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五感のノイズをミュートせよ

深夜二時。きらびやかな夜景が広がるタワーマンションの一室。一見すれば誰もが羨むような空間だが、部屋の明かりはすべて消え、ベッドの一角だけがスマートフォンの青白い光で不気味に浮かび上がっていた。




香織(24)は、シーツを頭から被ったまま、狂ったように画面をスクロールし続けている。彼女の瞳は完全に充血し、液晶を見つめる顔は生気を失って凍りついていた。




「あはは……また書かれてる。今度は『加工しすぎて背景のタワマンの格子が歪んでる』だって。みんな本当によく見てるなぁ……」




自嘲気味につぶやく声は、かすかに震えていた。


香織は半年前まで、地方の小さな町で暮らす普通の契約社員だった。SNSに投稿した1本のコーディネート動画が偶然バズり、またたく間にフォロワーが数万人に急増。それをきっかけに「インフルエンサー」として生きることを決意し、無理をして都心のタワマンを借り、華やかなライフスタイルを発信し始めた。




最初は楽しかった。数字が増えるたびに、自分が特別な存在になれた気がした。けれど、光が強くなれば影も濃くなる。フォロワーが10万人を超えた頃から、香織のタイムラインは心ない匿名の悪意、いわゆる「アンチコメント」で埋め尽くされるようになった。




『ブスが無理してブランド物持つな。成金臭くて痛い』


『声がパパ活女子っぽくて生理的に無理』


『この前のイベント、実物見たら写真と全然違ってワロタ』




「見なきゃいいのに」


「通知をオフにすればいいのに」




友人からも、ネットのまとめ記事でも、そんなアドバイスは嫌というほど見た。頭では100回、1000回と分かっている。しかし、一度通知の数字が目に留まると、脳が勝手に「次の悪意」を探しにいってしまうのだ。一度褒められても、一つの強烈な悪口で全てが台無しになる。まるで、毒だと分かっているスープを、自分の手でスプーンですくって喉の奥へ流し込み続けているような感覚だった。




「私の何がそんなに気に入らないの……? 私はただ、認めてほしかっただけなのに……」




胸が締め付けられ、呼吸が浅くなる。冷や汗が背中を伝う。ネットの向こう側にいる何万人もの「見えない敵」が、全員で自分を指差し、嘲笑しているような被害妄想が肥大化していく。香織の精神システムは、完全にオーバーヒートを起こしていた。




ピピピッ。




「ーー警告である。香織よ、お主のCPU……いや、メンタルの冷却ファンが異常な高回転を起こしているであるな。このままでは基盤が焼き切れるぞ」




「ひゃああっ!?」




暗闇を切り裂くような、妙に滑らかな電子合成音がベッドの足元から響いた。香織は恐怖で悲鳴を上げ、スマホを放り出して毛布を跳ね除けた。




街灯の光が差し込む窓辺に、全高一メートルほどの「金属製の猫」が佇んでいた。鈍いチタンブルーに輝くボディ、ピコピコと独立して動く三角のメカ耳。お腹にある「卍」の形をした液晶ディスプレイが、パトカーの警告灯のように赤く明滅している。




「な、何これ!? 強盗!? 泥棒ロボット……!?」




「失礼な。我が輩はニャンゾウ。異世界の量子工学が生んだ高等自律型アンドロイドである。お主の部屋のWi-Fi電波に乗って、お主の端末から空間へダダ漏れになっていた『悪意のパケット』と、それに同期してエラーを起こしているお主の悲鳴を検知した。心配せずとも、お主の財産や命を脅かすプログラムは一行も実装されていないのであるな」




「Wi-Fiに乗って……? ロボットが、私の悩みを……?」




香織は呆然としながらも、床に落ちたスマホを恐る恐る拾い上げた。画面には、今さっきも新しい拒絶のコメントが届いたことを示す通知がポップアップしている。




「ロボットなら、私の気持ちなんてわからないよ……。ネットを開くとね、世界中から私が拒絶されてる気がするの。耳を塞いでも、部屋を静かにしても、頭の中でずっとその言葉がリピートして、息が苦しくて、自分がガラスみたいに粉々に砕けちゃいそうで……。私、どうしたらいいの?」




香織の目から、張り詰めていた涙がボボロボロと溢れ落ちた。インフルエンサーとしての「完璧な私」の仮面が剥がれ落ち、ただの傷ついた24歳の女の子の素顔が露わになる。




ニャンゾウは静かにベッドの上にピョンと飛び乗ると、機械の足を巧みに動かして香織のすぐそばまで歩み寄った。そして、冷たいはずの丸い金属製の肉球を、香織の震える膝の上にそっと添えた。不思議と、その重みにはどこか温かみのような安心感があった。




「ふむ……実にもったいないエネルギーの浪費であるな。香織よ、お主は今、世界中のノイズをわざわざ自ら受信し、メインメモリに100%読み込ませてフリーズしている状態である。よろしい、お主の認知システムを根本からアップデートする、宇宙最強のセキュリティ・コードを展開するである!」




ニャンゾウは姿勢を正すと、二本の足で直立し、前足を胸の前で厳かに合わせた。次の瞬間、彼のメカ耳が神聖なブルーの光を放ち、部屋の空気が一変した。ニャンゾウの口から、およそ猫型ロボットとは思えない、深く、重厚で、魂に直接響くような低音ボイスが流れる(ストリーミング)され始めた。




「ーーマーーハーーバーーーラーーミーーーー」




その響きだけで、香織の頭の中の雑音がピタリと止まる。




「無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。乃至無意識界。(むーげんにーびーぜっしんいー。むーしきしょうこうみそくほう。ないしーむーいーしきかい)」




お経が終わると、部屋には心地よい静寂だけが残されていた。香織は涙を拭うのも忘れ、その不思議なロボットを見つめた。




「むげん……にび……? 今の、なぁに?」




「『般若心経』の最も強固な防壁ファイアウォールを司る一節である。香織よ、人間には外部の情報を受け取る6つのセンサーがある。それが【眼・耳・鼻・舌・身・意(心)】。数字や文字を拾い上げる外の世界のデータが【色(形)・声(音)・香(匂い)・味・触(感触)・法(情報・現象)】である」




ニャンゾウは香織の手の中にあるスマホを、静かに肉球で指差した。




「このコードが意味するのは、『お主のセンサーも、そこに入ってくるデータも、本来は実体を持たぬ幻である』ということだ。ネットのアンチコメントなど、画面に並んだドットの集合、文字という名の【色・声】に過ぎん。それ自体に、お主の肉体を物理的に傷つけたり、お主の価値を強制デリートしたりする権限バグは1ビットも備わっていないのであるな」




「でも……! 現実に、私はこれを見てこんなに胸が痛くて、苦しいよ!? 幻なんかじゃない!」




香織は絞り出すように反論した。それに対して、ニャンゾウは首を横に振った。




「いいや、幻である。なぜなら、お主を傷つけているのはその『文字』ではない。文字を見たお主の『意(心)』が、わざわざそのデータを脳内で3Dレンダリングし、『私は嫌われている』という巨大なモンスターのホログラムを作り出して怯えているのだ。相手はただ、お主のシステムをパニックに陥れたくて、ノイズ入りの無料Wi-Fiをばら撒いているだけ。なぜお主は、わざわざ自分からその怪しい野良回線に接続しにいって、パスワードまで明け渡しているのであるか?」




「私が……自分で接続しにいってる……?」




「左様。世界中の悪意をすべて消去デリートすることは不可能だ。クソコードを書く不届き者はいつでも存在する。ならば、やるべきことは一つ。お主側のレシーバーを【ミュート】にすることである」




「ミュート……」




「そうだ。スマホの電源を切る。アプリを閉じる。眼を閉じ、耳を塞ぐ。お主の『眼耳鼻舌身意』を、そのノイズから完全に遮断せよ。お主の美しい脳内メモリを、顔も名前も知らぬ有象無象のバグデータで満たすなど、最大の機会損失、非効率の極みであるな」




ニャンゾウの言葉は、冷たい論理のようでいて、香織の心を優しく包み込む包帯のようだった。自分がずっと怯えていたのは、画面の向こうの何万人もの人間ではなく、自分の心の中で膨れ上がらせた「妄想」だったのだ。




香織は深く、深く息を吐き出した。溜まっていた毒をすべて吐き出すように。そして、スマートフォンの電源ボタンをギューッと長押しした。画面に「シャットダウン」の文字が浮かび、やがて完全に真っ黒なガラスの板に戻る。




その瞬間、不思議なほど、耳の奥で鳴り響いていた幻聴のような悪口が、潮が引くように消えていっていった。




「……本当だ。電源を切ったら、あの人たち、私の世界から消えちゃった」




「うむ。お主のパーソナル・ファイアウォールは正常に起動したようであるな。覚えておくが良い、香織。外部のデータに振り回されるな。お主の人生というシステムの管理者権限マスターキーを、画面の向こうの赤の他人に渡してはならんのである」




それから、一ヶ月が経った。




初夏の爽やかな風が吹き抜ける午後、香織の部屋のカーテンは大きく開け放たれ、心地よい太陽の光が差し込んでいた。以前の、遮光カーテンを閉め切った暗い部屋の面影はどこにもない。




テーブルの上には、一台のスマートフォン。しかし今のそれは、彼女を縛り付ける呪いの道具ではなかった。




「よし、今日の投稿、完了!」




香織は笑顔で画面をタップした。


一ヶ月前の夜、ニャンゾウに「シュークリームのエネルギー」をチャージして見送った後、香織の生活は劇的に変わっていた。




まず、SNSのアプリから「通知機能」をすべてオフにした。これまでは、1分ごとにピコンと鳴る通知の音に心拍数を上げ、食事中も、お風呂の中でも画面を確認していたが、今では「朝と夜の30分だけ、自分から見にいく」というルールを徹底している。『眼耳鼻舌身意』のレシーバーを、自分の意志でコントロールし始めたのだ。




実生活の行動も大きく変わった。「タワマンでの生活」や「高級ブランドの自慢」といった、他人に『凄い』と思わせるための背伸びした写真はすべてやめた。代わりに、自分が本当に美味しいと思った近所のパン屋のパンや、昔から大好きだった古着を工夫して着回すコーディネートなど、等身大の「自分が本当に好きなもの」だけを載せるようにした。




当然、きらびやかな虚飾に惹かれていた一部のフォロワーは離れ、アンチのコメントもまだ時折書き込まれる。しかし、今の香織はそれを読んでも眉一つ動かさない。




「あ、また何か言ってるな。でも、これはただのドットの集まり。私の価値には1ミリも関係ないや」




心の中に強固なファイアウォールが築かれた彼女は、画面をスッとスクロールして、次の瞬間には別の楽しいことを考えている。自分自身をミュートする知恵を身につけた香織にとって、画面の中の悪意は、もう彼女の世界に存在しないも同然だった。




代わりに、等身大の彼女の言葉に共感してくれる、温かいファンからのメッセージが心に届くようになった。


『香織さんの自然な笑顔を見るのが毎日の癒やしです』




「認めてもらうために背伸びしなくてよかったんだ……。私は、私のままで、私の世界を生きていけばいいんだよね」




ふと、部屋の隅を見る。あの日以来、あの青い猫型アンドロイドは姿を現していない。しかし、香織のスマートフォンのホーム画面の片隅には、彼が残していった形見のアプリが一つ、ひっそりと常駐している。




アイコンの名前はーー【MUTE-05】。




心がノイズに囚われそうになったとき、それをタップすると、あのお腹の卍マークが優しくブルーに光り、あの深みのある低音ボイスが脳内に響くのだ。




『お主のマスターキーを、他人に渡してはならんのであるな』




香織はスマホを愛おしそうに胸に抱きしめ、窓の外に広がる青空を見上げて、今度こそ心からの、一点の曇りもない笑顔を咲かせたのだった。




(第2話・了)




☆ ニンゲン諸君のための『般若心経』データ解析


物語の中でニャンゾウが香織に授けたセキュリティ・コードについて、今回の状況に該当する「般若心経」の解説をここに格納しておくである。




【該当する文節】


無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法


(むーげんにーびーぜっしんいー むーしきしょうこうみそくほう)




どういう状況に効く?


ネットの誹謗中傷や、他人の心ない一言が頭から離れないとき




情報が多すぎて、頭がパンクしそうなとき(情報過多)




ニャンゾウ流のわかりやすい意味


仏教では、人間の感覚(見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、心で思う)と、その対象(景色、音、匂い、味、触感、情報)を合わせて「十二処じゅうにしょ」と呼び、これが人間の世界を作っていると考えます。




般若心経は、そこにバッサリと「ない」を突きつけます。


「そんなものに、お前を支配するような絶対的な実体はない!」と。




現代風に言えば、「外から入ってくる悪口や不快なニュースは、ただのノイズデータ。お前がわざわざ受信ボタンを押して、頭の中で処理してやる必要はないんだよ。嫌なものは自分から見ない、聞かない。自分側のセンサーを『ミュート(無)』にして、心の平和のセキュリティを守りなさい」という、究極のメンタルガードの教えなのです。

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