4枚目 香りを合わせたのではありません。効き目の違う風を同じ棚に置いただけです
婚礼香は、美しい。
そう言われている。
白い花弁。
甘い香油。
清め水。
薄い香紙。
白い紐。
白い壺。
白い布。
白い肩掛け。
白いものばかりが並ぶ。
だから、婚礼香の棚は、遠くから見ると清い。
めでたい。
やさしい。
誰もが、そう言う。
けれど、乾燥場の床から見ると違う。
白い花弁は、湿る。
白い壺の蓋布は、香りを拾う。
白い紐は、水を抱える。
白い香紙は、隣の草の重さを吸う。
白いものは、汚れないのではない。
汚れが見えにくいだけである。
その日、乾燥場には白いものが多すぎた。
*
「青壺と白香の合わせ香です」
リリア様は、そう言った。
声は明るかった。
工房の入口に立つ姿も、明るかった。
白い肩掛け。
青壺の家の細い腕飾り。
白香の家から贈られたという小さな香玉。
その横に、サイード様がいた。
白香の家の若い男。
昨日よりも、少しだけ胸を張っている。
白香の家の壺を三つ。
青壺の家の香水を二つ。
神殿へ添える祈祷紙。
薬師組へ回す眠り草の小包。
そして、香紙工房の薄香紙。
それらを合わせて、婚礼用の香紙を作る。
白香の家と、青壺の家と、香紙工房。
三つの名が並ぶ。
きれいな話だった。
帳の上では。
「今日は、少し柔らかい香りにしたいのです」
リリア様は言った。
「白香だけでは清すぎる。青壺だけでは少し薬に寄りすぎる。香紙工房の紙で受ければ、きっとよい形になります」
若い香読みたちが頷いた。
白香の下働きたちも、嬉しそうに壺を運ぶ。
青壺の使いは、香水の小壺を丁寧に棚へ置いた。
サイード様が言う。
「白香の名で神殿へ出し、青壺の香水で場を整え、香紙工房の紙で残す。よい婚礼の品になるでしょう」
よい婚礼の品。
それは、たぶん本当だった。
香りだけを見れば。
場だけを見れば。
人の顔だけを見れば。
けれど、わたしは床を見ていた。
床の近くに、眠り草の重い風があった。
*
女主人は、朝から眉間に皺を寄せていた。
「ナディ」
「はい」
「南下風戸は」
「指二本分です」
「北上風戸は」
「閉じ気味です」
「白花は」
「上棚です」
「眠り草は」
「本来なら別室です」
女主人がこちらを見た。
「本来なら、か」
「はい」
「今日は別室が埋まっている」
「はい」
「だから」
「同じ乾燥場にあります」
「言い方」
「同じ乾燥場に、置かれています」
「よろしい」
よろしい。
ではない。
まったくよくない。
眠り草と婚礼香の白花は、同じ風に置かない。
目覚め葉と白香の清め水も、近づけない。
青壺の香水は、薬に寄るものと、香に寄るものを分ける。
湿った蓋布は、どの壺にもかけっぱなしにしない。
乾き紐と清め紐は分ける。
風が戻る棚には、見本紙を置かない。
それが、乾燥場の手順だった。
でも、今日は客が多い。
壺が多い。
見せるものが多い。
白いものを白く並べたい人が多い。
そして、白いものは、たいてい上へ置かれる。
人の目に入りやすい場所へ。
客に見えやすい棚へ。
そこが、風として正しいかどうかは、別の話だった。
*
わたしは、花弁を一枚落とした。
白い花弁。
薄い。
軽い。
落とすと、まっすぐ下へ行かず、途中で少し戻る。
北から入った風が、棚の奥で止まり、床へ落ちて、南下風戸へ抜ける前に白香の壺の方へ曲がっていた。
悪い。
とても悪い。
白香の壺の下には、青壺の香水がある。
その横には、眠り草の小包。
さらにその奥には、乾ききっていない祈祷紙。
それぞれは、正しいものだ。
白香の壺は正しい。
青壺の香水も正しい。
眠り草も正しい。
祈祷紙も正しい。
でも、正しいものを同じ風へ置けば、全部が正しいままとは限らない。
「その棚は使えません」
わたしは言った。
若い香読みが、すぐに顔を上げた。
「また?」
「はい」
「昨日、留め札を作ったでしょう」
「はい」
「今日は最初から留めるの?」
「置く前に止めます」
若い香読みは、少し困った顔をした。
その顔は、怒りではない。
疲れである。
分かる。
わたしも疲れている。
止めるたびに、手順が増える。
札が増える。
言葉が増える。
客前での説明も増える。
でも、棚の風は変わらない。
「ナディさん」
リリア様が近づいてきた。
白い肩掛けが揺れる。
香玉が小さく鳴る。
「その棚では、何がいけないのですか」
「風が戻ります」
「戻る?」
「眠り草の重い風が、床へ落ちて、白香の壺の方へ戻ります」
リリア様は、棚を見た。
それから、壺を見た。
最後に、わたしを見た。
「でも、眠り草は包まれています」
「はい」
「白香の壺には蓋があります」
「はい」
「青壺の香水も閉じています」
「はい」
「なら、少しの間なら大丈夫ではありませんか」
「湿りがあります」
わたしは、祈祷紙を指した。
「祈祷紙が乾ききっていません」
「神殿の紙です。清いものです」
「湿っています」
また、空気が硬くなった。
清いもの。
湿ったもの。
それは同じではない。
でも、その違いを言うと、清さを疑ったように聞こえる。
リリア様は、すぐに微笑んだ。
「ナディさんは、清さの話ではなく、乾きの話をしているのですよね」
「はい」
「神殿の紙が悪いのではなく、香りを受けやすい状態だと」
「はい」
「では、乾ききるまで少し離せばよいのですね」
その言い方なら、通る。
神殿の使いも怒らない。
白香の家の者も不快にならない。
青壺の使いも責められたと思わない。
リリア様は、本当にうまい。
でも、問題はそこだけではない。
「離すだけでは足りません」
わたしは言った。
リリア様の笑みが、ほんの少しだけ止まった。
「ほかにも?」
「はい」
わたしは、棚の位置を指した。
「白香の壺と、青壺の香水を同じ段へ置かないでください。眠り草は床から二段上げます。祈祷紙は乾くまで西の砂除け網の近くへ。白花は上棚のままですが、目覚め葉の粉と同じ風にしません」
若い香読みが、額に手を当てた。
「全部動かすの?」
「はい」
「もう並べたのに」
「並べ方が、香りではなく見栄えです」
しまった。
言ってから思った。
でも、遅かった。
場が止まった。
サイード様が、わたしを見た。
白香の下働きたちも見る。
青壺の使いも見る。
リリア様は、困った顔をした。
困った顔。
悲しそうな顔。
場を壊された人の顔。
その顔を見た時、周囲の空気は、わたしではなくリリア様へ寄る。
「ナディさん」
リリア様は、柔らかく言った。
「見栄えも、大事なのです」
「はい」
「婚礼香ですから」
「はい」
「祝う場へ出すものです。最初から黒札や留め札ばかりでは、香りを聞く前に心が硬くなります」
「でも、混じれば」
「混じらないように、あなたが見てくださっているのでしょう?」
よい言葉だった。
とてもよい言葉だった。
わたしの仕事を認めている。
わたしを責めていない。
場も和らぐ。
サイード様も頷く。
「ナディ殿の目は、必要なのでしょう。ただ、すべてを離しすぎると、合わせ香にならない」
合わせ香。
その言葉が、白い布のように棚へかかった。
合わせる。
結ぶ。
婚礼。
青壺と白香。
よい言葉が並ぶ。
でも、乾燥場で合わせるということは、混じるということでもある。
「香りを合わせたのではありません」
わたしは言った。
「効き目の違う風を、同じ棚に置いただけです」
また、場が止まった。
*
女主人が、手を叩いた。
一度だけ。
乾いた音だった。
「動かす」
その一言で、香読みたちが息を吐いた。
「白香の壺は上棚の右。青壺の香水は中棚の左。眠り草は二段上げて、風下へ布を垂らす。祈祷紙は西へ。目覚め葉は粉を立てるな」
女主人は、わたしを見た。
「ナディ。花弁を落とせ」
「はい」
わたしは花弁を落とす。
一枚。
二枚。
三枚。
棚の前。
壺の横。
祈祷紙の下。
花弁の滑りを見て、少しずつ位置を直す。
白香の下働きは戸惑いながら壺を動かす。
青壺の使いは、小壺の向きを変える。
若い香読みは、文句を言いながら布を垂らす。
リリア様は、何も言わずに見ていた。
サイード様も、何も言わなかった。
ただ、白香の壺が最初の場所から少し遠くなった時、彼の眉がわずかに動いた。
見栄えは落ちた。
白い壺、白い花、白い紙が一直線に並ばなくなった。
婚礼の棚としては、少し散った。
でも、風はよくなった。
床へ落ちる眠り草の重さが、白香の壺へ戻りにくくなった。
青壺の香水の湿りも、祈祷紙へ寄りにくい。
白花の甘さは、まだ少し危うい。
でも、さっきよりましだ。
「これでよいか」
女主人が聞いた。
「今は」
「今は、か」
「夕方には変わります」
「見ろ」
「はい」
*
昼までは、うまくいった。
白香の壺は軽い香りを保った。
青壺の香水は、薬に寄りすぎなかった。
白花は甘い。
眠り草は沈む。
目覚め葉は粉を立てない。
祈祷紙は乾いた。
見た目は少し散ったが、香りは悪くない。
若い香読みたちも、少し安心した顔をした。
リリア様は、サイード様へ小さく言った。
「ほら。離しても、きれいでしょう」
サイード様は答えた。
「あなたがいると、散ったものも整って見える」
その言葉で、リリア様は頬を染めた。
周囲の者たちが、見ないふりをして見る。
よい婚礼の空気。
青壺と白香の結び。
柔らかい妹。
白香の若い男。
物語のようだった。
わたしは、花弁を落とした。
花弁は、少し横へ滑った。
午後の風が変わり始めていた。
*
午後になると、外の湿りが戻った。
雨は降っていない。
けれど、南の庭で水を撒いたらしい。
白香の家の者が、来客前に砂を落ち着かせるために撒いた水だった。
悪いことではない。
庭の砂が舞えば、婚礼香に入る。
だから水を撒く。
正しい。
だが、その湿りが南下風戸から入った。
朝とは違う。
南下風戸は、湿りを抜くために開けていた。
でも、外が湿れば、今度は入ってくる。
風は、いつも同じ向きではない。
わたしは、腹側の鱗に冷えを感じた。
床が冷える。
南から湿りが来ている。
「南下風戸を閉めます」
わたしは言った。
「え、今?」
若い香読みが言う。
「白花がこもるわ」
「湿りが入っています」
「でも、北を開けると眠り草が」
「北は開けません。東の朝布を少し上げます」
「朝布は朝のものよ」
「今は東が乾いています」
言い合っている時間が惜しい。
わたしは、女主人を見た。
女主人は頷いた。
「やれ」
南下風戸を閉じる。
東の朝布を少し上げる。
西の砂除け網はそのまま。
白香の壺の蓋布を確認する。
乾いている。
よし。
青壺の香水の小壺。
口布が少し湿っている。
留め札。
わたしは札を取った。
リリア様が、こちらを見た。
「またですか」
声は柔らかい。
でも、少し疲れていた。
「はい」
「青壺の小壺ですよ」
「はい」
「私の家のものです」
「はい」
「白香の壺ではありません」
「はい」
「それでも?」
「湿っています」
リリア様は、少しだけ目を伏せた。
「ナディさんは、すべてを湿りで見ますね」
「乾燥場なので」
若い香読みが、少し噴き出しかけた。
女主人が咳払いした。
リリア様は笑わなかった。
サイード様が近づいてきた。
「青壺の香水なら、多少の湿りは本来のものでは?」
「壺の中なら」
「外布は?」
「別です」
「青壺のものでも?」
「はい」
わたしは、留め札を小壺へ結んだ。
留め札。
見るまで動かさない。
戻せる先を書く。
リリア様がその文字を見た。
「黒札ではないのですね」
「留め札です」
「黒札扱い?」
「はい」
リリア様の顔が、また少し硬くなった。
その硬さはすぐ消えた。
けれど、わたしは見た。
花弁の動きほどではない。
でも、人の顔にも、わずかな戻りがある。
*
小壺の試しは、夕方に行われた。
青壺の香水そのものは悪くない。
中身は使える。
問題は、口布だった。
南から入った湿りを拾い、さらに白花の甘さを少し持っていた。
この口布をそのまま使えば、青壺の香水は柔らかくなる。
婚礼香には、むしろよいと言う者もいた。
リリア様は、その香りを聞いて微笑んだ。
「とても優しい香りです」
サイード様も頷いた。
「白香にも合います」
若い香読みたちも、少し迷った。
確かに、香りはよい。
白花の甘さが、青壺の薬っぽさを和らげている。
場に出せば、好まれるかもしれない。
でも、わたしはその口布を見た。
湿った布。
南の庭水。
白花の甘さ。
青壺の香水。
それが口に触れている。
香りはよい。
けれど、何に戻せるのか。
「この口布は使えません」
わたしは言った。
「香りはよいのに?」
若い香読みが聞いた。
「はい」
「なぜ」
「何の香りか分からないからです」
リリア様が言った。
「青壺と白香の合わせ香です」
「壺の中で合わせていません」
「でも、結果として合っています」
「結果だけでは戻せません」
「戻す?」
「帳に戻せません」
わたしは、口布を指した。
「これは、青壺の香水布でも、白花布でも、庭水布でもありません。どれでもあり、どれでもありません」
サイード様が言った。
「婚礼香用として、新しく名をつければよいのでは」
名。
その言葉で、周囲が少し動いた。
新しい合わせ香。
青壺と白香の結び。
婚礼用の新しい香り。
それは、よい話に聞こえる。
リリア様の顔も、明るくなった。
「素敵です。偶然できたものでも、よい香りなら」
「駄目です」
わたしは言った。
今度は、はっきりと。
「名前をつければ、混じった理由が消えるわけではありません」
場が、また止まった。
リリア様の笑顔が、少しだけ消えた。
サイード様の目が細くなる。
女主人は、黙っていた。
黙って、わたしを見ていた。
続けろ、という目だった。
「新しい香りを作るなら、最初から分けて作ります。どの水、どの布、どの花、どの風で混ぜたかを書きます。これは違います。南の庭水が入って、白花の下風を受けて、青壺の口布で拾ったものです。よい香りでも、手順がありません」
リリア様が、静かに言った。
「手順がなければ、もう一度作れないから?」
「はい」
「もう一度作れない香りは、婚礼香にはできない?」
「はい」
「でも、婚礼は一度きりです」
その言葉は、強かった。
柔らかいのに、強かった。
一度きり。
婚礼。
その日のためだけの香り。
同じものは二度といらない。
そう言われれば、たしかに美しい。
若い香読みの一人が、少し頷きかけた。
サイード様も、リリア様を見ている。
白香の家の者たちも、その言葉を好んだ。
わたしは、口布を見た。
湿っている。
香りはよい。
でも、分からない。
「婚礼は一度でも」
わたしは言った。
「紙は残ります」
リリア様が黙った。
「香紙は、燃やすものもあります。でも、挟むものも、包むものも、神殿へ残るものもあります。一度きりの場でも、紙は後に残ります。何で作ったか分からないものを残すと、後で戻ってきます」
戻ってくる。
その言葉に、女主人が少しだけ頷いた。
薄香紙が戻った日のことを、工房の者は覚えている。
戻るものは怖い。
出した時にはきれいでも、戻ってきた時には信用を連れて帰ってくる。
悪い方の信用を。
「口布は留めます」
女主人が言った。
「香りの試しには使うな。記録して、別用途を探す」
「女主人」
リリア様が言った。
「本当に捨てるのですか」
「捨てるとは言っていない」
「では」
「戻せる先を書く」
女主人は、わたしを見た。
「ナディ」
「はい」
「この口布は、どこへ戻せる」
わたしは考えた。
青壺の香水布ではない。
白香の婚礼布でもない。
神殿紙には使えない。
薬師組にも無理。
でも、虫避け紙の外包みなら、使えるかもしれない。
香りの正確さより、外の臭いを和らげる方が大事なもの。
旅商人向けの外包み。
「旅袋用の外包みなら」
「理由」
「香りの階を問わない。肌へ直接触れない。薬師へ出さない。神殿へ出さない。婚礼へ出さない。外の臭い避けには使えるかもしれません」
女主人は頷いた。
「そう書け」
「はい」
札が増えた。
留め札。
青壺口布。
白花下風あり。
南庭水湿りあり。
婚礼不可。
神殿不可。
薬師不可。
旅袋外包み試し可。
長い。
とても長い。
でも、これで戻せる。
*
リリア様は、その後しばらく黙っていた。
サイード様も黙っていた。
白香の家の者たちは、少し不満そうだった。
青壺の使いは、困った顔をしていた。
香りはよかったからだ。
本当に、よかった。
わたしにも分かるくらい、よい香りだった。
柔らかく、白く、少し薬を離れ、場を明るくする。
リリア様に似た香りだった。
だからこそ、危ないと思った。
よい香りは、止めにくい。
悪い臭いなら、誰でも避ける。
腐った水なら、誰でも捨てる。
膿んだ布なら、誰でも嫌がる。
でも、よい香りは、人を近づける。
よい言葉も同じだ。
それに気づくと、少し寒かった。
*
作業が終わる頃、リリア様がわたしのそばへ来た。
「ナディさん」
「はい」
「あなたは、香りを信じないのですね」
わたしは、少し考えた。
「信じる、が分かりません」
「よい香りなら、よいものだと思いませんか」
「よい香りでも、使えないことがあります」
「寂しい考え方です」
「よく言われます」
リリア様は、笑った。
柔らかく。
でも、その笑いは昨日までと少し違った。
「私は、よいものは、よい形で使いたいです」
「はい」
「混じったから駄目、ではなく、混じったから新しくなることもあると思います」
「手順があれば」
「手順」
「はい」
「ナディさんは、何でも手順ですね」
「乾燥場なので」
リリア様は、また少しだけ笑った。
「サイード様は、あの香りを気に入ってくださいました」
「はい」
「白香の家でも、似たものを作れないか試すそうです」
わたしは手を止めた。
「試すなら、記録してください」
「ええ。もちろん」
「南庭水は入れないでください」
「入れません」
「白花下風も」
「入れません」
「青壺の口布も、湿ったまま使わないでください」
「分かっています」
リリア様の声が、少し硬くなった。
本当に少しだけ。
「ナディさんは、私が何も分かっていないと思っているのですね」
「そうではありません」
「では?」
「風と水は、分かっていても混じります」
リリア様は黙った。
その目が、わたしを見ていた。
柔らかい顔の奥で、何かが止まっている。
黒札を見た時のように。
留め札の下の字を見た時のように。
「そう」
リリア様は言った。
「では、気をつけます」
言葉は正しい。
でも、風は少し冷たかった。
*
その夜、乾燥場に残った札は五枚だった。
白香壺。
位置変更済み。
青壺香水。
中棚左。
祈祷紙。
西網乾燥後使用。
眠り草。
床二段上げ。
青壺口布。
白花下風あり。
南庭水湿りあり。
婚礼不可。
神殿不可。
薬師不可。
旅袋外包み試し可。
最後の札だけ、やたら長い。
若い下働きが言った。
「ナディさん」
「何」
「札が長いです」
「知ってる」
「読む前に香りが飛びそうです」
「それは困る」
「短くできませんか」
わたしは考えた。
青壺口布。
混じり風。
婚礼不可。
旅外包み可。
少し短くなった。
でも、何が混じったか分からなくなる。
南庭水。
白花下風。
青壺口布。
それを消すと、同じことがまた起きる。
「短くすると、戻ります」
「何が」
「同じ失敗」
若い下働きは嫌そうな顔をした。
「では、長いままで」
「長いままで」
女主人が、後ろから言った。
「ただし、控え帳へ写せ。札には要点だけ残せ」
「はい」
「ナディ」
「はい」
「今日のことは、控えに全部書け」
「全部ですか」
「全部だ。白香の壺の位置。青壺の小壺。南庭水。白花下風。リリア様の合わせ香案。サイード様の新名案。お前の不可判断。戻せる先」
「リリア様とサイード様のことも?」
「書け」
「よいのですか」
「よくないから書く」
女主人の声は低かった。
「人の言葉も、今日の風に入っている」
わたしは、顔を上げた。
「言葉も」
「そうだ。リリア様がよいと言った。サイード様が名をつければよいと言った。それで場が動いた。なら、それも風だ」
女主人は、乾燥場を見た。
「香りを動かすのは、風だけではない。人も動かす」
「はい」
「お前は、それも見ろ」
また仕事が増えた。
でも、たぶん必要だった。
*
控え帳へ書いた。
白香壺、当初上棚中央。
眠り草下風戻りあり。
南下風戸、午後より外湿り流入。
青壺香水口布、白花下風および南庭水湿りを拾う。
香り、良。
ただし手順不明。
婚礼香不可。
神殿不可。
薬師不可。
旅袋外包み試し可。
リリア様、合わせ香として評価。
サイード様、新名付与を提案。
女主人、不可判断。
ナディ、留め札。
控え帳へ書いていると、手が止まった。
香り、良。
不可。
この二つが、同じ行にある。
変な感じがした。
よい香りなのに、使えない。
きれいなのに、止める。
白いのに、黒札扱い。
柔らかいのに、危ない。
たぶん、これから何度もある。
そう思った。
*
今でも、わたしは魔法を使えない。
香りを留める秘術も知らない。
婚礼香の美しさも、リリア様ほどには語れない。
白香の家の面子も、サイード様の言う「よい名」の強さも、よく分からない。
でも、乾燥場に入ると、まず床を見る。
花弁を落とす。
風を見る。
壺の蓋布を見る。
紙の乾きを見る。
誰が何を、どこへ置きたがっているかを見る。
白い壺は、見える場所へ置かれたがる。
婚礼香は、きれいに並べられたがる。
よい香りは、名前をつけられたがる。
柔らかい言葉は、黒札を薄くしたがる。
それも、風なのだと思う。
香りを合わせたのではありません。
効き目の違う風を同じ棚に置いただけです。
そう言うと、また角が立つ。
だから、控え帳にはこう書いた。
合わせ香案。
手順不明。
留め札。
戻せる先、要確認。
黒札ではない。
でも、白札でもない。
よい香りだった。
でも、婚礼香にはしない。
その判断を残すために、今日も札は増えた。
風戸の横で、長い札が揺れている。
外では、白香の壺を載せた荷車が帰っていく。
リリア様の白い肩掛けも、サイード様の白い袖も、夕方の光の中ではきれいだった。
きれいなものは、よく見える。
だから、見えない湿りは、こちらで見ておかなければならない。
わたしは、床へもう一枚、花弁を落とした。
花弁は、まっすぐ落ちなかった。
やっぱり、今日の風はまだ戻っていた。




