2枚目 毒を盛ったのではありません。香りの水を風下へ置いただけです
「ナディ。白香の水に黒札を結んだのは、お前か」
女主人が言った。
香紙工房の昼の乾燥場が、また静かになった。
紙を返す手。
白花を広げる手。
香草を壺へ戻す手。
薄布を吊るす手。
みんな、動いている。
けれど、耳だけはこちらを向いている。
最近、こういう沈黙が増えた。
わたしが風抜き番になったからだ。
「はい」
わたしは答えた。
女主人の前には、白い小壺が一つ置かれていた。
白香の家から持ち込まれた婚礼香用の水壺である。
その首に、黒い細布が結ばれている。
結んだのは、わたしだ。
白い壺に黒い札。
見栄えは悪い。
婚礼の場には、もっと悪い。
だから、白香の家の若い男は眉をひそめていた。
サイード。
白香の家の者で、青壺の家の次女リリアと婚約話が進んでいる人だ。
その隣で、リリアが困ったように微笑んでいた。
困っている。
悲しんでいる。
場を壊したくない。
そう見える顔だった。
「ナディさん」
リリアは柔らかく言った。
「黒札は、毒を示す札ではありませんか」
「違います」
わたしは答えた。
「黒札は、使い道を決めてはいけないものです」
「でも、白香の家の壺に黒札を結ばれたら、毒が入ったように見えてしまいます」
「毒ではありません」
「では、なぜ」
「分からない水になったからです」
リリアの眉が、さらに下がった。
周囲の者たちが息を詰める。
わたしは、自分の言い方が悪いのを知っている。
分からない。
使えない。
止める。
そう言うと、人は不安になる。
けれど、分からないものを、分かったふりで乾燥場へ戻す方が怖い。
女主人が言った。
「何が混じった」
「まだ混じったとは言えません」
「では、なぜ黒にした」
「風下に置かれていました」
「風下?」
「はい」
わたしは、乾燥場の床を見た。
南の下風戸。
北の上風戸。
東の朝布。
西の砂除け網。
紙棚の間。
白花の浅皿。
眠り草の籠。
目覚め葉の小壺。
白香の水壺。
それぞれの位置を、もう一度頭の中で並べる。
「白香の水壺が、眠り草の下風に入っていました」
サイードが、少しだけ声を硬くした。
「水壺には蓋がありました」
「はい」
「封もしてあります」
「はい」
「なら、香りは入らないのでは」
「蓋の布が湿っていました」
サイードは黙った。
リリアが、そっと言う。
「蓋布は、清め水で拭いたものです。白香の家では、婚礼香の壺を清める時に使います」
「はい」
「清い布です」
「清い布でも、湿っていました」
言った瞬間、場の空気が硬くなった。
清い布。
湿った布。
同じではない。
でも、それを言うと、清めそのものを疑ったように聞こえる。
リリアは、すぐにサイードを見た。
「ナディさんは、白香の清めを疑っているわけではないと思います」
よい言い方だった。
場の角が丸くなる。
サイードの肩から、少し力が抜ける。
女主人も黙って続きを待つ。
わたしは、リリアを見た。
この人は、風を読んでいるわけではない。
水も見ていない。
でも、人の顔と声の流れを見ている。
それは、わたしにはできないことだった。
けれど、できないからといって、黒札を外すわけにはいかない。
「清めを疑っているのではありません」
わたしは言った。
「湿った布が、眠り草の下風にありました。眠り草の香りは重いので、床へ落ちます。落ちた香りは、湿ったものに付きます」
女主人が、目を細めた。
「白香の水に、眠り草が移ったと?」
「まだ分かりません」
「また分からないか」
「はい」
わたしは頷いた。
「だから黒札にしました」
*
わたしは香読みではない。
それは、今でも変わらない。
婚礼香の階は、まだよく間違える。
白花の甘さも、女主人ほど細かくは分からない。
眠り草の重さも、香読みたちのように言葉へはできない。
けれど、乾燥場の風なら少し分かる。
眠り草の匂いは、上へ逃げるより、床へ沈む。
目覚め葉は、粉が立つと顔の高さへ来る。
白い花弁は、風が強いとすぐ薄くなる。
湿った布は、香りを吸う。
乾いた紐は、香りを通しにくい。
濡れた紐は、香りを抱える。
蓋布は、ただの蓋ではない。
壺の口に触れる。
水の上にある。
湿ったままなら、風を拾う。
それを覚えたのは、賢かったからではない。
失敗したからだ。
紙を反らせた。
花弁を黒くした。
香草を濁らせた。
神殿へ薄香紙を戻された。
叱られた。
床を拭いた。
風戸の紐を結び直した。
だから、知っている。
風は、見えない。
けれど、残る。
水にも。
紐にも。
布にも。
紙にも。
*
この日の注文は、面倒だった。
白香の家の婚礼香。
青壺の家から来た香水。
香紙工房の薄香紙。
神殿へ添える祈祷紙。
薬師組へ回す眠り草。
それらを、同じ日に試し合わせることになっていた。
本来なら、分けたい。
日を分ける。
棚を分ける。
風を分ける。
紐を分ける。
水を分ける。
それが安全だ。
でも、婚礼は待たない。
白香の家も、青壺の家も、神殿も、薬師組も、それぞれに都合がある。
美しい日取り。
よい香りの時間。
客を迎える順番。
壺を見せる場所。
紙を乾かす棚。
全部が重なった。
重なれば、場は華やかになる。
同時に、風は悪くなる。
女主人は、朝から機嫌が悪かった。
「ナディ」
「はい」
「南の下風戸を見るな」
「見ます」
「言い方だ。見るなではない。勝手に動かすな」
「はい」
「北の上風戸は」
「半分です」
「東の朝布は」
「白花がある間は閉じ気味です」
「眠り草は」
「床から二段目より下へ置きません」
「目覚め葉は」
「粉が立つので、白花の風上へ置きません」
「白香の壺は」
「湿った蓋布を使うなら、眠り草から離します」
そこで、リリアが入ってきた。
青壺の家の次女。
白い肩掛けをしていた。
青壺の家の人なのに、白がよく似合う。
後ろにはサイード。
白香の家の若い男。
その二人が並ぶと、工房の空気が少し変わった。
若い香読みたちが目を向ける。
下働きたちも、手を止めないまま見る。
よい縁。
美しい組み合わせ。
青壺と白香の結び。
そういう言葉が、まだ誰も口にしないうちから空気へ浮かぶ。
リリアは、それを分かっているように笑った。
「今日はよろしくお願いいたします」
柔らかい声だった。
サイードも頭を下げる。
「白香の壺を三つ、試し合わせへ」
壺が運ばれる。
白い。
軽い。
口に薄布がかかっている。
蓋布には、清め水の湿りが残っていた。
わたしは、それを見た。
女主人も見た。
ただし、女主人は何も言わなかった。
客前で最初に指摘することではない。
わたしも言わなかった。
最初は。
*
試し合わせは、順に進んだ。
白花を戻す。
薄香紙へ移す。
白香の水を少し含ませる。
青壺の香水を遠くで開ける。
眠り草は、別棚へ置く。
目覚め葉は、粉が立たないように薄布で押さえる。
ここまでは、問題なかった。
問題は、客が増えた時に起きた。
神殿の使いが来た。
薬師組の使いも来た。
白香の家の年配の女も来た。
人が増える。
身体が増える。
袖が増える。
尾が増える。
床を擦る鱗が増える。
空気が動く。
誰かが、眠り草の籠を少しずらした。
誰かが、白香の壺を見やすい場所へ置き直した。
誰かが、蓋布を清め水で湿らせ直した。
たぶん、悪気はない。
見栄えを整えただけだ。
香りをよく見せようとしただけだ。
白い壺を、白花の近くへ置きたかっただけだ。
でも、その位置は悪かった。
眠り草の下風。
しかも、床に沈んだ風が棚の脚へ当たり、少し戻る場所。
湿った蓋布には、いちばんよくない。
わたしは、花弁を一枚落とした。
白い花弁は、まっすぐ落ちなかった。
床へ向かい、途中で少し戻り、白香の壺の方へ滑った。
悪い風だった。
「その壺を動かしてください」
わたしは言った。
若い香読みが振り返る。
「今?」
「今です」
「客前よ」
「だから今です」
リリアがこちらを見る。
少しだけ困った顔。
「ナディさん。何か?」
「その壺が、眠り草の下風に入っています」
「下風?」
「床を這う風です」
白香の年配の女が、かすかに笑った。
「壺は床に置いていませんよ」
「風は床を通ります」
「蓋もあります」
「蓋布が湿っています」
サイードが、そこで眉を寄せた。
リリアはすぐに間に入った。
「ナディさんは、乾燥場の風をよく見ている方です。少し場所を替えましょうか」
うまい言い方だった。
わたしがきつく言ったものを、柔らかく直す。
白香の壺が悪いのではない。
清めが悪いのでもない。
少し場所を替えるだけ。
それなら、誰の顔も潰れない。
けれど、白香の年配の女は動かなかった。
「婚礼壺を、眠り草のために下げるのですか」
場が止まった。
婚礼壺。
眠り草。
どちらが上か。
そんな話ではない。
けれど、人はすぐそう見る。
わたしは花弁を見た。
床の風は、もう白香の壺へ向かっている。
「下げるのではありません」
わたしは言った。
「分けます」
女主人が、わずかに息を吐いた。
またその言い方か。
たぶん、そう思ったのだろう。
でも、わたしにはそれしか言えなかった。
分ける。
それだけだ。
上でも下でもない。
清いでも悪いでもない。
使える場所と、使えない場所を分ける。
わたしは白香の壺へ近づき、黒布を結んだ。
その瞬間、空気が凍った。
*
「黒札」
誰かが言った。
毒、とまでは言わなかった。
けれど、皆が同じ言葉を思い浮かべたのは分かった。
リリアが、わたしを見る。
サイードが、リリアを見る。
白香の年配の女が、女主人を見る。
女主人は、わたしを見た。
「ナディ」
「はい」
「証を出せるか」
「出せます」
そう答えた時、胸の奥が冷えていた。
怖くないわけではない。
怖い。
黒札を結ぶのは、今でも怖い。
間違えていたら、工房の顔を潰す。
白香の家の顔を潰す。
リリアの顔も潰す。
サイードの顔も潰す。
女主人にも叱られる。
でも、壺の水が使われてからでは遅い。
「同じ蓋布を二枚ください」
わたしは言った。
「一枚は乾いたまま。もう一枚は清め水で湿らせます」
白香の年配の女が、少し目を細めた。
「清め水を試すのですか」
「清めを試すのではありません」
リリアが、先に言った。
柔らかい声だった。
「湿りが香りを抱えるかを見るのですよね、ナディさん」
わたしは頷いた。
「はい」
リリアは、白香の女へ向き直る。
「清めの否定ではありません。婚礼香を損なわないための確認です」
また、場が柔らかくなった。
リリアは上手い。
わたしが角のある言葉で置いたものを、丸くして置き直す。
だが、丸くしたものは、時々転がっていく。
どこまで転がるかは、わたしには分からない。
試しはすぐに行われた。
眠り草の籠の下風へ、小さな白壺を二つ置く。
一つには乾いた蓋布。
一つには清め水で湿らせた蓋布。
どちらも、中にはただの水を入れる。
強い風は当てない。
南下風戸は指二本分。
北上風戸は半分。
東の朝布は閉じ気味。
わたしは、花弁を落とした。
花弁は、湿った蓋布の壺の方へ滑った。
半刻待つ。
待つ時間は長い。
人の目が痛い。
香読みたちは黙っている。
神殿の使いも、薬師組の使いも、白香の者も、みな待っている。
リリアは、待つ間も笑みを崩さなかった。
サイードは、その横に立っていた。
似合っている。
白い壺と、白い肩掛けと、柔らかい声。
たぶん、皆はそう思っている。
わたしは床を見ていた。
床の風は、まだ戻っている。
半刻後、女主人が二つの壺を開けた。
乾いた蓋布の壺は、ほとんど変わらない。
湿った蓋布の壺は、わずかに重い。
眠り草そのものではない。
けれど、眠り草の底にある重さが、水に触れている。
女主人は鼻を寄せ、黙った。
若い香読みも確かめる。
白香の年配の女も確かめる。
最後にサイードが確かめた。
彼の眉が、少しだけ動いた。
「違う」
サイードは言った。
わたしは頷いた。
「はい」
「毒ではない」
「はい」
「だが、婚礼香には重い」
「はい」
「湿った蓋布が、香りを拾った」
「はい」
サイードは、黒札の壺を見た。
そこには、わたしが結んだ黒布がある。
もう誰も、毒とは言わなかった。
けれど、黒札の見栄えがよくなったわけではない。
リリアが静かに息を吐いた。
「ナディさんのおかげですね」
その声は、柔らかかった。
けれど、わたしは少しだけ引っかかった。
おかげ。
それはよい言葉だ。
でも、さっきまで黒札は悪いものに見えていた。
毒のように見えていた。
場を壊すものに見えていた。
証が出た途端、おかげになる。
風よりも、人の言葉の方が、向きが変わりやすいのかもしれない。
*
その日の試し合わせは、中止にはならなかった。
白香の壺を移す。
眠り草を床から二段上げる。
湿った蓋布は、香りの強いものの下風へ置かない。
婚礼香用の水壺には、乾いた蓋布を使う。
清め水で拭いた布は、別の棚で乾かしてから使う。
それだけで済んだ。
女主人は、わたしへ言った。
「黒札は正しかった」
「はい」
「だが、結ぶ前に言え」
「言いました」
「言い方だ」
「はい」
「客前で黒を結ぶなら、証をすぐ出せ」
「はい」
「証を出せないなら、私を呼べ」
「はい」
「勝手に全部背負うな」
わたしは、少しだけ驚いた。
怒られると思っていた。
いや、怒られている。
でも、最後の言葉だけは違った。
勝手に全部背負うな。
わたしは、黒札を見た。
黒い布は軽い。
でも、結ぶと重い。
「はい」
わたしは答えた。
女主人は、それ以上言わなかった。
*
白香の家の者たちが帰る前、リリアが近づいてきた。
「ナディさん」
「はい」
「今日は、助かりました」
「はい」
「でも、黒札は少し怖く見えます」
「分かっています」
「婚礼の場では、怖いものは嫌われます」
「分かっています」
「だから、次は先に私へ言ってください。私が、うまく言います」
わたしは、リリアを見た。
柔らかい顔。
よく通る声。
相手が欲しい形に、言葉を置ける人。
この人が言えば、黒札も黒札に見えないかもしれない。
でも、それでよいのだろうか。
黒札は、怖いから意味がある。
分からないものを、分からないまま使わないために、目立つ色を結ぶ。
怖く見えない黒札は、止める札になるのだろうか。
「黒札は、怖く見えるための札です」
わたしは言った。
リリアの笑みが、ほんの少しだけ止まった。
「そう」
「はい」
「ナディさんは、正直ですね」
「よく叱られます」
「でしょうね」
リリアは、また柔らかく笑った。
その笑いに、周囲の者たちは安心する。
わたしだけが、少し寒くなった。
風ではない。
床でもない。
人の言葉の下を通る、見えないものだった。
*
サイードは、白香の壺を持つ下働きへ指示を出していた。
「蓋布は乾かしてから使うように」
「はい」
「眠り草の近くへは置かない」
「はい」
彼は、覚えた。
少なくとも、今日の手順は覚えた。
それはよいことだ。
だが、彼は最後にリリアを見た。
「あなたがいてくださってよかった」
リリアは首を振った。
「私は何も」
「いいえ。ナディ殿の言葉は正しいのでしょうが、そのままでは角が立つ」
わたしは、乾燥場の棚を拭いていた。
聞くつもりはなかった。
でも、聞こえた。
「あなたが間に入ると、香りが乱れない」
香りが乱れない。
よい言葉だった。
サイードは本気でそう思っているのだろう。
リリアも、それを受け取る顔をしていた。
わたしは、棚の下を拭いた。
湿りが残っている。
さっきの試しで使った水が、少しだけ床へ落ちたのだ。
誰も見ていない。
人の顔が和らいでも、床の湿りは消えない。
拭かなければ、明日の紙が反る。
わたしは布を絞り、もう一度拭いた。
*
その夜、女主人は乾燥場の札を一枚増やした。
湿った蓋布。
香りを拾う。
風下注意。
黒札可。
その札は、風戸の横に吊られた。
わたしの仕事が、また一つ増えた。
湿った蓋布を見る。
清め水で拭いた布を見る。
香りの強いものの下風を見る。
白い壺が白いからといって、安心しない。
清い布が清いからといって、乾いているとは限らない。
婚礼の場だからといって、風が祝ってくれるわけではない。
若い下働きが言った。
「ナディさん」
「何」
「黒札って、怖いですね」
「怖く見えるように黒いから」
「毒みたいです」
「毒とは限らない」
「では、何ですか」
「分からないもの」
「分からないものに黒を結ぶんですか」
「分からないから結ぶの」
若い者は、まだ分かった顔をしなかった。
昔のわたしも、そうだったと思う。
だから、強くは言わない。
乾いた花弁を一枚渡す。
「落として」
花弁は、少し横へ滑った。
若い者は、床を見る。
「風、ありますね」
「ある」
「見えないのに」
「見えないから、花弁を落とす」
「水も?」
「見えないものを運ぶ」
「紐も?」
「吸う」
「布も?」
「抱える」
「黒札は?」
「止める」
若い者は、黒い札を見た。
少し怖そうに。
それでよかった。
*
今でも、わたしは魔法を使えない。
香りを留める秘術も知らない。
白香の家の婚礼香の言葉も、リリアのような柔らかい言い方も、うまく扱えない。
人の顔を読めば、もっと場を壊さずに済むのかもしれない。
黒札を結ぶ前に、きれいな言葉を置けばよいのかもしれない。
でも、乾燥場に入ると、わたしはまず床を見る。
風を見る。
花弁を落とす。
蓋布の湿りを見る。
壺の位置を見る。
香りの強いものと、湿ったものの間を見る。
黒札が必要なら、結ぶ。
毒を盛ったのではありません。
香りの水を風下へ置いただけです。
そう言っても、たぶん一度では届かない。
黒札は嫌われる。
婚礼の場では、なおさら嫌われる。
でも、黒札を嫌って外した水は、白くは戻らない。
分からないものは、分からないうちに止める。
それが、風抜き番の仕事だ。
香紙工房の帳は、その意味をまだうまく書けない。
けれど、風戸の札は今日も増えた。
湿った蓋布。
香りを拾う。
風下注意。
黒札可。
わたしは、その札を見上げた。
白い壺に黒い札は似合わない。
それでも、明日の香りを守るために、黒はそこに要る。




