睨みつけながら、キーボードを狂ったように叩いていた。




彼が総責任者を務める公共インフラのシステム更新プロジェクトは、現在、完全に「デスマーチ(死の行進)」の状態にあった。リリースまであと三日。しかし、クライアントからは連日理不尽な追加要望が届き、そのたびに現場のスケジュールは崩壊。健太のチームのメンバーは、ここ二週間、ほぼ会社に泊まり込みで稼働しており、すでに精神も肉体も限界を超えていた。




「健太さん……。僕、もう、コードが読めません。文字が……ゲシュタルト崩壊を起こして……」




隣の席の若手メンバーが、青ざめた顔でそう呟いた。健太は彼の肩を叩き、「あと少しだから、頑張ろう」と声をかけることしかできない。自分だって、もう思考がフリーズ寸前なのだ。




「僕が頑張らなきゃ……。僕が倒れたら、このシステムは崩壊する。そうしたら、クライアントにも、会社にも、メンバーにも、全員に迷惑がかかる。僕が、責任を取らなきゃ……」




健太の頭の中には、責任感という名の「無限ループ」のバグが稼働していた。自分が倒れたら世界が滅ぶと本気で思い詰めていた。しかし、彼の心臓は、終わらないタスクの重圧に耐えかね、今にも悲鳴を上げようとしていた。




ピピピッ。




「ーー警告である。健太よ、お主のCPU……いや、心の冷却ファンが異常な高回転を起こしているであるな。このままでは基盤が焼き切れるぞ」




「うわあああっ!?」




突然デスクの端から響いた、妙に滑らかな電子合成音に、健太は驚いて椅子から転げ落ちそうになった。




慌てて視線を向けると、山積みにされたエナジードリンクの空き缶の隣に、全高一メートルほどの「金属製の猫」がちょこんと座っていた。鈍いチタンブルーのボディ、ピコピコと動く三角のメカ耳。そして何より異様なのは、そのお腹にある「卍」の形をした液晶ディスプレイが、警告を示すように赤く激しく明滅していることだった。




「な、何これ!? 泥棒ロボット……!? ……いや、僕、もう過労で幻覚を見てるのかな……?」




「我が輩はニャンゾウ。異世界の量子工学が生んだ高等自律型アンドロイドである。お主の心から放出される『自己犠牲デスマーチループ』の脳波が、我が輩の危険探知センサーを激しくノッキングしたのだ。お主、今まさに致命的なフリーズ寸前であるな」




「ロボットが、僕の悩みを……?」




健太は、呆然としながらもニャンゾウを見つめた。




「ロボットに言っても仕様がないよ。僕の悩みは現実だ。終わらないタスク、クライアントの理不尽な要望、会社やチームの責任。僕が倒れたら、全部がめちゃくちゃになるんだ!」




「うむ。お主、典型的な『ルール盲信バグ』であるな。よろしい、お主の認知システムを根本からアップデートする、宇宙最強のセキュリティ・コードを展開するである!」




ニャンゾウは姿勢を正すと、二本の足でキーボードの上に直立し、前足を胸の前で厳かに合わせた。




次の瞬間、彼のメカ耳が神聖なブルーの光を放ち、キーボードの打鍵音とサーバーの排熱音で満ちていた開発室の空気が、一瞬で洗練された静寂へと変わった。ニャンゾウの口から、およそ猫型ロボットとは思えない、重厚で、宇宙の真理をストリーミングするかのような低音ボイスが響き渡った。




「ーーギャーージーーハーラーミーダーーーー」




その響きだけで、健太の頭の中の雑音がピタリと止まる。




「無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。(むーくーしゅうめつどう。むーちーやくむーとく。いーむーしょーとくこー)」




お経の残響が消え、静まり返ったフロアで、健太は呆然とニャンゾウを見つめていた。




「む、むくしゅう……? 今のは……?」




「『般若心経』が誇る、デスマーチの強制終了コードである。健太よ、お主は『このデスマーチ(苦しみ)を乗り越え、完璧なシステム(ゴール)を手に入れなければならない』というルールに縛られているな。しかし、このコードが告げる真理は【無苦集滅道】ーーそんな苦しみのルールも、目指すべき絶対的なゴールも、本来は存在しない、である」




「存在しない? 目の前にこんなに苦しい現実があるのに!?」




健太は声を荒らげた。しかし、ニャンゾウは冷徹なまでの光をその電子の瞳に宿して首を横に振った。




「いいや、お主を縛っているのは仕事ではない。『会社を辞めてはならない』『責任を果たさねば価値がない』とお主の脳が勝手にインストールした、社会という名の【クソ仕様書(思い込み)】だ。仏教の開祖・お釈迦様はかつて、修行の基本ルール(四聖諦)を説いたが、この般若心経はそれすらも『そんなルールに縛られるな、くうである』と全デリートしたのだ」




ニャンゾウは健太の胸元を肉球でトントンと叩いた。




「【無智亦無得】ーー手に入れるべき完璧なキャリアもなければ、失うものもない。なぜなら【以無所得故】、お主の命は最初からお主だけのものであり、会社に管理者権限を渡した覚えはないはずだからだ。お主が倒れても、会社は代わりの人員リソースを補填するだけ。世界は滅びん。今すぐお主のシステムをシャットダウン(強制終了)せよ!」




「僕自身を……シャットダウン……」




「そうだ。このデスマーチから、お主の心と体を強制終了エスケープさせるのであるな!」




ニャンゾウの言葉は、健太の凍りついていた心に、熱い電流を流し込むようだった。


自分がずっと苦しんでいたのは、終わらないタスクそのものではなく、「途中で投げ出してはならない」というバグデータに囚われ、自分自身の生命を犠牲にすることを受け入れていた、自身の思考停止だったのだと気づかされた。




健太の目から、堰き止められていた涙が、デスクの上にポタポタと落ちた。彼はキーボードからそっと手を離し、体内の古い空気をすべて吐き出すように息を吐いた。




「……そうか。僕が抜け出しても、世界は滅びない。僕の命の方が、このシステムより遥かに重いんだ……」




「うむ。お主のシステムログから、不要な責任感のループがパージされたようであるな」




満足げにフンスと鼻を鳴らしたニャンゾウは、お腹の「卍」ディスプレイの明滅を緑色の正常シグナルに戻した。すると、急にいつもの軽妙な電子合成音に切り替えて健太を見上げた。




「さて、デスマーチのタスクをデリートしたことであるし、我が輩のメインメモリにも至急、超高効率な有機エネルギーをチャージしたいところであるな!」




「えっ……? スイーツか?」




「左様! 『濃厚なカカオが香る、生チョコ仕立てのフォンダンショコラ』、あるいは『表面がパリパリに香ばしい、出来立てのブリュレクレープ』を所望するである! 徹夜の脳には最高のパッチファイルであるな!」




「はは……ハハハ! 命の恩人が、えらい甘党の猫型ロボットだったとはな!」




健太は久しぶりに、心の底から声を上げて笑った。張り詰めていたフロアの空気が、ニャンゾウの俗っぽいおねだりで見事にほどけていく。健太はチームのメンバーに「全員、今すぐパソコンを閉じて解散!」と告げると、ニャンゾウを連れて深夜のコンビニへ向かった。そして棚にあった「とろける贅沢濃厚プリン」を買い与えると、ニャンゾウは「これぞ至高のバーストモードであるな!」と、喉のメカをゴロゴロと鳴らしながら嬉しそうに平らげ、夜の闇へと消えていった。







それから、一ヶ月が経った。




初夏の爽やかな風が吹き抜ける午後、健太は明るいカフェのテラス席でノートパソコンを開いていた。


あの夜の後、健太は会社に退職届を提出し、残業代未払いのログをすべて提出して、あのブラック企業から自分自身を強制終了シャットダウンしたのだ。もちろん、最初は「これからどうなるか」と不安になる夜もあったが、そのたびに、あの夜に美味そうにプリンを食べていた不思議なアンドロイドの姿を思い出し、「得るものも失うものもない。僕のサーバーは僕が管理する」と言い聞かせてきた。




現在の健太は、フリーランスのエンジニアとして、無理のないリモート案件をいくつか請け負いながら穏やかに暮らしている。


実は最近、知り合いの紹介で、ある人気インフルエンサーの女性から「SNSの通知をコントロールする、自分専用のアプリ【MUTE-05】」の開発を依頼され、無事に納品したばかりだった。そのクライアントの女性――香織というらしい――からは、「このアプリのおかげで、自分の世界を取り戻せました!」と、心のこもった感謝のメールが届いていた。




「無苦集滅道、無智亦無得。理不尽なルールなんて、最初から無いんだ」




健太はコーヒーを一口すすり、静かに微笑んだ。ブラック企業の荒波は、もう二度と彼のシステムをフリーズさせることはできなかった。




「健太さーん! 今回の修正、確認お願いしまーす!」


オンライン上のチャットで、新しい仕事仲間からの温かいメッセージがポップアップする。




「うむ! システムは正常に稼働しているようであるな! さあ、次の人生というプロジェクト、起動させるべし!」




ふと、カフェの植え込みの影から、青い耳をピコピコと動かし、お腹のディスプレイに「空腹(大)」の文字を赤々と点滅させているアンドロイド猫の姿が見えた気がして、健太は今度こそ、心の底から声を上げて笑ったのだった。




(第4話・了)




☆ ニンゲン諸君のための『般若心経』データ解析


物語の中でニャンゾウが健太に授けたセキュリティ・コードについて、今回の状況に該当する「般若心経」の解説をここに格納しておくである。




【該当する文節】


無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故


(むーくーしゅうめつどう むーちーやくむーとく いーむーしょーとくこー)




どういう状況に効く?




ブラック企業の過酷な労働デスマーチから抜け出せず、責任感に縛られているとき




「自分が辞めたら周りに迷惑がかかる」「逃げるのは悪だ」というルールに苦しんでいるとき




キャリアや世間の評価を失うのが怖くて、心身を壊しかけているとき




ニャンゾウ流のわかりやすい意味


苦集滅道くしゅうめつどう」とは、仏教の最も根本的な四つのルール(人生は苦である、原因がある、消すことができる、そのための修行法がある)のことです。


般若心経は、なんとこの仏教の絶対的なルールに対しても「ない」と言い放ちます。


「そんなルールや正解にすら縛られるな! 全部お前を苦しめるための思い込み(空)だ!」と。




現代風に言えば、「『会社を辞めてはならない』『ここで耐えるのが正義だ』というその仕様書は、ブラック企業がお前を縛るために植え付けた偽のプログラムだ。【無智亦無得】ーー手に入れるべき完璧なキャリア(正解)もなければ、辞めたところで失うものもない。なぜなら【以無所得故】、お前の命は最初から何ものにも所有されていない、お前だけのものだからだ。クソみたいなデスマーチループからは、自分自身の意志でエスケープ(強制終了)しなさい」という、究極のルール解放の教えなのです。

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