百三、嬉しさと切なさと
「な…なんやこれっ!」
そんな恭士さんの驚愕の声が、陰陽神社にこだました。
かくいう私も、神社に戻ってきた他の陰陽師の面々も、目の前に広がる光景に驚きを隠せずにいた。
それもそのはず。ようやく戦いにひと段落ついたと思った矢先、安心して帰った陰陽神社ではありとあらゆる扉が開き、書物が床に散乱しているという異常事態が起こっていた。そして何より厄介なのがーー。
「…無い。無い…無いっ!」
貴重な物は襖の中、普段使用しない時は他の書物の奥深くに仕舞い込んでいた。最初に散らかった物に手をつけた風磨さんが、そこにあった筈のものを探して、書物の山を掻き分ける。
「地図と予言の書が…無くなってるよ!!!」
その一言を皮切りに、陰陽神社内でその2つの大捜索が始まる。しかし、散乱した物を定位置に戻し、すっかり床が見えるまでに片付いても、ついぞそれらが見つかることは無かった…。
ここに出入りすることができるのは、選ばし陰陽師とその式神だけ。
一体誰が、何のために、どうやってその2つを盗み出したと言うのか。状況が全く飲み込めない。
「状況が把握できない以上、ここを留守にすることと単独行動を行うことは危険だ。今日から交代制で、見張りを行う。」
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そんな仙太郎さんの一言で、現在3人で陰陽神社にいた訳だが…。
「ふうっ…。」
「何て言うか…随分落ち着いてますね。恭士さん。」
お風呂等の寝る準備をあらかた済ませ、ちゃぶ台の前に腰を下ろし、リラックスムードで首を回している恭士さんにそう声をかける。
ちなみに拳心さんは、もう寝た。本人曰く、「まだ俺の身長は伸びる。」だそうだ。
「ん?せやなぁ。だって、何が起こっとるかさっぱり分からんのに、ジタバタしてもしゃーないやろ?一周回って冷静になった方がええと思うで?」
「…それもそうですね。」
そう答えながら、恭士さんの横に私も腰を下ろす。
空いた障子の向こうには雲一つない秋の夜空が広がり、上弦の月が街灯の無い神社周辺を明るく照らしていた。
「そろそろ一年…か。」
「ん?」
月を見つめながら、恭士さんがぽつりと呟いた。
「千晶と会うてから、そろそろ一年経つな思て。」
しみじみとした様子でそんなことを言われ、思わず心臓がドキリと跳ねる。ていうか近っ!自分で隣に座っておきながら、もう少し離れて座れば良かったと少し後悔する。緊張して、心音が恭士さんまで聞こえやしないかと焦る。
「そ…そうですね!あの日から色々…色々…。」
そうだ。色々…私の世界が、変わった。自分が知らない夜の世界を知り、陰陽師として魑魅魍魎と戦い、個性的な仲間たちと出会い、そして…。
草木の澄んだ秋の香りが、風に乗って鼻先を掠める。
あの日と同じ凛とした佇まいの中に、どこか安心しきったようなゆるい笑みを浮かべた恭士さんが、ゆっくりと私の方に顔を向けた。パールグレーの綺麗な瞳に、私の姿がはっきりと映っている。
「…寝る前はメガネなんやな。」
「あ…はいっ。ってちょっと、取らないで下さいよ!」
お風呂上がりから寝る前の時間帯しか掛けない眼鏡を唐突に奪われ、視界が急激にぼやける。
「なぁ…、どこまで近づけばはっきり見えるん?」
「へっ…?」
ただでさえ近かった距離が、顔を寄せられたことでグッと近くなった。
「あっ…あの…っ。ちょっ…。」
どうしていいか分からず、オロオロして硬まる。
「…ぷっ…クッ、ハハッ!顔真っ赤。」
動揺している私をケラケラと笑いながら、すっと距離を元に戻す。
「そっ…そんなに近づかれたら誰だって緊張します!」
「ほー。よう言うわ。この前しれっとマウスピースで間接キスした癖に。」
「なっ…!?かっ…からかわないで下さい!楽器のはあるあるだからノーカンでしょっ!ていうか眼鏡返して!」
「ダメですぅ。返しませーん。」
「子供か!!」
だめだ…完全に遊ばれてる…。
ぼんやりと視える、悪戯っ子のような笑みを浮かべた恭士さんの顔。恭士さんの右手にある眼鏡に、畳に右手をついて、左手で手を伸ばす。
「もう…っ、いい加減…に…。…っ!?」
鼻がトンッと硬い胸板にぶつかる。
えっ…な…に?なんで…っ。
ふわっと香る、石鹸みたいないい匂い。眼鏡が無くてもはっきり見える、パジャマの襟元。背中に回された、温かい腕の感覚。
前に乗り出した体を、ぐっと恭士さんに抱き寄せられたらしい。
「…鼻が…潰れますっ。」
恥ずかしさで動揺し、色気のカケラもない訳の分からない言葉を口走る。自分の顔の斜め上から、クスッという小さな笑い声が聞こえた。
「…俺な、昔の仲間とまたバンド再開したんや。」
「!」
びっくりして、思わず顔をあげる。
「千紘の一件以来、いっぺんも連絡とってへんかったんやけど、皆なんだかんだ音楽好きなんは変わってへんかった。」
しみじみと、嬉しそうに語る恭士さん。
でも…なんだろう。
「せやから、『手前勝手な頼みやけど、またテッペン目指さんか?』言うたら、恭士がそうしたいならやりたいて、言うてくれた。」
恭士さんの目が、ゆっくり私の目と合う。
なんか…もやもやする。
「千晶のお陰や。」
嬉しいのに、なんだか嬉しくない。
恭士さんの顔が、ちょっとだけまた近づく。
「なぁ…、今日の眼鏡のコトみたいに、俺の知らんこと、教えてくれへん?」
何…その聞き方。私は…何をどう受け取ればいいの?
分かんない…分かんないよ…。
「っ…!」
バッと勢いよく、恭士さんの腕から逃れる。
「千晶?」
「っ!すみませんっ。今日はもう寝ます!おやすみなさいっ!!」
慌ててちゃぶ台の部屋を後にし、私にあてがわれた寝室に逃げ込む。
閉めた襖に背を預けて、ずるずると座り込む。胸がズキズキと痛い。
気がつけば声も出さずに、涙だけがぼろぼろと落ちていた。
「っ…。」
好きだ…。恭士さんのことが。さっきの感じだと…多分、恭士さんも…。でも…だけど…っ。
私は知っている。この気持ちの正体を…。
頭を抱えて、自嘲気味に笑う。
「っ…ほんっと…馬鹿みたい。なんでこんな…。」
怖い。2人目になることが、こんなにも、怖い。
膝を抱えて、腕をさする。
いつからこんな…面倒な女になっちゃったんだろう。
大事な人なのも、分かってるのに…。
全身の細胞が、嫌だ嫌だと警鐘を鳴らす。
私は、私の手も加えて育て上げてしまった、恭士さんの忘れられない人に…どうしようもないくらいに、嫉妬してしまっているんだ…。




