↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラミア香紙工房 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/12

3枚目 場を和らげたのではありません。黒札の意味が薄まっただけです

 黒札は、怖い。


 それは、正しい。


 白い壺に黒い札が結ばれていれば、誰でも見る。


 白い紙束に黒い札が置かれていれば、誰でも手を止める。


 婚礼香の棚に黒札があれば、香読みも、下働きも、客も、嫌な顔をする。


 それでいい。


 黒札は、嫌な顔をさせるための札だからだ。


 毒ではない。


 汚れとも限らない。


 捨てるものとも限らない。


 ただ、今は使ってはいけない。


 分からないから止める。


 混じったかもしれないから止める。


 戻せるかどうか、見るまで止める。


 そのための黒だった。


 だから、黒札は怖くてよい。


 そう思っていた。


 けれど、リリア様は違った。


     *


「黒札、という呼び方は、少し強いと思うのです」


 リリア様は、乾燥場の入口でそう言った。


 声は柔らかい。


 白香の家のサイード様も隣にいる。


 その後ろには、白香の家から来た下働きが二人。


 青壺の家の使いが一人。


 香紙工房の若い香読みが三人。


 みんな、手は動かしている。


 けれど、耳だけはこちらを向いている。


 わたしは、風戸の紐を持ったまま止まった。


 また、この沈黙だ。


 最近、乾燥場ではよくこれが起きる。


 何かが混じる前に止めると、空気が止まる。


 空気が止まると、誰かが言葉を置く。


 その言葉が、香りより先に場を動かす。


 リリア様は、黒札を指先でつまんだ。


 わたしが昨日、湿った蓋布のそばへ吊った札である。


 黒い布。


 小さく、太い。


 遠くからでも分かる。


「黒という色は、どうしても毒や汚れを思わせます」


 サイード様が頷いた。


「白香の家の者も、少し驚いていました」


 少し。


 便利な言葉だと思った。


 昨日、白香の家の年配の女はかなり驚いていた。


 サイード様も眉を寄せていた。


 下働きたちは、水壺から一歩下がった。


 それを、少し、と言える。


 リリア様は、場を軽くする言葉を知っている。


「黒札の意味は、ナディさんのおかげで分かりました」


 リリア様は言った。


「毒ではなく、確認が必要なもの。まだ用途を決めてはいけないもの。そうですよね」


「はい」


「でしたら、確認札、ではいけませんか」


 乾燥場の空気が、少し緩んだ。


 確認札。


 黒札より柔らかい。


 怖くない。


 客前でも言いやすい。


 白い壺に結んでも、毒には見えにくい。


 若い香読みが小さく頷いた。


「確認札なら、神殿にも言いやすいですね」


「白香の家にも通しやすい」


 別の者も言った。


 サイード様は、リリア様を見た。


「よい言い換えです」


 リリア様は、少し恥ずかしそうに目を伏せた。


 場が和らぐ。


 本当に和らぐ。


 さっきまで、黒札という言葉で硬くなっていた空気が、確認札という言葉で戻っていく。


 紙を返す手が軽くなる。


 香草を広げる手が動く。


 白い花弁を壺へ移す音が戻る。


 わたしだけが、黒札を見ていた。


「ナディ」


 女主人が言った。


「お前はどう思う」


「黒札は、黒札です」


 わたしは答えた。


 場が、また止まった。


 言い方。


 たぶん、また言い方が悪い。


 でも、確認札では足りないと思った。


「確認札では駄目なのか」


 女主人が聞いた。


「確認するだけなら、駄目です」


「どういう意味だ」


「黒札は、止める札です」


 わたしは、黒い布を見た。


「確認するまで、動かさない。使わない。混ぜない。乾燥場へ戻さない。風上へ置かない。白札や青札に戻さない。そのための札です」


 リリア様が、柔らかく笑った。


「もちろん、止める意味も含めての確認です」


「含めると、抜けます」


 言った後で、しまったと思った。


 リリア様の笑みが、ほんの少し止まった。


「抜ける?」


「はい」


 わたしは、言葉を探した。


 風のことなら言える。


 床の冷えなら言える。


 蓋布の湿りなら言える。


 でも、言葉のことは難しい。


「湿った蓋布に香りが移る時と、似ています」


 わたしは言った。


「最初は、少しだけです。でも、置いておくと、そこから抜けます」


 サイード様が眉を寄せた。


「言葉から、意味が抜けると?」


「はい」


 リリア様は、少し困った顔をした。


「ナディさんは、本当に正直ですね」


 まただ。


 正直。


 それは、よい言葉なのだと思う。


 でも、その言葉を置かれると、わたしの言っていることは少し横へ流れる。


 黒札の話ではなく、わたしの言い方の話になる。


 わたしは、風戸の紐を握り直した。


 床の近くを、薄い風が通っている。


 南の下風戸は指二本分。


 北の上風戸は三分の一。


 東の朝布は半分。


 今日の風は、やや戻る。


 リリア様の言葉も、少し戻る。


 まっすぐ進まず、場の中を回ってから、わたしの足元へ来る。


 そう感じた。


     *


 確認札という呼び方は、その日のうちに広がった。


 若い香読みが言う。


「これは確認札へ」


 下働きが言う。


「確認棚へ置きます」


 白香の下働きが言う。


「確認なら、こちらで見てもよろしいですか」


 神殿の使いは、黒札と言われるより安心した顔をした。


 女主人は最初、黙っていた。


 けれど、何度か聞いた後で言った。


「帳には黒札と書け」


 わたしは少し安心した。


 帳には黒札。


 口では確認札。


 それならよいのかもしれない。


 そう思おうとした。


 だが、夕方にすぐ分かった。


 よくなかった。


     *


 夕方、乾燥場には三つの確認札があった。


 一つ目。


 湿った蓋布。


 清め水で拭いた後、まだ乾いていないもの。


 二つ目。


 白花の浅皿の近くに置かれていた小布。


 香油を拾っているかもしれないもの。


 三つ目。


 眠り草の籠の横に置かれていた薄香紙の端束。


 これが問題だった。


 薄香紙の端束は、神殿へ納める本束ではない。


 端を切り揃えた時に出る、小さな紙である。


 香りの試しに使う。


 包みの内側へ挟む。


 客へ見せる見本にする。


 値は低い。


 でも、紙である。


 風を拾う。


 香りを持つ。


 水を嫌う。


 わたしは、それを黒札へ回したつもりだった。


 眠り草の下風に入っていたからだ。


 けれど、若い下働きは、それを確認棚へ置いた。


 確認棚。


 それは、本来、香読みが後で見るものを置く棚である。


 止める棚ではない。


 香読みが手の空いた時に確認する。


 問題がなければ戻す。


 そういう棚だった。


 黒札の置き場ではない。


「そこではありません」


 わたしは言った。


 若い下働きが振り返る。


「確認札ですよね」


「黒札です」


「でも、リリア様が確認札って」


「口ではそう言っても、置き場は黒札です」


「同じじゃないんですか」


「違います」


 わたしは、端束へ近づいた。


 下働きは困った顔をした。


「確認棚なら、香読み様が後で見ます」


「後ででは遅いです」


「でも、これは端紙です」


「端紙でも、香りを拾います」


「見本に使うだけです」


「見本だからです」


 見本は、怖い。


 売り物ではない。


 だから軽く扱われる。


 けれど、見本は人に見せる。


 人の前へ出る。


 客の手に渡ることもある。


 見本の香りが違えば、本束の香りもそうだと思われる。


 薄香紙そのものが悪いと見られる。


 小さい紙ほど、遠くへ行く。


 わたしは端束を持とうとした。


 その時、リリア様の声がした。


「ナディさん」


 柔らかい声。


 場がまた、そちらを向く。


「確認棚へ置いたなら、香読みの方が見てくださるのでしょう?」


「はい」


「でしたら、いったんお任せしてもよいのではありませんか」


「黒札のものは、任せる前に離します」


「でも、端紙ですよね」


 リリア様は、わたしを責めていない顔で言った。


「本束ではありません。皆さんも、急いでいます。全部を強く止めてしまうと、工房が回らなくなってしまいます」


 正しい。


 忙しい。


 全部を止めれば、工房は回らない。


 わたしも、それは分かる。


 でも、黒札は全部につけるものではない。


 止める必要があるものにつける。


 その一つを、端紙だからと戻すと、黒札の意味が薄くなる。


「一枚、試します」


 わたしは言った。


 リリア様は少しだけ首を傾げた。


「今ですか?」


「今です」


 女主人がこちらを見た。


「やれ」


 その一言で、場が決まった。


     *


 試しは簡単だった。


 同じ端紙を二枚。


 一枚は、黒札をつけた端束から。


 一枚は、白花の棚にあった未使用の端紙から。


 どちらも、乾いた皿へ置く。


 そこへ、目覚め葉の粉をほんの少し落とす。


 目覚め葉の粉は鋭い。


 香りが重い紙に触れると、立ち方が鈍る。


 香読みなら分かる。


 わたしには、香りの細かい階は分からない。


 でも、粉の動きなら分かる。


 未使用の端紙の上では、粉は細く広がった。


 黒札の端紙の上では、粉が少しだけ固まった。


 湿っているわけではない。


 濡れてもいない。


 でも、眠り草の重さを拾っている。


 粉が、紙の上で軽くない。


 若い香読みが顔を寄せた。


 黙る。


 別の香読みも見る。


 白香の下働きも見る。


 サイード様も見る。


 リリア様は、少しだけ目を細めた。


「香りが、違いますね」


 リリア様が言った。


 その声も、柔らかい。


 けれど、今度は少し硬さが混じっていた。


「はい」


 わたしは答えた。


「端紙でも、拾います」


 女主人が端紙を取り上げ、鼻へ寄せた。


「眠り草だな」


「はい」


「目覚め葉の見本には使えない」


「はい」


「白花の見本にも使えない」


「はい」


「包み紙なら」


「眠り草用なら、使えるかもしれません」


「なら、捨てるな」


「はい」


 女主人は、黒札の端束を別の籠へ移させた。


 籠には新しい札がついた。


 眠り草用端紙。


 白花不可。


 目覚め葉不可。


 包み内側のみ。


 黒札は外されない。


 その上に、小さく用途が書き足された。


 これならよい。


 黒札は、捨てる札ではない。


 使う前に分ける札だ。


 分けた後で、使える場所が見つかるなら使う。


 それでよい。


     *


 その後、リリア様はわたしへ近づいてきた。


「ナディさん」


「はい」


「先ほどは、私の言い方が足りませんでしたね」


 そう言われて、わたしは少し驚いた。


 リリア様は困ったように笑う。


「確認札と言えば、皆さんが怖がらずに済むと思ったのです」


「はい」


「でも、怖がらないと止まらないものもあるのですね」


 わたしは、黒札を見た。


「はい」


「難しいですね」


「はい」


「では、こうしましょう」


 リリア様は、近くにあった薄い札板を取った。


 そこへ、若い香読みから筆を借りて書く。


 確認札。


 その下に、小さく。


 黒札扱い。


 使用停止。


 用途決定まで移動不可。


 リリア様の字はきれいだった。


 わたしの札より、ずっと見やすい。


「これなら、どうでしょう」


 柔らかい名。


 強い意味。


 そういう札だった。


 場の者たちが頷く。


 サイード様も言った。


「これなら、客前にも出せる」


 女主人は札を見た。


「帳には黒札と書く」


「はい」


 リリア様は頷いた。


「ただ、客前では確認札と」


 女主人は少し考えた。


「ナディ」


「はい」


「どう見る」


 わたしは札を見た。


 確認札。


 黒札扱い。


 使用停止。


 用途決定まで移動不可。


 言葉は柔らかい。


 でも、意味は残っている。


 黒札扱いと書いてある。


 使用停止と書いてある。


 移動不可とも書いてある。


 これなら、たぶん抜けにくい。


「使えます」


 わたしは言った。


「ただし、黒札扱いの字を消さないなら」


 リリア様は、ほんの少し笑った。


「消しません」


 その笑顔は、きれいだった。


 けれど、わたしは安心しきれなかった。


 なぜかは分からない。


 たぶん、風と同じだ。


 今は通っている。


 でも、明日も同じとは限らない。


     *


 確認札は、その日から使われるようになった。


 ただし、乾燥場の中では、黒札扱いと読む。


 口では確認札。


 帳では黒札。


 札板には両方。


 面倒になった。


 けれど、少しだけよくなった。


 客前でいきなり黒札と言わずに済む。


 神殿の使いも、白香の家の者も、最初の一歩で下がらない。


 その代わり、乾燥場の者は、札の下の字まで読む必要ができた。


 確認だけか。


 使用停止か。


 移動不可か。


 用途決定待ちか。


 同じ確認札でも、中身が違う。


 若い下働きが、また困った顔をした。


「増えましたね」


「増えた」


「黒札だけの方が、分かりやすかったです」


「そう」


「でも、客前では怖いんですよね」


「そう」


「では、どちらが正しいんですか」


 わたしは、答えられなかった。


 風戸を見る。


 花弁を落とす。


 花弁は、床の近くで少し戻った。


 今日の風は、まっすぐではない。


「どちらも、間違える」


 わたしは言った。


 若い下働きが目を丸くする。


「どちらも?」


「黒札だけだと、人が怖がって話が止まる」


「はい」


「確認札だけだと、物が止まらない」


「はい」


「だから、両方見る」


「面倒ですね」


「面倒なものが、たいてい仕事」


 若い者は嫌そうな顔をした。


 気持ちは分かる。


 わたしも嫌だ。


 風だけでも面倒なのに、言葉の風まで見なければならない。


     *


 夕方、白香の家の者たちは帰った。


 サイード様は、確認札の板を一枚持ち帰ることになった。


 白香の家でも使うかもしれないらしい。


 リリア様は、それを嬉しそうに見ていた。


「よかったですね、ナディさん」


「はい」


「あなたの黒札が、白香の家でも使われるかもしれません」


 よいこと。


 たぶん、よいことだ。


 でも、わたしはサイード様が持つ札を見ていた。


 確認札。


 黒札扱い。


 使用停止。


 用途決定まで移動不可。


 字はある。


 けれど、白香の家で同じ意味になるかは分からない。


 白香の家では、白いものが強い。


 清めが強い。


 婚礼の香りが強い。


 その中で、黒札扱いの字が消えないか。


 確認という柔らかい言葉だけが残らないか。


 それは、わたしには見えない。


「ナディさん?」


 リリア様が声をかけた。


「いえ」


 わたしは首を振った。


「乾かし場の外の風は、分からないと思っただけです」


 リリア様は、少し笑った。


「外の風も、いつか分かるようになりますよ」


 その言葉は優しかった。


 でも、わたしは思った。


 外の風を分かるようになるには、外で紙を反らせる必要があるのかもしれない。


 外で香りを飛ばす必要があるのかもしれない。


 外で黒札を嫌われる必要があるのかもしれない。


 それは、あまり嬉しくなかった。


     *


 夜、乾燥場に残ったのは、わたしと女主人だけだった。


 風戸の紐を閉じる。


 黒札の籠を移す。


 確認札の板を棚へ戻す。


 端紙を眠り草用の籠へ分ける。


 床を拭く。


 湿った蓋布を吊るす。


 乾いた蓋布と離す。


 女主人は、最後まで黙っていた。


 わたしも黙っていた。


 火を落とす前に、女主人が言った。


「ナディ」


「はい」


「リリア様の言葉は、役に立つ」


「はい」


「お前の黒札も、役に立つ」


「はい」


「ただし、どちらも間違える」


「はい」


「言葉で和らげすぎれば、止まらない。黒で止めすぎれば、場が割れる」


「はい」


「お前は、場を和らげるのが下手だ」


「はい」


「だが、止めるのは下手ではない」


 わたしは、少しだけ顔を上げた。


 女主人は、風戸の札を見ていた。


「だから、止める時は止めろ。だが、止めた後、どう通すかも見ろ」


「通す?」


「黒札で止めたものを、どこへ戻すか。何へ使えるか。誰へどう言うか。そこまで見なければ、ただの怖い札になる」


「はい」


「風抜き番は、風を抜くだけでは足りない」


 女主人は、わたしを見た。


「抜いた風を、どこへ逃がすかも見ろ」


 わたしは、すぐには返事ができなかった。


 風を抜く。


 逃がす。


 止める。


 戻す。


 言葉も同じなのかもしれない。


 黒札で止めた言葉を、どこへ逃がすか。


 リリア様は、それが上手い。


 わたしは、下手だ。


 でも、リリア様の言葉だけでは、物が止まらない。


 わたしの黒札だけでは、場が割れる。


 面倒だった。


 本当に、面倒だった。


「分かりました」


 わたしは言った。


「たぶん」


「たぶんでよい」


 女主人は言った。


「分かったふりで札を外すよりましだ」


     *


 次の日、わたしは新しい札を作った。


 黒札。


 確認札。


 使用停止。


 用途決定待ち。


 移動不可。


 香読み確認待ち。


 風抜き番確認待ち。


 客前説明済み。


 客前未説明。


 多すぎる。


 若い下働きが見て、嫌な顔をした。


「ナディさん」


「何」


「札が増えすぎです」


「知ってる」


「覚えられません」


「わたしも」


「作った人が言わないでください」


 もっともだった。


 わたしは、札を少し減らした。


 黒札。


 確認札。


 止める。


 見るまで動かさない。


 戻せる先を書く。


 最後の一行を残した。


 戻せる先を書く。


 これが大事だと思った。


 黒札は、止める。


 でも、止めたままでは荷にならない。


 紙にもならない。


 香りにもならない。


 端紙なら、眠り草用に戻せるかもしれない。


 湿った蓋布なら、乾かして白香用に戻せるかもしれない。


 香りを拾った紐なら、虫避け紙に回せるかもしれない。


 戻せないものは、捨てる。


 戻せるものは、戻す。


 その行き先を書かなければ、黒札はただ怖いだけになる。


     *


 昼前、リリア様がまた来た。


 サイード様はいなかった。


 白い肩掛けだけが、乾燥場の入口で揺れていた。


「ナディさん」


「はい」


「昨日の札、白香の家でも見せました」


「はい」


「サイード様が、よい手順だと」


「そうですか」


「ただ、黒札扱いという字は、少し目立ちすぎるかもしれないと」


 わたしは、手を止めた。


 来た。


 そう思った。


 外へ出た札は、やはり外の風を受ける。


 黒札扱いの字が、薄くされようとしている。


 リリア様は、悪い顔をしていなかった。


 本当に、よい形を探している顔だった。


「確認札だけでは駄目です」


 わたしは言った。


「昨日も言いました」


「ええ。だから、別の言葉を考えました」


「別の」


「留め札」


 リリア様は、そっと札板を出した。


 留め札。


 黒札より怖くない。


 確認札より止まる。


 悪くない。


 悪くない、と思ってしまった。


「留め札」


 わたしは繰り返した。


「はい。いったん留める。用途を見てから戻す。黒とは書かないけれど、止める意味は残ります」


 リリア様は微笑んだ。


「どうでしょう」


 わたしは札を見た。


 留め札。


 黒札ではない。


 確認札でもない。


 止める意味はある。


 でも、黒の怖さはない。


 これは使えるかもしれない。


 同時に、怖いとも思った。


 なぜなら、よい言葉だからだ。


 よい言葉は、通りやすい。


 通りやすい言葉は、意味も運ぶ。


 けれど、途中で少しずつ荷を落とすことがある。


 留め札から、使用停止が落ちないか。


 用途決定まで移動不可が落ちないか。


 戻せる先を書く、が落ちないか。


「下に書いてください」


 わたしは言った。


「何を?」


「見るまで動かさない。戻せる先を書く」


 リリア様は、少しだけ考えた。


 それから頷いた。


「分かりました」


 その返事は、柔らかい。


 でも、昨日より少しだけ硬かった。


 わたしは、それを覚えておいた。


     *


 その日の夕方、風戸の横には新しい札が増えた。


 留め札。


 見るまで動かさない。


 戻せる先を書く。


 女主人はそれを見て言った。


「黒札は残す」


「はい」


「客前は留め札でもよい」


「はい」


「帳は黒札、または留め札黒扱い」


「はい」


「面倒だな」


「はい」


 女主人は、少し笑った。


「だが、前よりましだ」


 わたしは札を見た。


 黒札。


 確認札。


 留め札。


 言葉が増えた。


 札も増えた。


 手順も増えた。


 面倒も増えた。


 でも、少しだけ見えるものも増えた。


 風は、目に見えない。


 言葉の風も、目に見えない。


 でも、紙を動かす。


 人を動かす。


 札の意味も動かす。


 だから、見なければならない。


     *


 今でも、わたしは魔法を使えない。


 香りを留める秘術も知らない。


 人の顔を読んで、場を丸くすることも苦手だ。


 リリア様のように、黒いものを柔らかい言葉へ変えることはできない。


 サイード様のように、白い壺が似合う場所も分からない。


 でも、乾燥場に入ると、まず床を見る。


 花弁を落とす。


 風の向きを見る。


 蓋布の湿りを見る。


 端紙の軽さを見る。


 札の色を見る。


 それから、札の言葉を見る。


 黒札。


 確認札。


 留め札。


 どれも、同じではない。


 言葉が違えば、人の手が違う。


 人の手が違えば、荷の置き場が変わる。


 置き場が変われば、風が変わる。


 風が変われば、香りが変わる。


 だから、言葉も風の一部なのだと思う。


 場を和らげたのではありません。


 黒札の意味が薄まっただけです。


 そう言うと、また角が立つ。


 だから、今はこう書く。


 留め札。


 見るまで動かさない。


 戻せる先を書く。


 黒札の怖さを少しだけ布で包んで、でも中身は捨てない。


 それが、今日増えた札だった。


 風戸の札は、また一枚増えた。


 面倒だ。


 けれど、明日の紙を反らせないためには、たぶん必要な面倒だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。