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未来のシミュレーションエラーを遮断せよ

深夜一時。静まり返ったリビングで、美咲(34・事務職)は電卓を何度も叩いていた。




カタカタ、ターン。カタカタ、ターン。




静寂に響く無機質なプラスチックの打鍵音が、彼女の焦燥感を煽る。




「あと30年働いて、退職金がこれくらいで、老後の資金問題に備えるには毎月あとこれだけ投資に回して……でも物価が上がったら、病気になったらどうしよう。全然足りない……」




ノートに書き殴られた数字の列を見つめる美咲の目は、すっかり血走っていた。




実家を離れて都内で一人暮らし。決して贅沢をしているわけではない。だが、給与明細や通帳の残高を見るたびに、胸の奥がキュッと締め付けられるような、底知れない恐怖に襲われる。




「お金が減るのが怖い」


「未来に取り返しのつかない困窮が待っているかもしれない」




世間のニュース、SNSの投資アカウント、週刊誌の老後不安特集ーーそれらの情報データを日常的に受信し続けた結果、美咲の脳内では「将来、破産して路頭に迷う自分」という最悪の未来シミュレーションが、24時間バックグラウンドで強制実行されるようになっていた。




おかげで、今食べたいものを選ぶことも、友人とのカフェタイムを楽しむことも「もったいない」と拒絶し、現在の生活の処理速度(幸福度)は著しく低下していた。




「あぁ、あといくら貯めれば、私は安心できるんだろう……」




頭を抱え、冷たいタスクに押し潰されそうになった、その時だった。




ピピピッ。




「ーー警告である。美咲よ、お主の演算リソースが、まだ存在せぬ30年後の『不確定なバグ予測』によって9割以上占有されているであるな。現在のメモリが完全に不足リソースリークしているぞ」




「ひゃっ!? 誰っ……!?」




突然ダイニングテーブルの端から響いた、妙に滑らかな電子合成音に、美咲は椅子から跳ね上がった。




驚いて目を凝らすと、家計簿ノートのすぐ隣に、全高一メートルほどの「金属製の猫」が座っていた。鈍いチタンブルーに輝くボディ、ピコピコと独立して動く三角のメカ耳。お腹にある「卍」の形をした液晶ディスプレイが、エラーを検出したように赤く明滅している。




「な、何そのロボット……!? 泥棒!? 電卓の叩きすぎで私、ついに幻覚を見てるの……?」




「失礼な。我が輩はニャンゾウ。異世界の量子工学が生んだ高等自律型アンドロイドである。お主の心から漏れ出る『目減り不安フューチャー・バグ』の脳波が、我が輩の探知センサーを激しくノッキングしたのだ。お主、未来を心配しすぎて『今』が完全にフリーズしているであるな」




「ロボットに何がわかるのよ……!」




美咲は通帳をぎゅっと握りしめ、悔しさに声を震わせた。




「これは現実の、数字の問題よ! 貯金が減ったら生きていけないの。未来の保証なんてどこにもないの。だから今、我慢してでも数字を増やさなきゃ、怖くてたまらないのよ!」




美咲の叫びは、見えない未来に怯える現代人の悲痛な叫びそのものだった。




ニャンゾウは静かにトコトコと家計簿の上まで歩み寄ると、姿勢を正して二本の足で直立し、前足を胸の前で厳かに合わせた。




次の瞬間、彼のメカ耳が神聖なブルーの光を放ち、部屋を支配していた焦燥感が一瞬で静まり返った。ニャンゾウの口から、重厚で、時空の広がりを感じさせるような低音ボイスがストリーミングされ始めた。




「ーーハーラーミーダーーーー」




その響きだけで、美咲の頭の中の電卓の音がピタリと止まる。




「以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。(いーむーしょーとくーこー。ぼーだいさったー。えーはんにゃーはーらーみーたーこー。しんむーけーげー。むーけーげーこー。むーうーくーふー)」




お経の残響が静かに消え去ると、美咲は呆然としながら、その青いロボットを見つめていた。




「むーうーくーふー……? 今の、どういう意味……?」




「『般若心経』が誇る、恐怖心のデリートコードである。美咲よ、お主がそれほどまでに怯えている『老後の貧困』や『失う恐怖』。このコードの核心は【以無所得故(得るものは何もないがゆえに)】、そして【心無罣礙(心に引っかかりがない)】、だから【無有恐怖(恐怖など存在しない)】と告げているのだ」




「得るものが何もない……? 貯金は得られるし、失うこともあるじゃない!」




「いいや。宇宙の基本仕様において、人間がこの世界に持ってこられるメモリ(肉体)も、あの世に持って帰れるデータ(財産)も、最初から一ビットも存在せん。お主は生まれてから今日まで、何一つとして『本当に所有した物』などないのだ。すべては一時的にその環境サーバーからレンタルしているキャッシュデータに過ぎんのであるな」




ニャンゾウは美咲の通帳を肉球でポンと叩いた。




「お主は今、手元にある『数字の増減』という幻のデータ(色)に執着し、まだ見ぬ未来の破滅ホログラムを勝手に脳内で3Dレンダリングしている【心に罣礙(引っかかり)がある状態】だ。だがな、未来の不安データなど、お主が頭の中で妄想の受信ボタンを押さなければ、この現実世界には1ミリも存在していないのである!」




「未来の不安は……私の妄想……?」




「左様。お主が守ろうとしている『完璧な未来の保証』など、この宇宙のどこを探してもソースコードが存在せん。最初から得るもの(所有できるもの)など何もない【以無所得】と腑に落ちれば、失うことを恐れるバグ【罣礙】は消える。心がクリアになれば、恐怖そのものがシステムから完全に消去【無有恐怖】されるのであるな」




ニャンゾウの言葉は、冷たい論理のようでいて、美咲の頑なな心を優しく解きほぐす修正プログラムのようだった。




自分が必死に守ろうとしていたのは、通帳の数字ではなく、「数字が増えれば安心できるはずだ」という、満たされることのない脳内のバグだったのだ。




美咲の目から、張り詰めていた涙がポロポロと家計簿の上に落ちた。彼女は電卓を置き、深く、長く、未来の重圧をすべて吐き出すように息を吐いた。




「……そっか。私、まだ来てもいない30年後のために、今を全部犠牲にして、勝手に一人で怖がっていたんだね……」




「うむ。お主のメインメモリから、未来の予測エラーがパージされたようであるな」




満足げにフンスと鼻を鳴らしたニャンゾウは、お腹の「卍」ディスプレイの明滅を緑色の正常シグナルに戻した。すると、それまでの厳かな低音から、急にいつもの軽妙な電子合成音に切り替えて美咲を見上げた。




「さて、未来のバグを遮断したことであるし、我が輩のメインメモリにも至急、極上の糖分データをチャージしたいところであるな!」




「えっ……? スイーツ?」




「左様! 『幾重にも重なったパイ生地にとろけるカスタード、みずみずしいイチゴを挟んだ特製ミルフィーユ』、あるいは『香ばしいピスタチオクリームをふんだんに使った濃厚モンブラン』を所望するである! 妄想の処理でカサカサになった脳には、最高の潤滑油であるな!」




「ふふっ……あははは! 壮大な宇宙の話をしておいて、最後はやっぱり花より団子なのね!」




美咲は久しぶりに、心の底から声を上げて笑った。胸を締め付けていた冷たい恐怖が、この愛らしいアンドロイドのわがままで一気に溶けていく。




美咲はコートを羽織ると、夜間営業している24時間営業の高級スーパーへ走り、ケーキスタンド顔負けの「贅沢ピスタチオタルト」を買い与えた。ニャンゾウは「これぞ至高のバーストモードであるな!」と、喉のメカをゴロゴロと鳴らしながら嬉しそうに平らげ、夜の闇へと消えていった。







それから、一ヶ月が経った。




もちろん、あの夜を境に一切の不安が消え去ったわけではない。ふとした瞬間にニュースの「物価高騰」の文字が目に入れば、一瞬胸がざわつく。しかし、今の美咲には強力なファイアウォールがあった。




「将来どうなるかは誰にもわからない。でも、まだ存在しない未来のために、今この瞬間をフリーズさせる必要はない」




そう自分に言い聞かせるうちに、彼女の日常は確実に変わり始めていた。




週末の午後。美咲の部屋の窓からは、心地よい初夏の風が吹き込んでいた。テーブルの上には、家計簿でも電卓でもなく、丁寧に淹れられた一杯のコーヒーと、ずっと読みたかった小説が置かれている。




「うん、美味しい。この豆、少し高かったけど買ってよかったな」




美咲は穏やかな笑顔でコーヒーを口に含んだ。




あの夜の後、美咲は夜な夜な電卓を叩いて未来を計算するのをやめた。投資や貯金は、淡々とシステム的に自動積立に任せ、それ以上は「考えない」というルールを作ったのだ。




お金の使い方に対する認知も変わった。ただ数字を減らさないための過剰な倹約はやめ、今の自分が心地よいと感じる空間や、本当に美味しいと感じる食事、友人との大切な時間には、快くお金を使う(データを循環させる)ようにした。




当然、通帳の数字の増え方は以前より緩やかになったかもしれない。しかし、今の美咲の心には、あの夜のような狂気的な恐怖は一切ない。




心の中に【無有恐怖】のセキュリティをインストールした彼女は、もう未来のゴーストデータにハッキングされることはなかった。




ふと、部屋の隅の棚を見る。あの日以来、あのチタンブルーのアンドロイド猫は姿を現していない。しかし、美咲のスマートフォンのホーム画面には、彼が残していったお守りのようなアプリが今も常駐している。




アイコンの名前はーー【MUTE-05】。




(あのアンドロイドが、昔別の誰かに授けたコードの応用版かしらね)




時折、世間の不安なニュースを目にして胸がざわついたとき、それをタップすると、あのお腹の卍マークが優しくブルーに光り、あの深みのある低音ボイスが脳内に響くのだ。




『得るものなど最初から何もない。今この瞬間の演算を、ただ楽しむが良いのであるな』




美咲はスマホをそっと閉じ、窓の外の澄み切った青空を見上げて、心からの穏やかな笑みを浮かべたのだった。




(第5話・了)




☆ ニンゲン諸君のための『般若心経』データ解析


物語の中でニャンゾウが美咲に授けたセキュリティ・コードについて、今回の状況に該当する「般若心経」の解説をここに格納しておくである。




【該当する文節】


以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖


(いーむーしょーとくーこー ぼーだいさったー えーはんにゃーはーらーみーたーこー しんむーけーげー むーけーげーこー むーうーくーふー)




どういう状況に効く?




将来や老後の生活が不安で仕方がなく、お金を貯めることしか考えられなくなっているとき




貯金や資産が減ることに異常な恐怖(目減り不安)を感じるとき




未知の未来に対する「もしもの時のリスク」を計算しすぎて、今を楽しむメモリが残っていないとき




ニャンゾウ流のわかりやすい意味


以無所得故いむしょとくこ」とは、「人間は最初からこの世界で、何一つとして本当に所有ゲットできるものなどない」という宇宙の基本仕様のことです。お金も、地位も、肉体すらも、すべては一時的なレンタルデータです。




心無罣礙しんむけげ」とは、その「失いたくない」「もっと得たい」という執着データのバグが、心に引っかかっていない状態を指します。




無有恐怖むうくふう」とは、得るものもなければ失うものもないと腑に落ちたとき、人間を縛る「恐怖」というプログラムそのものが、システムから完全に消去されるという意味です。




現代風に言えば、「お前が怯えている老後の不安は、お前の脳が勝手に回している『不確定な未来のシミュレーションエラー』だ。人間、最後は何も持ってはいけない仕様なのだから、失うことを恐れて今をフリーズさせるのは非効率の極み。心の中の引っかかり(罣礙)をパージして、今この瞬間のパケットを全力で楽しみなさい」という、未来の呪縛から今を解放する教えなのです。

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