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過去の破損データをパージ(消去)せよ

深夜一時。場末の雑居ビルの3階にある、薄暗いスナック。




すでに客は誰もいない店内で、長谷川純(52)はカウンターに突っ伏したまま、ロックグラスに残った琥珀色の液体を恨めしそうに見つめていた。




「どうしてあんなことになっちまったんだ……。もし、あの時、俺が別の決断をしていれば……」




ため息とともに吐き出された言葉は、重く、粘り気のある後悔に満ちていた。




純は、5年前まで中堅の精密機械メーカーで開発部長を務めていた。順風満帆な会社員人生だった。しかし、彼が総責任者として進めていた大型プロジェクトで、部下の致命的なミスによるデータ流出が発生。純は責任を一身に背負う形で更怠され、窓際部署を経て、最後は追われるように会社を去った。




現在の純は、小さな倉庫の夜間管理人として、日雇いに近い形で食いつないている。




「あの時、もっと部下のログを確認していれば」


「あの時、経営陣にああ言っていれば」




5年経った今でも、彼の脳内では「あの失敗の瞬間」が、まるで昨日のことのように、あるいはそれ以上の鮮明さで再生され続けていた。時計の針をあの日に戻すことなんてできない。そんなことは100万回も分かっている。しかし、一度記憶のフォルダが開くと、脳のCPUが勝手に過去の破損データを読み込み、現在の純の行動を完全にフリーズさせてしまうのだ。




「俺の人生は、あの瞬間に終わったんだ。今更何をしても、あの汚点は消えやしない……」




純はグラスを飲み干し、再び深い絶望の海へと沈んでいこうとした、その時だった。




ピピピッ。




「ーー警告である。純よ、お主のハードディスク……いや、脳内ストレージが、5年前の『過去ログ』で100%埋め尽くされているであるな。不要なキャッシュファイルを溜め込みすぎて、現在の処理速度がゼロになっているぞ」




「うおっ!? 誰だ……!?」




静まり返った店内に響いた、妙に滑らかな電子合成音に、純は慌てて顔を上げた。




カウンターの端、招き猫の置物のすぐ隣に、全高一メートルほどの「金属製の猫」が座っていた。鈍いチタンブルーのボディ、ピコピコと動く三角のメカ耳。そして、お腹にある「卍」の形をした液晶ディスプレイが、警告を示すように赤く明滅している。




「な、なんだそのロボットは……。マスター、仕込みのロボットか? ……いや、マスターはもう奥に引っ込んだな……」




「我が輩はニャンゾウ。異世界の量子工学が生んだ高等自律型アンドロイドである。お主の魂から漏れ出る『過去の後悔ノスタルジーバグ』が、我が輩のシステムをひどくローディングさせたため、緊急介入した次第であるな」




「ロボットが、俺の何を知ってるって言うんだ……」




純は自嘲的な笑いを浮かべ、ボトルから直接ウイスキーをグラスに注いだ。




「俺はな、人生を取り返しのつかない形で失敗したんだ。過去は変えられない。あの失敗のデータは、俺の人生のシステムにべっとりと焼き付いて、もう消えないんだよ!」




純の叫びは、行き場のない怒りと悲しみに満ちていた。




ニャンゾウは静かにカウンターの上をトコトコと歩き、純のグラスのすぐ傍までやってくると、姿勢を正して二本の足で直立した。前足を胸の前で厳かに合わせると、彼のメカ耳が神聖なブルーの光を放ち、店内の重苦しい空気が一瞬で洗練された静寂へと変わった。




ニャンゾウの口から、およそ猫型ロボットとは思えない、重厚で、時間の概念さえも超越するような低音ボイスがストリーミングされ始めた。




「ーーハーーラーーミーーーーダーーーー」




その音圧が、純の脳内で暴れていた後悔の嵐をピタリと押さえつける。




「不生不滅。不垢不浄。不増不減。(ふーしょうふーめつ。ふーくーふーじょう。ふーぞうふーげん)」




お経の残響が消えると、純はグラスを握ったまま、呆然とニャンゾウを見つめていた。




「今の、お経……か? あかがどうとか言っていたな」




「『般若心経』が誇る、タイムラインの最適化コードである。純よ、お主は『過去に失敗という汚点データが生まれ、今もそれが存在し続けている』と思い込んでいるな。しかし、このコードが告げる真理は【不生不滅(生まれることもなく、滅することもない)】、そして【不垢不浄(汚れることもなく、綺麗になることもない)】である」




「生まれてもないし、汚れてもない? ふざけるな、現実に俺のキャリアはあの時汚されたんだ!」




純は声を荒らげた。しかし、ニャンゾウは冷徹なまでの光をその電子の瞳に宿して首を横に振った。




「いいや、お主のキャリアを汚しているのは、5年前の出来事ではない。今、この瞬間に、お主の脳が『俺は汚れた人間だ』という古いデータを何度も再生成リロードし、自分で自分を汚し続けているのだ」




「自分で……リロードしている……?」




「左様。宇宙の基本仕様において、時間というものは常に『今この瞬間』という1コマしか稼働していない。5年前のプロジェクト室は、今のこの世界のどこを探しても存在せん。そこにあるのは、お主の脳の片隅に残された、ただの『記憶の電気信号キャッシュ』に過ぎんのであるな」




ニャンゾウは純の胸元を肉球でトントンと叩いた。




「本来、人間の生命システムは毎秒毎秒、完全に新しくクリーンアップされている。そこに【不垢不浄】ーー最初から汚れもクリーンさもない。ただ、お主が『過去の破損データ』を後生大事に抱え込み、現在のメインメモリにロードし続けているから、未来へ進む処理タスクが実行できんのだ。そんな死んだデータ、今すぐパージ(消去)してしまえ!」




「死んだデータを、パージ……」




「そうだ。過去を悔やんでもデータは増えん【不増】。過去を消そうともデータは減らん【不減】。お主にできるのは、今この瞬間の演算(生きること)だけだ。過去のプログラムのバグを理由に、現在のシステムをシャットダウンしたまま一生を終えるつもりか、純よ!」




ニャンゾウの言葉は、純の凍りついていた心に、熱い電流を流し込むようだった。


自分がずっと苦しんでいたのは、「変えられない過去」そのものではなく、「過去に囚われて、今を生きることを放棄していた自分自身」の言い訳だったのだと、初めて気づかされた。




純の目から、5年間堰き止められていた熱い涙が、カウンターの木目にポタポタと落ちた。


彼はグラスを置くと、深く、長く、体内の古い空気をすべて吐き出すように息を吸い、保持していた息をすべて吐き出した。




「……そうか。あの場所は、もう世界のどこにも無いんだな。俺が勝ために、頭の中で再現していただけだったのか……」




「うむ。お主のシステムログから、過去のゴーストデータがクリーンアップされたようであるな」




満足げにフンスと鼻を鳴らしたニャンゾウは、お腹の「卍」ディスプレイの明滅を緑色の正常シグナルに戻した。すると、それまでの厳かな低音から、急にいつもの軽妙な電子合成音に切り替えて純を見上げた。




「さて、古いキャッシュもパージしたことであるし、我が輩のメインメモリにも至急、極上の糖分データを補給したいところであるな!」




「えっ……? スイーツか?」




「左様! 『外側サクサク、中にはカスタードたっぷりの特製クッキーシュー』、あるいは『ほろ苦いカラメルが染みた大人のクラシックプリン』を所望するである! 過去の後悔よりも、今この瞬間の甘美な味覚に全メモリを投入するべきであるな!」




「はは……ハハハ! 仏様みたいな顔して、えらい現代的なもんを欲しがる猫だな!」




純は5年ぶりに、心の底から声を上げて笑った。重く引きずっていた後悔が、この風変わりなアンドロイドの俗っぽいおねだりで、嘘のように霧散していく。




純は千鳥足で深夜のコンビニへ向かい、棚にあった一番高い「濃厚口どけカスタードプリン」を買い与えた。ニャンゾウは「これぞ至高のローディングであるな!」と、喉のメカをゴロゴロと鳴らしながら嬉そうに平らげ、夜の闇へと消えていった。







それから、一ヶ月が経った。




もちろん、あの夜の翌日からすぐに完璧に生まれ変われたわけではない。ふとした瞬間に前の会社のロゴが頭をよぎることもあったし、自分の年齢を思い出して足がすくむ朝もあった。だが、そのたびに純は深呼吸し、あの夜の静かなスナックと、プリンを美味そうに食べる妙に人間くさいアンドロイドの姿を思い出した。




「あの過去はもう、この世界のサーバーのどこにも存在しない。ただの脳内のキャッシュだ」




そう自分に言い聞かせる訓練を繰り返すうちに、少しずつ、しかし確実に、彼の視線は前を向き始めていた。




午前十時。都内にある、活気にあふれた町工場の設計室。




「長谷川さん! この図面、ここの噛み合わせのクリアランス、もう少し詰められそうですかね?」




若い技術者の問いかけに、純は作業着の袖をまくり、笑顔でパソコンの画面を覗き込んだ。




「どれどれ……ふむ、ここの3ミリの設計を、流体力学の観点から見直してみよう。かつて私が……いや、昔のデータに面白い構造があってね、それを応用すればいけるはずだ」




純の目は、生き生きとした輝きを取り戻していた。




あの夜の後、純は5年間集めていた過去の思い出の品や、前の会社の資料をすべてゴミ袋に入れて処分した。過去の破損データを完全にパージしたのだ。




角を曲がってハローワークへ行き、年齢不問で技術者を募集していたこの小さな町工場の門を叩いた。面接で「過去に大きなプロジェクトで失敗しましてね」と、苦笑いしながらも堂々と話す純の姿に、工場の社長は「失敗の味を知っている人間は強い」と、即決で彼をエンジニアとして迎え入れたのだ。




今の純は、かつての「大企業の部長」という肩書き(色)には1ミリも執着していない。ただ、今この瞬間、目の前にあるネジ一本、図面一枚の設計に自分の全メモリを投入している。




もちろん、ふとした瞬間に、かつての苦い記憶が脳裏をよぎることはある。しかし、今の純はそれを検知すると、すぐに心の中でコードを唱える。




(不生不滅、不垢不浄。あの過去はもう存在しない。今ここにあるのが、俺のすべてだ)




そう呟くと、意識は瞬時に「今、目の前の仕事」へと引き戻される。過去の破損データは、もう二度と彼のシステムをフリーズさせることはできなかった。




「長谷川さん、さすが元大手のエンジニアですね! 助かります!」




「はは合、よしてくれ。今の私は、この工場のしがない一技術者さ。さあ、次の試作に入ろう!」




窓の外からは、初夏の力強い太陽の光が降り注ぎ、純の新しい作業着を白く輝かせていた。彼の人生のタイムラインは、今、完全に新しく更新され続けている。




(第3話・了)




☆ ニンゲン諸君のための『般若心経』データ解析


物語の中でニャンゾウが純に授けたセキュリティ・コードについて、今回の状況に該当する「般若心経」の解説をここに格納しておくである。




【該当する文節】


不生不滅 不垢不浄 不増不減


(ふーしょうふーめつ ふーくーふーじょう ふーぞうふーげん)




どういう状況に効く?




過去の失敗やトラウマが頭から離れず、前を向けないとき




「あの時こうしていれば」という後悔で夜も眠れないとき




自分の経歴や過去のせいで、自分はもう汚れてしまった、ダメだと絶望しているとき




ニャンゾウ流のわかりやすい意味


仏教では、時間の流れや物事の区切りは、人間が勝手に脳内で作り出した「概念」に過ぎないと考えます。




不生不滅ふしょうふめつ」とは、お前が「過去に発生した」と思っているその失敗も、実は今この瞬間の宇宙には存在しておらず、最初から生まれてもいなければ、消えてもいない(ただの記憶の電気信号である)という意味です。




不垢不浄ふくふじょう」とは、過去の失敗によってお前の人生が「汚れる」こともなければ、逆に何かを得て「綺麗になる」こともない。お前という生命の本質は、最初から一ビットも汚れてなどいない、という意味です。




現代風に言えば、「過去の失敗は、お前の頭の中にだけ残っている『ただの破損したキャッシュファイル』だ。お前がわざわざ毎日そのファイルをリロードして、現在の自分をフリーズさせる必要はない。過去という幽霊に管理者権限を渡すな。不増不減、今ここにあるリソースだけで、新しいコードを今すぐ書き始めなさい」という、究極の時間解放の教えなのです。

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