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ラミア香紙工房 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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4/12

4枚目 香りを合わせたのではありません。効き目の違う風を同じ棚に置いただけです

 婚礼香は、美しい。


 そう言われている。


 白い花弁。


 甘い香油。


 清め水。


 薄い香紙。


 白い紐。


 白い壺。


 白い布。


 白い肩掛け。


 白いものばかりが並ぶ。


 だから、婚礼香の棚は、遠くから見ると清い。


 めでたい。


 やさしい。


 誰もが、そう言う。


 けれど、乾燥場の床から見ると違う。


 白い花弁は、湿る。


 白い壺の蓋布は、香りを拾う。


 白い紐は、水を抱える。


 白い香紙は、隣の草の重さを吸う。


 白いものは、汚れないのではない。


 汚れが見えにくいだけである。


 その日、乾燥場には白いものが多すぎた。


     *


「青壺と白香の合わせ香です」


 リリア様は、そう言った。


 声は明るかった。


 工房の入口に立つ姿も、明るかった。


 白い肩掛け。


 青壺の家の細い腕飾り。


 白香の家から贈られたという小さな香玉。


 その横に、サイード様がいた。


 白香の家の若い男。


 昨日よりも、少しだけ胸を張っている。


 白香の家の壺を三つ。


 青壺の家の香水を二つ。


 神殿へ添える祈祷紙。


 薬師組へ回す眠り草の小包。


 そして、香紙工房の薄香紙。


 それらを合わせて、婚礼用の香紙を作る。


 白香の家と、青壺の家と、香紙工房。


 三つの名が並ぶ。


 きれいな話だった。


 帳の上では。


「今日は、少し柔らかい香りにしたいのです」


 リリア様は言った。


「白香だけでは清すぎる。青壺だけでは少し薬に寄りすぎる。香紙工房の紙で受ければ、きっとよい形になります」


 若い香読みたちが頷いた。


 白香の下働きたちも、嬉しそうに壺を運ぶ。


 青壺の使いは、香水の小壺を丁寧に棚へ置いた。


 サイード様が言う。


「白香の名で神殿へ出し、青壺の香水で場を整え、香紙工房の紙で残す。よい婚礼の品になるでしょう」


 よい婚礼の品。


 それは、たぶん本当だった。


 香りだけを見れば。


 場だけを見れば。


 人の顔だけを見れば。


 けれど、わたしは床を見ていた。


 床の近くに、眠り草の重い風があった。


     *


 女主人は、朝から眉間に皺を寄せていた。


「ナディ」


「はい」


「南下風戸は」


「指二本分です」


「北上風戸は」


「閉じ気味です」


「白花は」


「上棚です」


「眠り草は」


「本来なら別室です」


 女主人がこちらを見た。


「本来なら、か」


「はい」


「今日は別室が埋まっている」


「はい」


「だから」


「同じ乾燥場にあります」


「言い方」


「同じ乾燥場に、置かれています」


「よろしい」


 よろしい。


 ではない。


 まったくよくない。


 眠り草と婚礼香の白花は、同じ風に置かない。


 目覚め葉と白香の清め水も、近づけない。


 青壺の香水は、薬に寄るものと、香に寄るものを分ける。


 湿った蓋布は、どの壺にもかけっぱなしにしない。


 乾き紐と清め紐は分ける。


 風が戻る棚には、見本紙を置かない。


 それが、乾燥場の手順だった。


 でも、今日は客が多い。


 壺が多い。


 見せるものが多い。


 白いものを白く並べたい人が多い。


 そして、白いものは、たいてい上へ置かれる。


 人の目に入りやすい場所へ。


 客に見えやすい棚へ。


 そこが、風として正しいかどうかは、別の話だった。


     *


 わたしは、花弁を一枚落とした。


 白い花弁。


 薄い。


 軽い。


 落とすと、まっすぐ下へ行かず、途中で少し戻る。


 北から入った風が、棚の奥で止まり、床へ落ちて、南下風戸へ抜ける前に白香の壺の方へ曲がっていた。


 悪い。


 とても悪い。


 白香の壺の下には、青壺の香水がある。


 その横には、眠り草の小包。


 さらにその奥には、乾ききっていない祈祷紙。


 それぞれは、正しいものだ。


 白香の壺は正しい。


 青壺の香水も正しい。


 眠り草も正しい。


 祈祷紙も正しい。


 でも、正しいものを同じ風へ置けば、全部が正しいままとは限らない。


「その棚は使えません」


 わたしは言った。


 若い香読みが、すぐに顔を上げた。


「また?」


「はい」


「昨日、留め札を作ったでしょう」


「はい」


「今日は最初から留めるの?」


「置く前に止めます」


 若い香読みは、少し困った顔をした。


 その顔は、怒りではない。


 疲れである。


 分かる。


 わたしも疲れている。


 止めるたびに、手順が増える。


 札が増える。


 言葉が増える。


 客前での説明も増える。


 でも、棚の風は変わらない。


「ナディさん」


 リリア様が近づいてきた。


 白い肩掛けが揺れる。


 香玉が小さく鳴る。


「その棚では、何がいけないのですか」


「風が戻ります」


「戻る?」


「眠り草の重い風が、床へ落ちて、白香の壺の方へ戻ります」


 リリア様は、棚を見た。


 それから、壺を見た。


 最後に、わたしを見た。


「でも、眠り草は包まれています」


「はい」


「白香の壺には蓋があります」


「はい」


「青壺の香水も閉じています」


「はい」


「なら、少しの間なら大丈夫ではありませんか」


「湿りがあります」


 わたしは、祈祷紙を指した。


「祈祷紙が乾ききっていません」


「神殿の紙です。清いものです」


「湿っています」


 また、空気が硬くなった。


 清いもの。


 湿ったもの。


 それは同じではない。


 でも、その違いを言うと、清さを疑ったように聞こえる。


 リリア様は、すぐに微笑んだ。


「ナディさんは、清さの話ではなく、乾きの話をしているのですよね」


「はい」


「神殿の紙が悪いのではなく、香りを受けやすい状態だと」


「はい」


「では、乾ききるまで少し離せばよいのですね」


 その言い方なら、通る。


 神殿の使いも怒らない。


 白香の家の者も不快にならない。


 青壺の使いも責められたと思わない。


 リリア様は、本当にうまい。


 でも、問題はそこだけではない。


「離すだけでは足りません」


 わたしは言った。


 リリア様の笑みが、ほんの少しだけ止まった。


「ほかにも?」


「はい」


 わたしは、棚の位置を指した。


「白香の壺と、青壺の香水を同じ段へ置かないでください。眠り草は床から二段上げます。祈祷紙は乾くまで西の砂除け網の近くへ。白花は上棚のままですが、目覚め葉の粉と同じ風にしません」


 若い香読みが、額に手を当てた。


「全部動かすの?」


「はい」


「もう並べたのに」


「並べ方が、香りではなく見栄えです」


 しまった。


 言ってから思った。


 でも、遅かった。


 場が止まった。


 サイード様が、わたしを見た。


 白香の下働きたちも見る。


 青壺の使いも見る。


 リリア様は、困った顔をした。


 困った顔。


 悲しそうな顔。


 場を壊された人の顔。


 その顔を見た時、周囲の空気は、わたしではなくリリア様へ寄る。


「ナディさん」


 リリア様は、柔らかく言った。


「見栄えも、大事なのです」


「はい」


「婚礼香ですから」


「はい」


「祝う場へ出すものです。最初から黒札や留め札ばかりでは、香りを聞く前に心が硬くなります」


「でも、混じれば」


「混じらないように、あなたが見てくださっているのでしょう?」


 よい言葉だった。


 とてもよい言葉だった。


 わたしの仕事を認めている。


 わたしを責めていない。


 場も和らぐ。


 サイード様も頷く。


「ナディ殿の目は、必要なのでしょう。ただ、すべてを離しすぎると、合わせ香にならない」


 合わせ香。


 その言葉が、白い布のように棚へかかった。


 合わせる。


 結ぶ。


 婚礼。


 青壺と白香。


 よい言葉が並ぶ。


 でも、乾燥場で合わせるということは、混じるということでもある。


「香りを合わせたのではありません」


 わたしは言った。


「効き目の違う風を、同じ棚に置いただけです」


 また、場が止まった。


     *


 女主人が、手を叩いた。


 一度だけ。


 乾いた音だった。


「動かす」


 その一言で、香読みたちが息を吐いた。


「白香の壺は上棚の右。青壺の香水は中棚の左。眠り草は二段上げて、風下へ布を垂らす。祈祷紙は西へ。目覚め葉は粉を立てるな」


 女主人は、わたしを見た。


「ナディ。花弁を落とせ」


「はい」


 わたしは花弁を落とす。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 棚の前。


 壺の横。


 祈祷紙の下。


 花弁の滑りを見て、少しずつ位置を直す。


 白香の下働きは戸惑いながら壺を動かす。


 青壺の使いは、小壺の向きを変える。


 若い香読みは、文句を言いながら布を垂らす。


 リリア様は、何も言わずに見ていた。


 サイード様も、何も言わなかった。


 ただ、白香の壺が最初の場所から少し遠くなった時、彼の眉がわずかに動いた。


 見栄えは落ちた。


 白い壺、白い花、白い紙が一直線に並ばなくなった。


 婚礼の棚としては、少し散った。


 でも、風はよくなった。


 床へ落ちる眠り草の重さが、白香の壺へ戻りにくくなった。


 青壺の香水の湿りも、祈祷紙へ寄りにくい。


 白花の甘さは、まだ少し危うい。


 でも、さっきよりましだ。


「これでよいか」


 女主人が聞いた。


「今は」


「今は、か」


「夕方には変わります」


「見ろ」


「はい」


     *


 昼までは、うまくいった。


 白香の壺は軽い香りを保った。


 青壺の香水は、薬に寄りすぎなかった。


 白花は甘い。


 眠り草は沈む。


 目覚め葉は粉を立てない。


 祈祷紙は乾いた。


 見た目は少し散ったが、香りは悪くない。


 若い香読みたちも、少し安心した顔をした。


 リリア様は、サイード様へ小さく言った。


「ほら。離しても、きれいでしょう」


 サイード様は答えた。


「あなたがいると、散ったものも整って見える」


 その言葉で、リリア様は頬を染めた。


 周囲の者たちが、見ないふりをして見る。


 よい婚礼の空気。


 青壺と白香の結び。


 柔らかい妹。


 白香の若い男。


 物語のようだった。


 わたしは、花弁を落とした。


 花弁は、少し横へ滑った。


 午後の風が変わり始めていた。


     *


 午後になると、外の湿りが戻った。


 雨は降っていない。


 けれど、南の庭で水を撒いたらしい。


 白香の家の者が、来客前に砂を落ち着かせるために撒いた水だった。


 悪いことではない。


 庭の砂が舞えば、婚礼香に入る。


 だから水を撒く。


 正しい。


 だが、その湿りが南下風戸から入った。


 朝とは違う。


 南下風戸は、湿りを抜くために開けていた。


 でも、外が湿れば、今度は入ってくる。


 風は、いつも同じ向きではない。


 わたしは、腹側の鱗に冷えを感じた。


 床が冷える。


 南から湿りが来ている。


「南下風戸を閉めます」


 わたしは言った。


「え、今?」


 若い香読みが言う。


「白花がこもるわ」


「湿りが入っています」


「でも、北を開けると眠り草が」


「北は開けません。東の朝布を少し上げます」


「朝布は朝のものよ」


「今は東が乾いています」


 言い合っている時間が惜しい。


 わたしは、女主人を見た。


 女主人は頷いた。


「やれ」


 南下風戸を閉じる。


 東の朝布を少し上げる。


 西の砂除け網はそのまま。


 白香の壺の蓋布を確認する。


 乾いている。


 よし。


 青壺の香水の小壺。


 口布が少し湿っている。


 留め札。


 わたしは札を取った。


 リリア様が、こちらを見た。


「またですか」


 声は柔らかい。


 でも、少し疲れていた。


「はい」


「青壺の小壺ですよ」


「はい」


「私の家のものです」


「はい」


「白香の壺ではありません」


「はい」


「それでも?」


「湿っています」


 リリア様は、少しだけ目を伏せた。


「ナディさんは、すべてを湿りで見ますね」


「乾燥場なので」


 若い香読みが、少し噴き出しかけた。


 女主人が咳払いした。


 リリア様は笑わなかった。


 サイード様が近づいてきた。


「青壺の香水なら、多少の湿りは本来のものでは?」


「壺の中なら」


「外布は?」


「別です」


「青壺のものでも?」


「はい」


 わたしは、留め札を小壺へ結んだ。


 留め札。


 見るまで動かさない。


 戻せる先を書く。


 リリア様がその文字を見た。


「黒札ではないのですね」


「留め札です」


「黒札扱い?」


「はい」


 リリア様の顔が、また少し硬くなった。


 その硬さはすぐ消えた。


 けれど、わたしは見た。


 花弁の動きほどではない。


 でも、人の顔にも、わずかな戻りがある。


     *


 小壺の試しは、夕方に行われた。


 青壺の香水そのものは悪くない。


 中身は使える。


 問題は、口布だった。


 南から入った湿りを拾い、さらに白花の甘さを少し持っていた。


 この口布をそのまま使えば、青壺の香水は柔らかくなる。


 婚礼香には、むしろよいと言う者もいた。


 リリア様は、その香りを聞いて微笑んだ。


「とても優しい香りです」


 サイード様も頷いた。


「白香にも合います」


 若い香読みたちも、少し迷った。


 確かに、香りはよい。


 白花の甘さが、青壺の薬っぽさを和らげている。


 場に出せば、好まれるかもしれない。


 でも、わたしはその口布を見た。


 湿った布。


 南の庭水。


 白花の甘さ。


 青壺の香水。


 それが口に触れている。


 香りはよい。


 けれど、何に戻せるのか。


「この口布は使えません」


 わたしは言った。


「香りはよいのに?」


 若い香読みが聞いた。


「はい」


「なぜ」


「何の香りか分からないからです」


 リリア様が言った。


「青壺と白香の合わせ香です」


「壺の中で合わせていません」


「でも、結果として合っています」


「結果だけでは戻せません」


「戻す?」


「帳に戻せません」


 わたしは、口布を指した。


「これは、青壺の香水布でも、白花布でも、庭水布でもありません。どれでもあり、どれでもありません」


 サイード様が言った。


「婚礼香用として、新しく名をつければよいのでは」


 名。


 その言葉で、周囲が少し動いた。


 新しい合わせ香。


 青壺と白香の結び。


 婚礼用の新しい香り。


 それは、よい話に聞こえる。


 リリア様の顔も、明るくなった。


「素敵です。偶然できたものでも、よい香りなら」


「駄目です」


 わたしは言った。


 今度は、はっきりと。


「名前をつければ、混じった理由が消えるわけではありません」


 場が、また止まった。


 リリア様の笑顔が、少しだけ消えた。


 サイード様の目が細くなる。


 女主人は、黙っていた。


 黙って、わたしを見ていた。


 続けろ、という目だった。


「新しい香りを作るなら、最初から分けて作ります。どの水、どの布、どの花、どの風で混ぜたかを書きます。これは違います。南の庭水が入って、白花の下風を受けて、青壺の口布で拾ったものです。よい香りでも、手順がありません」


 リリア様が、静かに言った。


「手順がなければ、もう一度作れないから?」


「はい」


「もう一度作れない香りは、婚礼香にはできない?」


「はい」


「でも、婚礼は一度きりです」


 その言葉は、強かった。


 柔らかいのに、強かった。


 一度きり。


 婚礼。


 その日のためだけの香り。


 同じものは二度といらない。


 そう言われれば、たしかに美しい。


 若い香読みの一人が、少し頷きかけた。


 サイード様も、リリア様を見ている。


 白香の家の者たちも、その言葉を好んだ。


 わたしは、口布を見た。


 湿っている。


 香りはよい。


 でも、分からない。


「婚礼は一度でも」


 わたしは言った。


「紙は残ります」


 リリア様が黙った。


「香紙は、燃やすものもあります。でも、挟むものも、包むものも、神殿へ残るものもあります。一度きりの場でも、紙は後に残ります。何で作ったか分からないものを残すと、後で戻ってきます」


 戻ってくる。


 その言葉に、女主人が少しだけ頷いた。


 薄香紙が戻った日のことを、工房の者は覚えている。


 戻るものは怖い。


 出した時にはきれいでも、戻ってきた時には信用を連れて帰ってくる。


 悪い方の信用を。


「口布は留めます」


 女主人が言った。


「香りの試しには使うな。記録して、別用途を探す」


「女主人」


 リリア様が言った。


「本当に捨てるのですか」


「捨てるとは言っていない」


「では」


「戻せる先を書く」


 女主人は、わたしを見た。


「ナディ」


「はい」


「この口布は、どこへ戻せる」


 わたしは考えた。


 青壺の香水布ではない。


 白香の婚礼布でもない。


 神殿紙には使えない。


 薬師組にも無理。


 でも、虫避け紙の外包みなら、使えるかもしれない。


 香りの正確さより、外の臭いを和らげる方が大事なもの。


 旅商人向けの外包み。


「旅袋用の外包みなら」


「理由」


「香りの階を問わない。肌へ直接触れない。薬師へ出さない。神殿へ出さない。婚礼へ出さない。外の臭い避けには使えるかもしれません」


 女主人は頷いた。


「そう書け」


「はい」


 札が増えた。


 留め札。


 青壺口布。


 白花下風あり。


 南庭水湿りあり。


 婚礼不可。


 神殿不可。


 薬師不可。


 旅袋外包み試し可。


 長い。


 とても長い。


 でも、これで戻せる。


     *


 リリア様は、その後しばらく黙っていた。


 サイード様も黙っていた。


 白香の家の者たちは、少し不満そうだった。


 青壺の使いは、困った顔をしていた。


 香りはよかったからだ。


 本当に、よかった。


 わたしにも分かるくらい、よい香りだった。


 柔らかく、白く、少し薬を離れ、場を明るくする。


 リリア様に似た香りだった。


 だからこそ、危ないと思った。


 よい香りは、止めにくい。


 悪い臭いなら、誰でも避ける。


 腐った水なら、誰でも捨てる。


 膿んだ布なら、誰でも嫌がる。


 でも、よい香りは、人を近づける。


 よい言葉も同じだ。


 それに気づくと、少し寒かった。


     *


 作業が終わる頃、リリア様がわたしのそばへ来た。


「ナディさん」


「はい」


「あなたは、香りを信じないのですね」


 わたしは、少し考えた。


「信じる、が分かりません」


「よい香りなら、よいものだと思いませんか」


「よい香りでも、使えないことがあります」


「寂しい考え方です」


「よく言われます」


 リリア様は、笑った。


 柔らかく。


 でも、その笑いは昨日までと少し違った。


「私は、よいものは、よい形で使いたいです」


「はい」


「混じったから駄目、ではなく、混じったから新しくなることもあると思います」


「手順があれば」


「手順」


「はい」


「ナディさんは、何でも手順ですね」


「乾燥場なので」


 リリア様は、また少しだけ笑った。


「サイード様は、あの香りを気に入ってくださいました」


「はい」


「白香の家でも、似たものを作れないか試すそうです」


 わたしは手を止めた。


「試すなら、記録してください」


「ええ。もちろん」


「南庭水は入れないでください」


「入れません」


「白花下風も」


「入れません」


「青壺の口布も、湿ったまま使わないでください」


「分かっています」


 リリア様の声が、少し硬くなった。


 本当に少しだけ。


「ナディさんは、私が何も分かっていないと思っているのですね」


「そうではありません」


「では?」


「風と水は、分かっていても混じります」


 リリア様は黙った。


 その目が、わたしを見ていた。


 柔らかい顔の奥で、何かが止まっている。


 黒札を見た時のように。


 留め札の下の字を見た時のように。


「そう」


 リリア様は言った。


「では、気をつけます」


 言葉は正しい。


 でも、風は少し冷たかった。


     *


 その夜、乾燥場に残った札は五枚だった。


 白香壺。


 位置変更済み。


 青壺香水。


 中棚左。


 祈祷紙。


 西網乾燥後使用。


 眠り草。


 床二段上げ。


 青壺口布。


 白花下風あり。


 南庭水湿りあり。


 婚礼不可。


 神殿不可。


 薬師不可。


 旅袋外包み試し可。


 最後の札だけ、やたら長い。


 若い下働きが言った。


「ナディさん」


「何」


「札が長いです」


「知ってる」


「読む前に香りが飛びそうです」


「それは困る」


「短くできませんか」


 わたしは考えた。


 青壺口布。


 混じり風。


 婚礼不可。


 旅外包み可。


 少し短くなった。


 でも、何が混じったか分からなくなる。


 南庭水。


 白花下風。


 青壺口布。


 それを消すと、同じことがまた起きる。


「短くすると、戻ります」


「何が」


「同じ失敗」


 若い下働きは嫌そうな顔をした。


「では、長いままで」


「長いままで」


 女主人が、後ろから言った。


「ただし、控え帳へ写せ。札には要点だけ残せ」


「はい」


「ナディ」


「はい」


「今日のことは、控えに全部書け」


「全部ですか」


「全部だ。白香の壺の位置。青壺の小壺。南庭水。白花下風。リリア様の合わせ香案。サイード様の新名案。お前の不可判断。戻せる先」


「リリア様とサイード様のことも?」


「書け」


「よいのですか」


「よくないから書く」


 女主人の声は低かった。


「人の言葉も、今日の風に入っている」


 わたしは、顔を上げた。


「言葉も」


「そうだ。リリア様がよいと言った。サイード様が名をつければよいと言った。それで場が動いた。なら、それも風だ」


 女主人は、乾燥場を見た。


「香りを動かすのは、風だけではない。人も動かす」


「はい」


「お前は、それも見ろ」


 また仕事が増えた。


 でも、たぶん必要だった。


     *


 控え帳へ書いた。


 白香壺、当初上棚中央。


 眠り草下風戻りあり。


 南下風戸、午後より外湿り流入。


 青壺香水口布、白花下風および南庭水湿りを拾う。


 香り、良。


 ただし手順不明。


 婚礼香不可。


 神殿不可。


 薬師不可。


 旅袋外包み試し可。


 リリア様、合わせ香として評価。


 サイード様、新名付与を提案。


 女主人、不可判断。


 ナディ、留め札。


 控え帳へ書いていると、手が止まった。


 香り、良。


 不可。


 この二つが、同じ行にある。


 変な感じがした。


 よい香りなのに、使えない。


 きれいなのに、止める。


 白いのに、黒札扱い。


 柔らかいのに、危ない。


 たぶん、これから何度もある。


 そう思った。


     *


 今でも、わたしは魔法を使えない。


 香りを留める秘術も知らない。


 婚礼香の美しさも、リリア様ほどには語れない。


 白香の家の面子も、サイード様の言う「よい名」の強さも、よく分からない。


 でも、乾燥場に入ると、まず床を見る。


 花弁を落とす。


 風を見る。


 壺の蓋布を見る。


 紙の乾きを見る。


 誰が何を、どこへ置きたがっているかを見る。


 白い壺は、見える場所へ置かれたがる。


 婚礼香は、きれいに並べられたがる。


 よい香りは、名前をつけられたがる。


 柔らかい言葉は、黒札を薄くしたがる。


 それも、風なのだと思う。


 香りを合わせたのではありません。


 効き目の違う風を同じ棚に置いただけです。


 そう言うと、また角が立つ。


 だから、控え帳にはこう書いた。


 合わせ香案。


 手順不明。


 留め札。


 戻せる先、要確認。


 黒札ではない。


 でも、白札でもない。


 よい香りだった。


 でも、婚礼香にはしない。


 その判断を残すために、今日も札は増えた。


 風戸の横で、長い札が揺れている。


 外では、白香の壺を載せた荷車が帰っていく。


 リリア様の白い肩掛けも、サイード様の白い袖も、夕方の光の中ではきれいだった。


 きれいなものは、よく見える。


 だから、見えない湿りは、こちらで見ておかなければならない。


 わたしは、床へもう一枚、花弁を落とした。


 花弁は、まっすぐ落ちなかった。


 やっぱり、今日の風はまだ戻っていた。

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