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ラミア香紙工房 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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6/12

6枚目 毒を盛ったのではありません。混ざった水を商隊が止めただけです

 ローデン商隊が来る日は、朝から床が違った。


 風ではない。


 水でもない。


 荷の気配だった。


 乾燥場の外で、車輪が止まる音がした。


 馬が鼻を鳴らす。


 荷紐が鳴る。


 誰かが木箱を下ろす。


 布包みを抱える足音がする。


 商隊の音は、工房の音と違う。


 工房の音は、内側で回る。


 紙を返す。


 香草を広げる。


 壺を拭く。


 紐を巻く。


 棚を移す。


 風戸を結ぶ。


 同じ場所の中で、音が戻る。


 商隊の音は違う。


 外から来て、外へ出ていく。


 荷がある。


 道がある。


 値がある。


 濡れたらどこで干すか。


 傷んだらどこで売り直すか。


 戻せないなら、どこで止めるか。


 そういう音がする。


 わたしは、南下風戸の紐を握ったまま、入口を見た。


 人間の男が入ってきた。


 派手ではない。


 背も特別高くない。


 けれど、乾燥場へ入る前に、荷の置き場と風戸の向きを見た。


 その後ろに、アラクネの娘がいた。


 布包みと荷紐を見ている。


 さらに、ケンタウロスの護衛が入口の外にいる。


 大きい。


 乾燥場の中へは入らない。


 床を傷めると分かっているのだろう。


 そして、その横に、ラミアの女がいた。


 青い水札を腰に下げている。


 白。


 青。


 灰。


 黒。


 赤。


 印布が並ぶ。


 青壺の家の長女。


 セレナ様。


 噂の人だった。


     *


 毒を疑いすぎる女。


 黒札を増やす女。


 婚礼香の場を冷やした女。


 白香の家には合わなかった女。


 リリア様の姉。


 サイード様が選ばなかった人。


 そういう噂は、わたしも聞いていた。


 聞いていただけだ。


 会ったことはない。


 だから、もっと怖い人だと思っていた。


 口を開けば毒と言う人。


 壺を見れば黒札を結ぶ人。


 婚礼香より、薬水の帳を優先する人。


 でも、乾燥場へ入ってきたセレナ様は、まず誰の顔も見なかった。


 壺を見た。


 床を見た。


 風戸を見た。


 戻ってきた紙束を見た。


 それから、わたしの黒い点の札を見た。


「この点は」


 セレナ様が言った。


 声は、柔らかくはなかった。


 でも、硬すぎもしなかった。


 乾いた布のような声だった。


 余計な香りを吸わない声。


「黒札扱いの点です」


 わたしは答えた。


「客前で黒札と書くと強すぎるので、でも意味が抜けないように」


「誰が考えたのですか」


「わたしです」


「風抜き番のナディさんですね」


 名前を呼ばれて、わたしは少し驚いた。


「はい」


「控えを見せてもらえますか」


 わたしは女主人を見た。


 女主人が頷いた。


「見せろ」


 わたしは控え帳を差し出した。


 手が少し湿っていた。


 緊張のせいだ。


 セレナ様は、控え帳を受け取る時、指を紙面から少し離した。


 濡らさないため。


 汚さないため。


 急いで開かないため。


 それだけで、少し安心した。


     *


 ローデン商隊が買いに来たのは、薬紙、小壺、乾き布、虫避け紙、旅袋用の外包みだった。


 それだけなら、いつもの商いである。


 でも、今の香紙工房には、戻ってきた紙束がある。


 神殿戻り。


 薬師戻り。


 白香確認。


 見本混入疑い。


 青壺口布日。


 黒札扱い字外し。


 リリア様の言葉。


 サイード様の判断。


 背景モブ。


 意味不明。


 侮りの気配。


 控え帳の中は、風よりも入り組んでいた。


 ローデンは、戻ってきた紙束を見た。


「買う荷に混じるか」


 女主人が答える。


「混じらせない」


「ならよい」


 そう言ってから、ローデンはセレナ様を見た。


「水は」


「見ます」


「サナ、布は」


「見ます」


「ナディ殿」


 急に呼ばれて、わたしは顔を上げた。


「はい」


「風は」


「見ます」


「なら始める」


 それだけだった。


 簡単だった。


 顔を立てる言葉も、慰める言葉も、責める言葉もない。


 水は見る。


 布は見る。


 風は見る。


 荷は、その後で動く。


 商隊は、そういうものらしい。


     *


 セレナ様は、最初に神殿戻りの薄香紙を見た。


 香りを聞くのではなく、水の跡を見る。


 紙の端。


 束ね跡。


 紐のへこみ。


 湿りが入った場所。


 乾いた後に残る固さ。


 わたしが見ていたところと、似ている。


 でも、少し違う。


 セレナ様は紙を持ち上げず、まず紙の下に敷かれていた薄布を見た。


「この下布は、どこから」


 若い香読みが答える。


「白香の家からです。見本紙を包んで戻した布です」


「清め布ですか」


「はい。白香の清め水で拭いたものだと」


「乾いていましたか」


 若い香読みは黙った。


 わたしも黙った。


 見ていない。


 そこは、見ていない。


 見本紙そのものを見ていた。


 札を見ていた。


 黒札扱いの字が外されたことを見ていた。


 でも、見本紙を包んで戻した布の乾きは、見ていなかった。


 セレナ様は、薄布の端を指で押した。


「水は抜けています。でも、香りを抱えた跡があります」


「白花ですか」


 わたしは聞いた。


「白花だけではありません」


 セレナ様は、少しだけ顔を近づけた。


「白香の清め水。白花。眠り草の下風。青壺の香水口布。あと、庭水」


 わたしは控え帳を握った。


 同じだ。


 控えと同じ言葉が出た。


「南庭水です」


 わたしは言った。


「午後から外湿りが戻りました」


「控えにあります」


 セレナ様は頷いた。


「戻ってきた紙の中に、風だけではなく、包み布から戻った湿りがあります」


 女主人が目を細めた。


「紙だけではなかったか」


「はい」


 セレナ様は、紙束と薄布を分けた。


「紙束は香りを拾った。見本紙が戻した。包み布がさらに押した。水が道を作った」


「毒か」


 白香の下働きが、思わず言った。


 セレナ様は、すぐに首を横に振った。


「毒ではありません」


 その言い方は、リリア様の言い方と違った。


 リリア様が言うと、場を柔らかくするための言葉になる。


 セレナ様が言うと、分類になる。


「毒ではありません。だから捨てる前に分けます。ですが、神殿紙には戻せません」


 神殿の使いが、静かに頷いた。


     *


 次に、薬師組から戻った小布を見た。


 こちらはサナが横に入った。


 アラクネの娘である。


 荷紐を見る手つきだった。


 細い指で、小布の束ね紐を少しだけ持ち上げる。


「結び直しています」


 サナが言った。


「誰が」


 ローデンが聞く。


「工房ではありません。白香の家でもないと思います。薬師組へ出す前に、誰かが一度ほどいています」


 若い香読みが顔を上げた。


「確認のためです。リリア様が、白花の甘さが強くないか見てくださって」


 女主人の顔がわずかに険しくなった。


「誰が許した」


「サイード様が、白香の名で出るものだからと」


 空気が重くなる。


 サナは、空気を見ない。


 紐を見る。


「紐は同じです。でも、戻し方が違います。最初の締めは、工房の乾き紐結びです。戻した時は、白香の見せ包み結びです」


「見せ包み」


 わたしは聞き返した。


「客前で見栄えよく見せる結びです」


 サナが答えた。


「でも、薬師組用小布には向きません。少し緩い。香りが逃げにくい代わりに、内側へ戻ります」


 セレナ様が小布を見た。


「白花の甘さが中へ戻っています」


 わたしは、自分の控え帳を開く。


 薬師組用。


 青印三束。


 白花上棚と同日。


 見本移動。


 戻し有無、不明。


 不明。


 不明ではなかった。


 戻していた。


 しかも、結び方が変わっていた。


「書き足します」


 わたしは言った。


 女主人が頷いた。


「書け」


 わたしは控えに書いた。


 ――薬師組小布、白香見せ包み結びに変更痕。


 ――紐同一、締め方異なる。


 ――白花甘香、内側戻り。


 ――サナ確認。


 書きながら、少し悔しかった。


 わたしは風を見ていた。


 水も見ていた。


 でも、荷紐の戻し方は見ていなかった。


 風だけでは足りない。


 水だけでも足りない。


 紙だけでも足りない。


 だから商隊には、いろいろな目がいる。


     *


 リリア様とサイード様が来たのは、その確認の途中だった。


 白香の家の者を伴っている。


 青壺の家の使いもいた。


 リリア様はいつものように柔らかく笑った。


 ただ、目の奥に疲れがあった。


 昨日の騒ぎは、もう白香と青壺に届いているのだろう。


「ローデン様までいらしていたのですね」


 リリア様は言った。


 ローデンは頭を下げた。


「荷を買いに来ただけです」


「でも、このような時に」


「このような時だから、荷を見ています」


 リリア様は少しだけ笑った。


「商人らしいお言葉ですね」


「商人ですので」


 ローデンは短く答えた。


 サイード様が、セレナ様を見る。


 その顔に、少し複雑なものがあった。


「セレナ殿」


「サイード様」


「久しぶりです」


「はい」


 リリア様が、二人の間に入るように、ほんの少し身体を動かした。


「姉さん。戻っていたのね」


「荷と一緒に来ました」


「そんな言い方」


「ローデン商隊の荷水担当として来ています」


 セレナ様は、リリア様を見た。


 妹を見る顔ではなかった。


 少なくとも、乾燥場では。


 水の前に立つ者の顔だった。


「青壺の家の娘としてではなく?」


 リリア様が聞いた。


「今は、商隊の者です」


 その言葉で、場が少し変わった。


 リリア様の笑みが、ほんの少しだけ遅れて戻る。


「そう」


 声は柔らかい。


 でも、床の風は冷えた。


     *


 サイード様は、戻ってきた紙束を見た。


「白香の家でも、見本紙の扱いを確認しました」


 ローデンが聞く。


「戻したのか」


「一部は」


「黒札扱いは外したのか」


「客前では強すぎるためです」


「外したのか」


 サイード様は口を閉じた。


 ローデンは、同じ問いを繰り返す。


 商人の問いだった。


 理由より先に、事実を見る問い。


 サイード様は、少し硬い声で答えた。


「外しました」


「戻したのか」


「戻しました」


「結び直したのか」


「見栄えを整えるためです」


「結び直したのか」


「はい」


 ローデンは頷いた。


「なら、荷は動いた」


 それだけだった。


 サイード様の顔が、わずかに赤くなる。


「悪意があったわけではありません」


「聞いていません」


「白香の家の名を守るためです」


「荷は動いた」


「婚礼香の場にふさわしく」


「荷は動いた」


 同じ言葉が、三度置かれた。


 サイード様は黙った。


 リリア様が、そっと前に出る。


「ローデン様。サイード様は、責任を避けたいのではありません。ただ、黒札という言葉が強すぎたので」


「言葉は後でよい」


 ローデンは言った。


「先に、荷が動いたかどうかです」


 リリア様の笑みが、少し止まった。


 ローデンはセレナ様へ視線を移す。


「水は」


「混じっています」


 サナへ。


「紐は」


「結び直しています」


 わたしへ。


「風は」


「戻っています」


 ローデンは頷いた。


「なら、止める」


 簡単だった。


 あまりに簡単だった。


 誰の顔も、まだ見ていない。


 誰が悪いかも、まだ言っていない。


 ただ、荷が動いた。


 水が混じった。


 紐が結び直された。


 風が戻った。


 だから止める。


 それだけだった。


     *


 リリア様は、セレナ様を見た。


「姉さんは、それでいいの?」


「何がですか」


「婚礼前に、白香と青壺の合わせ香を止めるのよ」


「止めるべきものなら止めます」


「また、そういう言い方」


 リリア様は困ったように笑った。


「姉さんは昔から、何でも毒か、汚れか、止めるものにしてしまう」


「毒ではありません」


 セレナ様は言った。


「毒ではないから、分けています」


「その言い方が怖いの」


「怖くても、壺の中身は変わりません」


「婚礼なのよ」


「紙と水も残ります」


「サイード様も、白香の家も、皆がよい形にしようとして」


「よい形に整えるために、黒札扱いを外したのですね」


 セレナ様の声は、少しも荒くならなかった。


 だが、乾いた。


「見本紙を戻した」


「それは」


「結び直した」


「見栄えを」


「薬師組用小布に白花の甘さが戻った」


「少しです」


「神殿紙の風下で子どもが眠った」


 リリア様は黙った。


 サイード様が口を開く。


「因果は、まだ」


「断定しません」


 セレナ様は言った。


「断定しないから、止めます」


 その言葉を聞いて、わたしは控え帳を握り直した。


 分からないから止める。


 混じったかもしれないから止める。


 毒と決める前に止める。


 捨てる前に分ける。


 同じだった。


 黒札と同じだった。


     *


 セレナ様は、わたしの控え帳をもう一度開いた。


「ナディさん」


「はい」


「この控え、よく残しています」


「止めきれませんでした」


「止めきれなかったから、なお必要です」


「はい」


「ここに、不明、と書いてあります」


「はい」


「不明を消していない」


「はい」


「よいです」


 よい。


 その言葉は、軽くなかった。


 褒められた、というより、札が正しい位置へ戻ったような感じがした。


「不明は、恥ではありません」


 セレナ様は言った。


「不明を、白札へ戻す方が危険です」


 わたしは頷いた。


 リリア様が、それを見ていた。


 その顔は、柔らかい。


 でも、さっきより冷たい。


 セレナ様は、控え帳の端で手を止めた。


 背景モブ。


 意味、不明。


 侮りの気配。


 そこを読んだ。


 わたしは、少し身を固くした。


「これは」


 セレナ様が聞いた。


「分かりません」


「誰の言葉ですか」


 答えていいのか迷った。


 女主人を見る。


 女主人は黙っていた。


 止めない。


「リリア様です」


 わたしは答えた。


 場の空気が、ほんの少し変わった。


 リリア様がこちらを見る。


「私?」


 声は柔らかい。


 でも、少し早い。


「何のことでしょう」


「昨日、小声で」


「ナディさん」


 リリア様は困ったように笑った。


「聞き間違いではありませんか」


「意味は分かりません」


「なら、なおさら」


「でも、侮りの気配がありました」


 言ってしまった。


 乾燥場が止まる。


 サイード様が眉を寄せる。


「リリアが、そのようなことを言うとは思えません」


 リリア様は、目を伏せた。


「私が何か、ナディさんを傷つけるようなことを言ってしまったなら、ごめんなさい。でも、背景……何と言いましたか。私には覚えが」


「覚えていない言葉は、消してよいのですか」


 セレナ様が言った。


 リリア様が、姉を見る。


「姉さん」


「ナディさんは、意味不明と書いています。断定していません。侮りの気配と書いているだけです」


「そんな曖昧なものを控えに残すの?」


「曖昧だから、控えに残すのでしょう」


 リリア様の笑みが、今度は戻るのに少し時間がかかった。


 セレナ様は、控え帳を閉じた。


「奥帳へ写すかは、工房の判断です。でも、控えから消す必要はありません」


 女主人が低く言った。


「残す」


 それで決まった。


 わたしは、胸の奥で息を吐いた。


 背景。


 モブ。


 意味は分からない。


 でも、消えなかった。


     *


 ローデン商隊は、その日、予定していた荷の半分だけを買った。


 薬紙は、黒い点のついた棚からは買わない。


 小壺は、青壺口布日と同じ棚にあったものを避ける。


 乾き布は、サナが荷紐を見て選ぶ。


 虫避け紙は、旅袋外包み試し可の束を、値を下げて買う。


「買うのですか」


 わたしは思わず聞いた。


 ローデンは答えた。


「用途が合うなら買う」


「婚礼不可です」


「婚礼には使わない」


「神殿不可です」


「神殿へは売らない」


「薬師不可です」


「薬師へも売らない」


「旅袋外包み試し可です」


「だから試し値で買う」


 サナが横で言った。


「戻せる先を書く、ですね」


「はい」


 わたしは頷いた。


 少しだけ、控え帳が軽くなった気がした。


 全部捨てるわけではない。


 全部戻すわけでもない。


 用途を分ける。


 値を変える。


 行き先を変える。


 商隊は、それをする。


 ローデンは、女主人へ言った。


「信用が戻るには時間がかかる」


「分かっている」


「だが、理由が残っているなら買えるものはある」


「助かる」


「助けではない。値が合うだけだ」


 女主人が少し笑った。


「商人だな」


「商人ですので」


     *


 夕方、荷積みが終わる前に、セレナ様がわたしのところへ来た。


「ナディさん」


「はい」


「黒い点の札を、ひとつ写してもよいですか」


「え」


「商隊でも使えます。不明荷、留め荷、用途決定待ちの区別に」


「わたしの札を?」


「はい」


 わたしは、どう答えてよいか分からなかった。


 黒札は嫌われた。


 留め札は面倒がられた。


 確認札は意味が抜けた。


 黒い点は、その全部の後に作ったものだった。


 それを、商隊が使うという。


「でも、まだうまくありません」


「だから写します」


「うまくないのに?」


「うまくない手順は、使いながら直します」


 セレナ様は、黒い点の札を見た。


「ただし、商隊では点だけでは足りません。荷札にも写します。誰が見ても分かる位置に」


「客前で強すぎませんか」


「商隊の荷は、客前へ出す前に止めます」


 その違いに、わたしは少し黙った。


 工房は、客前で止めることがある。


 だから言葉を丸める。


 商隊は、客前へ出す前に止める。


 だから札を強くできる。


 場所が違えば、札の強さも変わる。


「ナディさん」


「はい」


「あなたは、風を見ています」


「はい」


「でも、今日見たように、風だけでは足りません。水、布、紐、荷、帳、人の言葉も動きます」


「はい」


「全部を一人で見る必要はありません」


 その言葉に、わたしは顔を上げた。


「一人で」


「ローデンは荷を見る。サナは紐を見る。私は水を見る。あなたは風を見る。女主人は工房の帳を見る。それでよいのです」


「でも、止めきれませんでした」


「次に止めるために、控えがあります」


 セレナ様は、少しだけ声を落とした。


「私も、家では止めきれませんでした」


 わたしは何も言えなかった。


 青壺の家。


 リリア様。


 サイード様。


 毒を疑いすぎる女。


 黒札を増やす女。


 婚礼香の場を冷やした女。


 その噂が、少し違う形に見えた。


「止めきれなかったから、商隊へ出たのですか」


 聞いてから、失礼だったと思った。


 セレナ様は怒らなかった。


「出されました」


 短い答えだった。


「でも、今は商隊で見ています」


「戻るのですか」


「青壺へ?」


「はい」


「今は戻りません」


 セレナ様は、荷車を見た。


 ローデンが荷札を確認している。


 サナが布包みを直している。


 ケンタウロスの護衛が外で足元を見ている。


「私は、青壺の家の水だけを見る者ではなくなりました。今は、荷の水も見ます」


 その言葉は、乾いていた。


 でも、強かった。


     *


 リリア様は、その様子を見ていた。


 サイード様の横で。


 白い肩掛けを揺らしながら。


「姉さんは、変わったのね」


 リリア様が言った。


 声は柔らかかった。


「はい」


 セレナ様が答えた。


「外へ出ましたので」


「外は、姉さんに合っているのかもしれないわ」


「そうですね」


「青壺の家は、少し窮屈だったでしょう」


「水を分けるには、必要な窮屈さもあります」


「また、そういう」


 リリア様は笑った。


 周囲も少し笑いかけた。


 でも、前ほど場はリリア様へ寄らなかった。


 戻ってきた紙束があるからだ。


 薬師組の小布があるからだ。


 神殿の書き付けがあるからだ。


 ローデン商隊の留め荷があるからだ。


 そして、わたしの控え帳に、背景モブという意味不明の語が残ったからだ。


 言葉は、消えなかった。


     *


 ローデン商隊が帰る時、セレナ様は黒い点の札を一枚、写して持っていった。


 サナは、薬師戻りの小布の結び方を控えていた。


 ローデンは、値を下げた旅袋外包みを買った。


 ラグというケンタウロスの護衛は、外で退屈そうにしていたが、荷車が動く時には真っ先に道を見た。


 商隊は、来た時と同じように音を立てた。


 車輪。


 荷紐。


 馬の息。


 水袋の揺れ。


 外へ行く音。


 わたしは、乾燥場の入口からそれを見ていた。


 セレナ様が振り返った。


「ナディさん」


「はい」


「黒い点は、消さないでください」


「はい」


「分からない言葉も」


 わたしは少し驚いた。


 セレナ様は続けた。


「水も、香りも、言葉も、分からないものほど後で戻ります」


「はい」


「戻った時に、どこから来たか分かるように」


 わたしは、控え帳を胸に抱えた。


「残します」


 セレナ様は頷き、商隊へ戻った。


     *


 その夜、乾燥場はいつもより静かだった。


 戻ってきた紙束は、分けられた。


 神殿不可。


 薬師不可。


 婚礼不可。


 旅袋外包み試し可。


 白香確認戻し。


 青壺口布日。


 南庭水。


 白花下風。


 黒札扱い字外し。


 ローデン商隊試し買い。


 セレナ様、水確認。


 サナ、荷紐確認。


 ナディ、風確認。


 札は増えた。


 控えも増えた。


 面倒も増えた。


 でも、少しだけ、乾燥場の中のものが分かれた。


 毒を盛ったのではありません。


 混ざった水を商隊が止めただけです。


 そう書きかけて、わたしは止まった。


 商隊だけではない。


 セレナ様が水を見た。


 サナが紐を見た。


 ローデンが荷を止めた。


 女主人が帳へ入れた。


 わたしは風を見た。


 ひとつではない。


 いくつもの目が、戻ってきた紙を分けた。


 だから、控えにはこう書いた。


 ――毒にあらず。


 ――用途不明、混じり水、戻り香、結び直し、見本戻し。


 ――商隊、留め。


 ――水、セレナ様確認。


 ――紐、サナ確認。


 ――荷、ローデン確認。


 ――風、ナディ確認。


 ――黒い点、商隊写し。


 最後に、もう一行。


 ――背景モブ、未解。


 ――消さず。


 書いてから、花弁を一枚落とした。


 花弁は、床の近くで少し滑り、黒い点の札の下で止まった。


 今日の風も、まだまっすぐではない。


 でも、止まる場所は、前より少し見えた。

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