二十一、リスタート
恭士さんの傍らに置かれた、アルトサックスの楽器ケース。彼はそのケースの前にしゃがみ込み、それについた2つのパッチン錠に、おもむろに手をかけた。開けられたケースの中には、数年間放置されていた割には綺麗な状態で、金色に輝くアルトサックスが横たわっていた。
「綺麗…。」
「昔は、ちゃんと手入れもしとったからな。音もちゃんと出せればええんやけど…っと。」
丁寧に慣れた手つきでサックスを組み上げ、首にかけたストラップと繋げると、恭士さんはゆっくり立ち上がった。しかし、一向にそれを吹き始める気配が無い。
「恭士さん…。」
手が…震えていた。恭士さんの顔を覗き込むと、顔色こそいつも通りに見えなくもないけど、マウスピースを咥えることができないでいた。
私は数秒思案した。
「…恭士さん。一応確認しますけど、恭士さんは潔癖じゃありませんよね?」
「は?ちゃうけど、急にどうし…。」
「じゃ、ちょっと失礼します!」
「は?…ちょっ…えっ!?」
私は、ケースに入っていた予備のストラップを自分の首に掛け、恭士さんが持っていたサックスを自分の方へ付け替えた。慣れた動作でマウスピースを咥えると、持ったサックスで音を奏で始めた《・・・・・・・》。
♪〜♪♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
「…千晶…お前…。」
♪〜♪♪〜♪〜♪〜♪♪〜♪〜
私がサックスで吹き始めたのは、ジャズアレンジもされていて、よく吹奏楽の演奏で耳にする、有名なアニメソングのテーマ曲。
中学生時代、吹奏楽部に所属していた時に吹いたメロディの記憶を呼び起こして音を奏でる。
私がサックスを吹いているという、目の前でおきた予想外の状況に、恭士さんは驚いているようだった。
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪
「あ"っ!」
ぽかんとしている恭士さんの表情に気をとられた矢先、突如本来の音とは違う、割れる様な音が鳴り、演奏が中断された。
「…無念。久々にしてもあんまりだ…ってわっ!」
久々に演奏したとはいえリードミスなんて…と初心者のしがちな失態をしでかしたことにショックを受けていると、横からすっと近づいてきた恭士さんが再びサックスを自分のストラップに付け替えた。
「口締めすぎや。俺のアンブシュアちゃんと見とき。」
恭士さんはそう言ってアルトサックスを構えて立ち上がると、先程とは打って変わり、ごく自然な流れでマウスピースを咥えた。
そっと目を閉じ、彼の息を吸う音が私の耳に届くと、アルトサックスが流れる様に旋律を奏で始めた。
♪〜♪♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
「…わぁっ…!」
♪〜♪♪〜♪〜♪〜♪♪〜♪〜
自分が吹いたものと、同じ楽器から奏でられているとは思えない、整った音の粒。
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
弾むような、それでいて丁寧な耳障りのいい音楽が、鼓膜と心を揺さぶってくる。
♪〜♪〜♪〜♪〜♪♪〜
恭士さんが曲のサビを吹き終え、ゆっくりマウスピースから口を離すと、私は自然と無意識に拍手をしていた。
「…すごい…こんな素敵な音はじめて聴いた…。」
「ははっ…。俺より上手い奴なんかまだまだ上におるわ。これから感覚取り戻していかんと…って、千晶?」
恭士さんが驚いた顔をして私を見た。
「え…?あ…。」
頬の辺りに触れると、濡れていた。目から涙が溢れていた。
「あ…あれ?おかしいな。なんでだろ。あ…。」
慌てて涙を拭いながら後ろを向くと、すっと横から手が現れた。恭士さんの手に握られていたのは、ハンカチ。
「ほらっ。」
「あ…ありがとうございます。」
ハンカチを受け取り、涙を拭いた。
恭士さんがぼそりと口を開く。
「礼言うんは…、俺の方や。」
「え…?」
恭士さんの顔の方へ振り向くと、綺麗な瞳が真っ直ぐに私を見ていた。
「おおきな。千晶。」
そう言って、ニッと笑った。
「へへっ。…どういたしまして。」
微笑み返すと、恭士さんは気恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「ほ…ほらっ。今日はもう帰んで!」
片付けをちゃっちゃと済ませ、楽器ケースを片手に歩きだす。
「あっ…待って下さいよ!」
「もたもたしとると動物園に連絡するで〜。」
「私はパンダじゃありません!!!」
「ハハハハハハッ。」
とても穏やかで、とても晴れ晴れとした表情で、2人は地下室を後にしたのだった。




