九十九、私のため
意地で引きずって歩いていた私の脚は、もう限界だった。岩壁を掴んでいた手が滑り、派手な音と共に地面に崩れ落ちる。
「…っ、龍我…。」
「…何で来たんだよ。」
名前を呼ぶ声に、反応が返ってきた。顔を上げると、虚な目をして膝を抱える龍我の姿が、そこにはあった。
「龍我…家に帰ろう?」
「帰る家なんか…俺にはねぇよ…っ。」
絞り出す様な、今にも泣きそうな声。
かける言葉なんて、見つからなかった。
ここまで来たけど、どうしていいかなんて分からなかった。
龍我の両親の関係は、私たちが小学校の頃に終わりを迎えた。昔、夫婦喧嘩をしては、度々龍我と叔父が実家に転がり込んできていたのを、よく覚えている。
別に今時離婚なんて、そう珍しいものでは無いし、かく言う私の母も、私が生まれて間もなく父と離婚している。
でも、私と龍我では決定的に違うものがあった。 それは、仲の良い時の2人を知っているか否か。仲良くして欲しい2人が、好き同士で一緒になったはずの2人がいがみ合う姿を、一体どんな心境で見てきたのか。
父の顔すら覚えていない、辛さを感じる思い出すら無い私には、龍我の気持ちが、分からない。
数年が経ち、叔父は再婚した。そして数ヶ月前、数々の諸事情により、再婚相手とその間に生まれた娘を連れて、借りたアパートへと越して行った。龍我を1人、実家に残して。
赤の他人と突然生活することに比べたら、実家暮らしの方が気楽だったかも知れない、一緒に生活していないとはいえ、車で2、3分の場所だし、スマホで連絡は取れるから、たいして困らないのかも知れない。
でもきっと、そういう問題じゃない。
そんな状況下で、畳み掛ける様に起こった、大好きなバスケットボールでの不和。
折れて、当然。
嫌になって、突然。
疲れて、突然。
寧ろ今までグレなかったことの方が、不思議なくらいだ。
横まで這っていき、龍我の手に自分の手を重ねる。
「…触んなよ。ムカつくんだよ!何だよ!言いたいことは分かってるみたいなその顔!!!千晶に何が分かるんだよ!!!」
「…分かんないよ。」
振り払われそうになった手に、逃すまいと力を込める。
「龍我に今まで、どんな嫌なことがあって、どれだけの辛い想いをして、どんな気持ちで生活してたか…考えても考えても、全然分かんないよ。」
泣きそうになるのをぐっと堪える。
「結局…気持ちは想像しかできないし、自分が龍我にできることなんて…一緒に暮らしてても全然分かんないし、何かしてあげれたらなんて…上から目線で考えてる自分が本っ当嫌になるし…。だけど…それでもっ…確かなことが一つある!」
顔を上げて、目線を合わせる。
「龍我にいなくなって欲しくない!!!」
ただ、それだけだ。素直な感情を表したら、その一言に尽きるんだ。
「頼むから…自暴自棄になんないでよ。わざわざ普段言わないけど、龍我のお陰で救われたこと結構あるんだよ?」
例えば、そうだ。
小さい頃、私は悪さをして怒られて、母親から逃げる際に、階段を踏み外して2階から落ちたことがあった。その時、明らかに自業自得だった私の頭を撫でててくれたり。
中学の頃、昇降口で鉢合わせた一つ下の問題児に、顔を見るなり「アホそうな顔してる!」と馬鹿にされた私に、家に帰ってきてから「気にしなくていいから。」と一言言ってくれたり。
元々、昔からぬけていた自覚があるから、否定も出来なくて苦笑して昇降口を後にしただけ。言った奴が、小学校の頃から有名な悪ガキだったから、それ以上関わらない方がいいと判断しただけ。だから、たいして言われたことを気にしていた訳じゃない。
それでも、私の気持ちを気にかけて、気遣ってそう言ってくれる龍我が、たまらなく愛おしかった。そんな優しくて、気が利いて、素敵な少年が自分の従弟であることが、とても誇らしかったのだ。
「…何だよ…それ…。」
震える声で、膝を抱える腕の中に目を伏せながら、龍我は言う。
「そんなの…それじゃ戻るの…千晶のためじゃんっ…。」
「うん。うちこの通り、頼りないからさ。…龍我いてくんないと、困る。」
本当、おっちょこちょいだし、気は利かないし、どっちが年上なのか分かんなくなることなんかしょっちゅうだけど、一緒にいたい。
もうこれだけ一緒に過ごしてたら、従姉弟って言うより、姉弟だから。
「…俺…。」
『ま…待て…やめろ!!!』
「「!」」
突然、結界を破ってきたらしい男が、取り乱した様子で地を這って来た。
「龍我、うちの真似して、これから言うこと復唱してくれる?」
赤くなった目元を拭い、龍我が立ち上がる。
「…分かった。」
「祓い給い、清め給え。」
「祓い給い、清め給え。」
龍我の掌の前に五芒星の描かれた円が浮かび上がる。現れた五芒星がぐるぐると回転し、龍我の部屋着が下から紺色の狩衣へと変わっていく。
「神ながら護り給い、幸え給え。」
「神ながら護り給い、幸え給え。」
五芒星の印が光り、龍我の手の中に蒼い勾玉が現れる。
「六根清浄、急急如律令!!!」
「六根清浄、急急如律令!」
ドッという大きな衝撃と共に、印が龍我の手元から離れる。印は真っ直ぐに男の元へ飛んで行き、光が男の体を包み込む。
『グッ…ぁぁぁァァァぁぁああぁあ!!!!!!』
断末魔の様な男の叫びが、洞窟内に響き渡った。




