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ラミア香紙工房 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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5/12

5枚目 返品されたのは紙ではありません。混じった香りの信用です

 戻ってくる荷は、重い。


 出した時と、重さは同じはずなのに。


 紙なら、なおさら軽いはずなのに。


 戻ってくる荷は、なぜか重い。


 それは、紙だけが戻ってくるからではない。


 紙と一緒に、文句が戻る。


 紙と一緒に、疑いが戻る。


 紙と一緒に、誰が見たのか、誰が止めなかったのか、誰が通したのかという目が戻る。


 だから、返品された紙束は、いつも出した時より重い。


 その朝、香紙工房へ戻ってきた紙束も、重かった。


     *


「神殿からです」


 下働きがそう言った時、乾燥場の手が止まった。


 完全には止まらない。


 紙を返す手。


 香草を広げる手。


 乾いた紐を巻く手。


 留め札を外す手。


 みんな、動いている。


 けれど、耳だけはこちらを向いている。


 わたしは、もうその沈黙に慣れ始めていた。


 慣れたくはなかった。


 神殿から戻ってきたのは、薄香紙だった。


 白香の家と青壺の家と、香紙工房で合わせた婚礼香紙。


 白い。


 薄い。


 見た目はきれい。


 紙の反りも少ない。


 湿りもない。


 端も波打っていない。


 けれど、戻ってきた。


 女主人が紙束を受け取った。


 神殿の使いは、顔を硬くしている。


「祈祷の場で、重すぎたとのことです」


 重い。


 香りが、重い。


 その言葉だけで、乾燥場の空気が少し沈んだ。


 白香の婚礼香なら、清く上がる。


 青壺の香水なら、場を整える。


 香紙工房の紙なら、香りを受けて、余計なものを逃がす。


 そうなるはずだった。


 でも、戻ってきた。


「誰が見た」


 女主人が言った。


 若い香読みが答える。


「私です」


 別の香読みも言う。


「私も」


 白香の家の下働きが、小さく言う。


「サイード様も確認されました」


 青壺の使いが言う。


「リリア様も、香りを聞かれました」


 みんな見ている。


 みんな確認している。


 だから、誰か一人の見落としではない。


 それが、いちばん怖い。


 わたしは、戻ってきた紙束を見た。


 白い。


 きれい。


 香りも悪くない。


 悪くないのに、重い。


 それが問題だった。


     *


 女主人は紙束を開かせた。


 一枚目。


 白花の香り。


 二枚目。


 白花の香り。


 三枚目。


 少し重い。


 四枚目。


 さらに重い。


 束の外側ではない。


 内側だけでもない。


 ところどころ、重い。


 均一ではない。


 混じっている。


「香りが斑です」


 若い香読みが言った。


「白花の甘さが残るところと、眠り草の重さが落ちているところがあります」


 神殿の使いが顔をしかめた。


「眠り草」


 その言葉はよくない。


 神殿紙に眠り草。


 祈祷の場に眠り草。


 婚礼香に眠り草。


 全部、よくない。


「眠り草そのものではありません」


 リリア様の声がした。


 入口に立っていた。


 白い肩掛け。


 今日は少しだけ青い縁取りがある。


 その隣に、サイード様。


 白香の家の袖は、相変わらず白い。


 リリア様は、神殿の使いへ向き直った。


「眠り草の香りが入ったのではなく、場を落ち着かせる重さが少し残ったのだと思います」


 言い方がうまい。


 眠り草ではなく、場を落ち着かせる重さ。


 混入ではなく、残り。


 失敗ではなく、少し。


 神殿の使いの顔が、わずかに和らぐ。


 でも、紙の香りは和らがない。


 わたしは、戻ってきた紙束の端を見た。


 香りの重い紙。


 軽い紙。


 それぞれに、小さな違いがある。


 重い紙は、ほんの少しだけ端が固い。


 濡れているわけではない。


 でも、湿りを一度受けた紙の固さだった。


「ナディ」


 女主人が言った。


「見ろ」


「はい」


 わたしは、紙束へ近づいた。


     *


 紙を触る時は、強く押してはいけない。


 香りが逃げる。


 端をこすってはいけない。


 紙が毛羽立つ。


 鼻を近づけすぎてもいけない。


 自分の息で湿る。


 だから、まず見る。


 端。


 厚み。


 揃い。


 束ね跡。


 紐の跡。


 紙と紙の間の空気。


 それから、一枚だけ持ち上げる。


 重い紙の端に、薄く白花の甘さがある。


 その下に、眠り草の沈み。


 さらに、どこかで嗅いだ湿りがある。


 南庭水。


 そう思った。


 四枚目の時に止めた、あの湿り。


 青壺の口布。


 白花下風。


 南庭水。


 婚礼不可。


 神殿不可。


 薬師不可。


 旅袋外包み試し可。


 あの札。


 あの長い札。


 女主人の命で控え帳へ写した札。


 わたしは紙束を置いた。


「この束、四枚目の口布の近くにありましたか」


 若い香読みが、少し考えた。


「四枚目?」


「青壺の口布を留めた日です」


「ああ、あの長い札の」


「はい」


 若い香読みは顔をしかめた。


「近くには、ありました。でも、あの口布は外したでしょう」


「外しました」


「なら、直接触れていません」


「直接は」


 女主人が目を細めた。


「間に何があった」


「見本紙です」


 わたしは答えた。


「戻ってきた紙束ではなく、見本紙が間にありました」


 若い香読みが、はっとした顔をした。


「見本紙は、捨てたわ」


「全部ですか」


「全部……」


 言葉が止まる。


 全部ではない。


 乾燥場では、全部という言葉が怖い。


 全部乾いた。


 全部見た。


 全部捨てた。


 たいてい、どこかに一枚残る。


「白香の家へ持ち帰った見本がありました」


 サイード様が言った。


 みんなが彼を見た。


 サイード様は、少し不快そうではあったが、逃げなかった。


「香りの確認用に、一部を白香の家で見ました」


「その見本紙は」


 女主人が聞いた。


「戻しました」


「どこへ」


「本束の上へ」


 乾燥場が静かになった。


 わたしは、紙束を見た。


 本束の上へ戻した。


 見本紙を。


 白香の家で香りを見た見本紙を。


 あの日、口布と同じ風にいたかもしれない見本紙を。


「見本紙は、留め札でしたか」


 女主人がわたしに聞いた。


「最初は」


「途中で」


「確認札へ変えられました」


 リリア様が静かに言った。


「黒札扱いではなく、確認札です。白香の家で見やすいように」


 わたしは、リリア様を見た。


 その声は柔らかかった。


 けれど、いつもより少し早かった。


「黒札扱いの字は?」


 女主人が聞いた。


 誰もすぐには答えなかった。


 サイード様が言った。


「客前に出す札としては強すぎるので、白香の家では外しました」


 外した。


 その一言で、戻ってきた紙束がもっと重くなった。


     *


「毒ではありません」


 リリア様が言った。


 誰も毒とは言っていない。


 でも、そう言う必要がある空気になっていた。


「見本紙を戻したことは、確かに手順としてはよくなかったかもしれません。でも、香り自体は優しいものです。神殿の方も、重いとおっしゃっただけで、害が出たわけでは」


「祈祷中に、子どもが二人眠りました」


 神殿の使いが言った。


 リリア様の声が止まった。


 乾燥場の空気が、今度こそ沈んだ。


「子ども?」


 女主人が聞く。


「婚礼前の祈祷に参列していた親族の子です。長い祈祷ですから、眠ること自体は珍しくありません」


「なら」


 若い香読みが言いかける。


 神殿の使いは首を横に振った。


「ですが、薄香紙を置いた側の子だけです。反対側の子は起きていました」


 場所。


 紙の位置。


 香りの風下。


 眠った子。


 わたしは床を見た。


 乾燥場ではない。


 神殿の床は知らない。


 けれど、香りは風下へ行く。


 紙はそこに置かれる。


 子どもは座る。


 眠る。


 眠り草そのものではなくても、重さが残れば、そうなる。


「回収します」


 女主人が言った。


「神殿へ納めた分は、全て」


 神殿の使いは頷いた。


「そのために参りました」


「白香の家へ渡した分は」


 女主人がサイード様を見る。


 サイード様は、少しだけ顎を引いた。


「確認します」


「確認ではなく、留めます」


 女主人の声は低かった。


「使用停止。用途決定まで移動不可。帳には黒札扱いと書く」


 リリア様が、小さく息を吸った。


 黒札。


 また、その言葉が戻ってきた。


     *


 昼前には、別の荷も戻ってきた。


 薬師組からだった。


 薬包み用に回した小布の一部である。


 こちらは神殿紙よりさらに悪かった。


 薬師組の使いは、怒っていた。


「白花の甘さが残っています」


 そう言って、小布を机に置いた。


「薬包み用です。患者の枕元で白花の婚礼香が立つ必要はありません」


 その通りだった。


 薬包み用小布は、薬を邪魔してはいけない。


 甘い香りは、薬の苦みを隠すことがある。


 苦みを隠せば、腐りかけた薬草や、湿った粉に気づきにくくなる。


 薬師はそれを嫌う。


「どの束ですか」


 女主人が聞く。


「青印の三束」


 わたしは、控え帳を開いた。


 青印。


 薬師組用。


 乾燥場中棚。


 白花上棚と同日。


 青壺口布留め。


 南庭水湿り。


 見本紙移動。


 白香家確認。


 戻し有無、不明。


 不明。


 その字が、胸に刺さる。


 不明と書いた。


 でも、不明のまま進んだ。


 黒札にはしなかった。


 留め札にも戻さなかった。


 確認札のまま、次の棚へ行った。


 なぜか。


 忙しかったから。


 白香の家が見たいと言ったから。


 リリア様が柔らかく言ったから。


 サイード様が白香の名で確認すると言ったから。


 わたしが、その場で強く止めなかったから。


 全部、少しずつ理由だった。


 でも、戻ってきたのは紙だった。


 理由ではない。


「ナディ」


 女主人が言った。


「控えを読め」


「はい」


 わたしは読み上げた。


 声が少し震えた。


 白香壺、当初上棚中央。


 眠り草下風戻りあり。


 南下風戸、午後より外湿り流入。


 青壺香水口布、白花下風および南庭水湿りを拾う。


 香り、良。


 ただし手順不明。


 婚礼香不可。


 神殿不可。


 薬師不可。


 旅袋外包み試し可。


 リリア様、合わせ香として評価。


 サイード様、新名付与を提案。


 女主人、不可判断。


 ナディ、留め札。


 そこまで読むと、薬師組の使いが顔を上げた。


「神殿不可、薬師不可と書いてあるではありませんか」


「はい」


「なぜ薬包みに回ったのですか」


 誰も、すぐには答えなかった。


 わたしも答えられなかった。


 控えには書いた。


 札にも書いた。


 でも、見本紙が戻され、確認札が柔らかくなり、黒札扱いの字が外れ、束の一部が動いた。


 つまり、紙ではなく、意味が動いた。


「札が変わりました」


 わたしは言った。


「黒札から、留め札へ。留め札から、確認札へ。白香の家で、黒札扱いの字が外れました。その後、見本紙が本束へ戻りました」


 薬師組の使いは、静かに言った。


「では、紙の香りではなく、手順の香りが混じったのですね」


 その言い方は、少し意地悪だった。


 でも、正しかった。


     *


 午後、乾燥場には紙束が並んだ。


 神殿から戻った薄香紙。


 薬師組から戻った小布。


 白香の家へ回す予定だった婚礼香紙。


 青壺の香水を受けた見本紙。


 全部に札をつける。


 黒札。


 留め札。


 回収。


 使用停止。


 用途未定。


 神殿不可。


 薬師不可。


 婚礼不可。


 旅袋外包み再試験。


 見本紙混入疑い。


 白香家確認後戻し疑い。


 札が多い。


 多すぎる。


 でも、少ないよりましだった。


 若い下働きが、泣きそうな顔で札を結んでいる。


「ナディさん」


「何」


「どれがどれだか、分からなくなります」


「わたしも」


「またですか」


「また」


「でも、今回は分かってください」


「だから、書く」


 わたしは札を一枚ずつ短くした。


 黒。


 動かすな。


 神殿戻り。


 薬師戻り。


 見本混入。


 白香確認。


 青壺口布日。


 これでも長い。


 でも、ないよりましだ。


 女主人は、すべて見ていた。


 怒鳴らなかった。


 その方が怖かった。


     *


 夕方、リリア様とサイード様が、女主人の前に立った。


 わたしは乾燥場の端で、控え帳を持っていた。


 呼ばれていない。


 でも、聞こえる位置にいた。


「今回の件は、白香の家でも確認します」


 サイード様が言った。


「ただ、神殿で子どもが眠ったことと、紙の香りの関係は、まだ断定できないのでは」


 女主人は答えなかった。


 サイード様は続けた。


「薬師組の小布についても、白花の甘さが残ったというだけです。使えないとまでは」


「薬師が返した」


 女主人が言った。


「それが答えだ」


 サイード様の顔が硬くなった。


 リリア様が一歩前へ出る。


「女主人様。サイード様は、責任を避けたいわけではありません。ただ、婚礼前に大きな騒ぎにすると、白香の家にも青壺の家にも、そして工房にも傷がつきます」


 うまい。


 また、うまい。


 責任逃れではない。


 騒ぎを避ける。


 家を守る。


 工房も守る。


 そう言われると、場はリリア様の方へ寄る。


 でも、戻ってきた紙はそこにある。


「もう傷はついている」


 女主人は言った。


 声は静かだった。


「紙が戻った時点で、傷はついている。今、隠せば膿む」


 膿む。


 強い言葉だった。


 リリア様の顔が、少しだけ揺れた。


「隠すつもりはありません」


「なら、全部出す」


「全部?」


「神殿戻り。薬師戻り。白香家見本戻し。確認札変更。黒札扱い字外し。青壺口布日。南庭水。白花下風。全部、控えに出す」


 サイード様が言った。


「白香の家の帳にも、ですか」


「必要なら」


「それは、少し強すぎるのでは」


 リリア様が続けた。


「黒札扱いを外したことも、善意でした。客前で毒のように見えないために」


「毒ではない」


 女主人が言った。


「だが、止める札だった」


 リリア様は黙った。


 サイード様も黙った。


 わたしは、控え帳を握った。


 止める札。


 そうだ。


 黒札は、毒札ではない。


 でも、止める札だった。


 怖いから止まる。


 嫌だから止まる。


 見たくないから手が止まる。


 その怖さを薄めたら、意味も薄くなる。


 それを、わたしは三枚目の日に知ったはずだった。


 知ったのに、止めきれなかった。


     *


 リリア様は、帰る前にわたしのところへ来た。


「ナディさん」


「はい」


「あなたの控えが、役に立ちましたね」


「はい」


「書いておいてよかったです」


「はい」


「でも」


 リリア様は、そこで少しだけ声を落とした。


「書き方には気をつけてください」


「書き方」


「白香の家が黒札扱いを外した、とだけ書くと、まるでサイード様が悪いように見えます」


「外しました」


「理由も書いてください」


「客前で強すぎるため、と書いています」


「それだけでは、冷たいわ」


 わたしは、リリア様を見た。


 冷たい。


 その言葉は、わたしではなく、控え帳へ向けられているようで、でもわたしへも向いていた。


「では、どう書けば」


「婚礼香の場にふさわしい表記へ改めた、と」


「黒札扱いを外したことが分かりにくくなります」


「でも、角は立ちません」


「角が立たないと、止まらないことがあります」


 リリア様の笑みが、止まった。


 ほんの少し。


 すぐに戻る。


「ナディさんは、やっぱり正直ですね」


「よく叱られます」


「ええ」


 リリア様は、柔らかく言った。


「そのままだと、いつか誰かを傷つけます」


 わたしは答えられなかった。


 たぶん、本当だった。


 わたしの言葉は、角が立つ。


 黒札も角が立つ。


 でも、角を削りすぎた札は、止まらなかった。


 戻ってきた紙束が、それを証明している。


「リリア様」


「何でしょう」


「柔らかい言葉でも、誰かを傷つけることがあります」


 言ってしまった。


 リリア様の目が、少しだけ細くなった。


 すぐに戻る。


「そうかもしれませんね」


 声は柔らかい。


 でも、床の風が冷えたように感じた。


 リリア様は、白い肩掛けを直し、サイード様の方へ戻ろうとした。


 その時だった。


「……背景モブのくせに」


 小さな声だった。


 紙束を動かす音。


 乾き紐を巻く音。


 白香の下働きが壺を包む音。


 それらの間に、細く落ちた声だった。


 わたしは、手を止めた。


 背景。


 モブ。


 聞いたことのない言葉だった。


 第五文化圏の香りの名ではない。


 青壺の水札でもない。


 白香の家の婚礼語でもない。


 神殿の祈祷語でも、薬師組の薬草名でもない。


 それなのに、その言葉には、わたしを指す形があった。


 リリア様は、もうこちらを見ていなかった。


 笑みも戻っている。


 サイード様の横へ立つ顔は、いつもの柔らかい顔だった。


 だから、誰も気づかない。


 女主人も、白香の者も、神殿の使いも、若い香読みたちも。


 たぶん、聞こえたのはわたしだけだった。


 わたしは、控え帳の端へ小さく書いた。


 ――リリア様、小声。


 ――背景モブ、という語。


 ――意味、不明。


 ――ただし、侮りの気配あり。


 書いてから、少し迷った。


 これは、香りではない。


 水でもない。


 紙でもない。


 でも、今日の風には入っていた。


 だから消さなかった。


     *


 夜、女主人は工房の奥帳を開いた。


 わたしの控え帳も、その横に置かれた。


 奥帳へ写す。


 それは、軽いことではない。


 下働きの控えが、工房の正式な記録へ入る。


 風抜き番の札が、帳になる。


 わたしは、緊張して立っていた。


 女主人は書いた。


 神殿薄香紙、返品。


 理由、祈祷場にて香り重し。


 参列児童二名、薄香紙風下にて眠気強し。


 薬師組小布、返品。


 理由、白花甘香残り。


 薬包み用として不適。


 原因候補。


 白香家確認見本紙戻し。


 青壺口布日、南庭水湿り、白花下風。


 黒札扱い表示外し。


 確認札運用の意味薄化。


 風抜き控えに該当記録あり。


 対応。


 該当束、全量留め。


 神殿不可。


 薬師不可。


 婚礼不可。


 旅袋外包み可否再試験。


 以後、留め札の文言変更は風抜き番および女主人確認を要する。


 わたしは、その一行を見た。


 風抜き番。


 工房の奥帳に、そう書かれていた。


 嬉しい、とは違った。


 怖い、に近い。


 自分の見たものが、工房の手順になる。


 間違えれば、間違いも残る。


「ナディ」


「はい」


「今回、お前は止めきれなかった」


「はい」


「だが、控えは残した」


「はい」


「残したから戻れた」


 女主人は筆を置いた。


「戻ってきた紙は損だ。だが、戻ってきた理由が分からない紙はもっと損だ」


「はい」


「今回は、理由の糸が残っていた」


「はい」


「次は、紙が戻る前に止めろ」


「はい」


 厳しい。


 当然だった。


 女主人は、わたしの控え帳の端へ目を落とした。


 リリア様、小声。


 背景モブ。


 意味、不明。


 侮りの気配あり。


 その行を見て、女主人の眉が少し動いた。


「これは何だ」


「分かりません」


「聞いたのか」


「はい」


「誰が」


「リリア様が」


 女主人は、少し黙った。


「意味は」


「分かりません」


「なら、なぜ書いた」


「今日の風に入っていたので」


 女主人は、長く息を吐いた。


「奥帳には写さない」


「はい」


「だが、お前の控えには残せ」


「はい」


「分からない言葉ほど、後で戻ることがある」


 わたしは頷いた。


 背景。


 モブ。


 意味は分からない。


 けれど、戻る言葉。


 その分類だけは、できた。


     *


 翌朝、乾燥場の入口に新しい札が吊られた。


 留め札文言変更。


 女主人確認。


 風抜き番確認。


 黒札扱い字、無断削除不可。


 長い。


 また長い。


 若い下働きがそれを見て、顔をしかめた。


「ナディさん」


「何」


「また札が増えました」


「増えた」


「読むだけで朝が終わりそうです」


「終わらないように、短くする」


「短くすると意味が抜けるって言ってませんでしたか」


「言った」


「では、どうするんですか」


 わたしは少し考えた。


 そして、札の下へ小さな黒い点を一つ打った。


「この点がある札は、勝手に言い換えない」


「点?」


「黒札扱いの点」


「黒札って書けばいいのでは」


「客前では強い」


「またそこですか」


「またそこ」


 若い下働きは、ため息をついた。


 分かる。


 わたしもため息をつきたい。


 でも、点は残った。


 黒い小さな点。


 遠くからは目立たない。


 近くで見れば分かる。


 怖すぎず、消えにくい。


 これで足りるかは分からない。


 でも、昨日よりはましだ。


     *


 昼前、神殿から正式な書き付けが来た。


 薬師組からも来た。


 白香の家へも、確認の使いが出る。


 青壺の家にも、写しが行く。


 騒ぎは広がった。


 小さく収めることは、もうできなかった。


 リリア様の言葉でも、サイード様の白い袖でも、戻ってきた紙束は消えない。


 返品されたのは紙ではありません。


 混じった香りの信用です。


 そう書きたいと思った。


 でも、奥帳には書けない。


 だから、わたしの控えにだけ書いた。


 ――紙束、戻る。


 ――香り斑。


 ――神殿、薬師組より指摘。


 ――黒札扱いの意味薄化あり。


 ――リリア様、場を和らげる。


 ――サイード様、白香家面子を守る。


 ――ただし、紙は戻る。


 ――香りは、言葉では戻らない。


 ――背景モブ、意味不明。


 ――侮りの気配。


 書いてから、少し手が止まった。


 角が立つ。


 この控えは、角が立つ。


 でも、消さなかった。


     *


 夕方、ローデン商隊が近くの市へ戻ったという話が入った。


 荷を買いに来るらしい。


 薬紙。


 小壺。


 乾き布。


 香紙。


 それから、青壺の水札を扱える者も連れているという。


 若い下働きが噂した。


「ローデン商隊って、あの人間の商隊ですか」


「そう」


「いろんな文化圏の人がいるっていう」


「そう」


「ラミアもいるんですよね」


「青壺の長女だって」


 その言葉に、乾燥場の空気が少し変わった。


 青壺の長女。


 セレナ様。


 毒を疑いすぎる女。


 黒札を増やす女。


 婚礼香の場を冷やした女。


 そういう噂は、わたしも聞いていた。


 リリア様の姉。


 サイード様が選ばなかった人。


 白香の家には合わなかった人。


 その人が、ローデン商隊として戻ってくる。


 わたしは、風戸の札を見た。


 黒札。


 留め札。


 黒い点。


 使用停止。


 戻せる先を書く。


 意味を消さない。


 その中に、青壺の水札と同じ匂いが少しある気がした。


 会ったことはない。


 でも、たぶん、黒いものを怖がらずに見る人だ。


     *


 今でも、わたしは魔法を使えない。


 香りを留める秘術も知らない。


 返品された紙束を、出す前の白さへ戻すこともできない。


 戻ってきた信用を、すぐに乾かすこともできない。


 でも、控えは残せる。


 札は結べる。


 黒い点は打てる。


 どの風で、どの紙が、どの言葉に押されて動いたのか。


 それを、消さずに書くことはできる。


 紙は戻ってきた。


 香りも戻ってきた。


 文句も戻ってきた。


 信用の傷も戻ってきた。


 それから、意味の分からない言葉も残った。


 背景。


 モブ。


 聞いたことのない言葉。


 でも、あれは今日の風だった。


 わたしを下へ押し、紙束の音に紛れ、誰にも聞かれずに通りすぎようとした風だった。


 戻ってきたものは、軽くない。


 でも、理由が残っていれば、分けられる。


 戻せるもの。


 戻せないもの。


 捨てるもの。


 別の用途へ回すもの。


 次から止めるもの。


 意味がまだ分からないもの。


 そのために、今日も札を作る。


 黒札。


 留め札。


 確認札。


 黒い点。


 面倒だ。


 本当に面倒だ。


 けれど、面倒を嫌って外した札が、紙束になって戻ってきた。


 だから、わたしはもう一枚、花弁を落とした。


 花弁は、床の近くで少し戻った。


 今日の風も、まだまっすぐではない。


 でも、戻る風があるなら、見ることはできる。


 戻ってきた紙束の横で、わたしは黒い点をもう一つ打った。

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