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ラミア香紙工房 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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11/12

11枚目 姉は戻ったのではありません。商隊の札を置いていっただけです

 戻る場所がある人は、戻るものだと思っていた。


 家。


 工房。


 神殿。


 薬師組。


 商隊。


 紙束にも、戻る場所がある。


 神殿紙なら神殿へ。


 薬包み用小布なら薬師組へ。


 婚礼香紙なら婚礼先へ。


 旅袋外包みなら商隊へ。


 戻る場所が決まっていれば、札を書ける。


 けれど、人は紙ではない。


 戻る場所があるように見えても、戻らないことがある。


 その朝、セレナ様は青壺の家へ戻らなかった。


     *


 ローデン商隊は、朝から荷を整えていた。


 香紙工房の前に、荷車が一台。


 水袋。


 乾き布。


 虫避け紙。


 旅袋外包み候補。


 値下げ転用分。


 白香香見済だが神殿不可の紙。


 薬師組不可だが外包み可の小布。


 全部、札がついている。


 ローデン様は、札を読む。


 サナさんは、紐を読む。


 セレナ様は、水袋の口布を読む。


 わたしは、乾燥場から見ていた。


 荷車の近くは、工房の風とは違う。


 外の風がある。


 道の砂。


 車輪の油。


 荷紐の乾き。


 馬ではない脚の踏み跡。


 ケンタウロスの蹄跡。


 ローデン商隊の匂いがする。


 そこへ、青壺の使いが来た。


 一人ではなかった。


 昨日の使い。


 別の年嵩の女。


 それから、リリア様。


 白い肩掛け。


 青い縁。


 今日は、香玉をつけていなかった。


 香りを控えたのだと思う。


 それだけで、話が軽くないと分かった。


     *


「姉さん」


 リリア様は、荷車のそばで言った。


 セレナ様は、水袋の紐を結び終えてから振り返った。


「リリア」


「少し、話せますか」


「水袋を終えたら」


「今でなければ、商隊が出てしまうでしょう」


「はい」


 セレナ様は頷いた。


「ですから、水袋を終えます」


 リリア様の笑みが、ほんの少し止まった。


 でも、すぐ戻った。


 セレナ様は、急がない。


 水袋の口布を折る。


 青い印布。


 黒い印布。


 灰色の印布。


 それぞれ、結び目が違う。


 水は同じではない。


 印も同じではない。


 結びも同じではない。


 セレナ様は、最後に指で口布の乾きを確かめた。


「お待たせしました」


「姉さんらしいわ」


 リリア様は柔らかく言った。


 セレナ様は答えない。


 青壺の年嵩の女が、一歩前へ出た。


「セレナ様。青壺の家として、正式にお話があります」


 正式。


 その言葉で、青い札が見えた気がした。


「はい」


「今回の件で、青壺の水見手順に不足があったことは、家でも認めました」


 セレナ様は黙っている。


「水見名の記録。確認水と用途水の区別。婚礼香へ使う水と薬へ使う水の分離。香紙工房へ渡す前の蓋布乾き確認。これらを、改めて整えることになりました」


「よいと思います」


「そのため、あなたに戻っていただきたいのです」


 乾燥場の風が、一度止まったように感じた。


 戻る。


 青壺の家へ。


 リリア様は、悲しそうに微笑んでいる。


「姉さん。家も、姉さんの見方を必要としているの」


 必要。


 その言葉は、優しい。


 でも、少し遅い。


 紙が戻った後に、必要と言われる。


 信用が傷んだ後に、必要と言われる。


 止めきれなかった後に、必要と言われる。


 セレナ様は、青壺の使いを見た。


 リリア様を見た。


 それから、荷車の水袋を見た。


「今は戻りません」


 短かった。


     *


 リリア様の笑みが、また止まった。


 今度は、少し長かった。


「今は、ということは、いずれは?」


「分かりません」


「姉さん」


 リリア様の声が、少し震えた。


「青壺の家が、姉さんを必要としているのよ」


「はい」


「分かっているの?」


「はい」


「なら」


「ローデン商隊も、私を必要としています」


 青壺の使いの顔が硬くなる。


「商隊と家では、重さが違います」


「違います」


 セレナ様は頷いた。


「だから、私は今、商隊の水を見ています」


「家の水は」


「家の水だけを見るには、外の水を知りすぎました」


 その言葉を聞いた時、わたしは控え帳を開きかけた。


 まだ書かない。


 でも、覚える。


 家の水だけを見るには、外の水を知りすぎました。


 重い言葉だ。


 青壺の年嵩の女が言った。


「外で得た見方を、家へ戻せばよいのです」


「戻せるものは戻します」


「なら」


「私自身は、今は戻りません」


「なぜですか」


 セレナ様は、荷車の水袋を指した。


「この水は、青壺の家では扱いません」


 次に、乾き布を指した。


「この布は、青壺の家では濡らしません」


 旅袋外包み候補を指す。


「この紙は、青壺の婚礼には使いません」


 灰色の印布を指す。


「この札は、家の奥棚には置きません」


 最後に、道の方を見た。


「でも、商隊では必要です」


 ローデン様は何も言わない。


 サナさんも何も言わない。


 でも、荷車のそばで、その言葉はよく通った。


「青壺の家の水だけを見ていた時、私は止めきれませんでした」


 セレナ様は言った。


「今は、荷の水も見ます。道の水も見ます。雨の後の布も見ます。壺の底も、外包みの湿りも見ます」


「それが、家より大事なのですか」


 リリア様が言った。


 柔らかい声ではなかった。


 ほんの少し、硬かった。


「比べるものではありません」


「答えて」


「今、私が見るべき水は、ここにあります」


 セレナ様は、そう答えた。


     *


 サイード様も来ていた。


 少し遅れて、白香の下働きと一緒に。


 昨日より顔色は悪くない。


 でも、白香の袖は少し硬い。


 糊を効かせすぎた布のように見えた。


「セレナ様」


 サイード様は言った。


「白香の家としても、青壺の水見手順を再調整する際、あなたの知見を借りたいと考えています」


 セレナ様は、サイード様を見た。


「白香の香見手順は」


「見直します」


「黒点確認済は」


「使いません。白香香見済と書きます」


「水未見、風未見は」


「書きます」


「止まった跡は」


「残します」


 サイード様は、一つずつ答えた。


 昨日より、ずっと乾いている。


 それはよいことだと思った。


 けれど、サイード様は続けた。


「その上で、白香と青壺が再び婚礼香を組むには、あなたの水見が必要です」


「必要なら、手順板を渡します」


「直接、戻っていただいた方が早い」


「早いことと、正しいことは同じではありません」


 サイード様が黙った。


 セレナ様は、サイード様を責めていない。


 でも、逃がさない。


 水のようだ。


 隙間があれば入り、形が違えば形に合わせる。


 けれど、濡れた跡は残す。


「私は、白香のためにも、青壺のためにも、香紙工房のためにも、ローデン商隊の水見として手順を渡します」


「人としては」


 サイード様が言いかけた。


 セレナ様は少し首を傾げた。


「人として?」


「青壺の長女として、戻る道もあるのではないかと」


 リリア様が、サイード様を見た。


 その目は、少しだけ安心していた。


 サイード様が味方をしたと思ったのかもしれない。


 でも、セレナ様は静かだった。


「戻る道はあります」


「なら」


「今、通る道ではありません」


     *


 リリア様が、一歩前へ出た。


「姉さん」


「はい」


「私、姉さんが嫌いで戻ってほしくないわけではないの」


 その言い方は、柔らかかった。


 でも、聞いていると、床の風が少し冷える。


「家が姉さんを必要としている。私も、姉さんがいてくれたら心強い。今回のことだって、姉さんが家の中にいてくれたら、もっと早く収まったかもしれない」


 収まった。


 また、その言葉。


 分けるではなく、収める。


「だから、戻って」


 リリア様は言った。


「姉さんも、戻ればいいのに」


 その声は、少しだけ本物に聞こえた。


 少しだけ。


 寂しいのかもしれない。


 困っているのかもしれない。


 セレナ様を利用したいのかもしれない。


 家のためかもしれない。


 自分のためかもしれない。


 たぶん、全部ある。


 人の気持ちは、紙束より分けにくい。


 セレナ様は、長く黙った。


 それから言った。


「リリア」


「はい」


「私は、家にいた時にも水を見ていました」


「知っています」


「でも、止めきれませんでした」


 リリア様の顔が、少し硬くなった。


「姉さんは、いつも強く止めすぎたの」


「そうかもしれません」


「だから、皆が困ったの」


「そうかもしれません」


「だから」


「でも、止めきれなかったものもあります」


 セレナ様の声は、変わらない。


「私が強すぎたものもあります。私が足りなかったものもあります。家が聞かなかったものもあります。あなたが柔らかくしたものもあります」


 リリア様の笑みが、消えた。


 セレナ様は続ける。


「全部あります」


 全部。


 また、その言葉。


 誰か一人ではない。


 全部が少しずつ動いた。


「だから、家へ戻れば全部収まる、とは思いません」


 リリア様は、黙っていた。


     *


 ローデン様が、荷札を一枚持ってきた。


「話の途中だが、これは置いていく」


 商隊の札だった。


 白くない。


 厚い紙でもない。


 油を薄く塗った、少し硬い札。


 濡れてもすぐには破れない。


 黒い点ではなく、角に小さな切れ込みがある。


 切れ込みの数で、扱いが違うらしい。


 ローデン様は、机に並べた。


 一つ切れ込み。


 不明荷。


 二つ切れ込み。


 留め荷。


 三つ切れ込み。


 用途決定待ち。


 斜め切れ込み。


 値下げ転用可。


 丸穴。


 水確認済。


 横穴。


 紐確認済。


 黒点。


 風確認済。


 黒点は、ここにもあった。


 でも、工房の黒い点とは少し違う。


 ローデン様は言った。


「商隊用だ。工房でそのまま使えとは言わない」


 セレナ様が続ける。


「でも、写せるところは写せます」


 サナさんが、紐付きの札を一枚持った。


「これは、布に触れる荷用です。紐をほどいたら、結び跡が残ります」


 セレナ様は水札を置いた。


「これは、水袋用です。濡れたら文字が浮くようにしてあります」


 ローデン様は、わたしを見た。


「風抜き番」


「はい」


「お前の黒い点を商隊で写した。今度は商隊の札を置く」


「よいのですか」


「使えるなら使え」


「使えないものは」


「止めろ」


 短い。


 いつものローデン様だった。


 わたしは札を見た。


 不明荷。


 留め荷。


 用途決定待ち。


 値下げ転用可。


 水確認済。


 紐確認済。


 風確認済。


 工房の札より、外の風がある。


 道で使う札。


 雨の中で使う札。


 荷車の揺れで外れない札。


 商隊の札だった。


     *


 青壺の年嵩の女が、少し困った顔をした。


「青壺の水札と混ざりませんか」


 セレナ様が答える。


「混ざらないように、形を変えています」


「青壺の家では」


「使わなくてよいです」


「では、なぜ」


「香紙工房には、家の水だけでなく、商隊の水も来るからです」


 セレナ様は、わたしを見る。


「ナディさんは、工房にいる。ですが、工房へ来るものは、工房の中だけのものではありません」


 その通りだ。


 神殿の紙。


 薬師組の小布。


 白香の壺。


 青壺の水。


 商隊の外包み。


 婚礼先の不安。


 全部、工房へ来る。


 乾燥場に来る。


 風に入る。


「だから、外の札も一つ置いていきます」


 セレナ様は言った。


「家へ戻る代わりに、ですか」


 わたしは聞いた。


 セレナ様は、少しだけ笑った。


「代わりにはなりません」


「では」


「戻らない者が、何も残さないわけではありません」


 そう言って、セレナ様は、黒い印布を一枚わたしに渡した。


 小さい。


 水袋用ではない。


 札に結ぶための細い布だった。


「黒札扱いを、布で残す時に使ってください」


「黒い点ではなく」


「点が消える時もあります」


「布なら」


「残る時があります」


「濡れたら」


「濡れたことが分かります」


 わたしは、その黒い印布を見た。


 黒い点。


 黒い布。


 留め札。


 水札。


 商隊札。


 増えていく。


 また、増える。


 でも、これは嫌な増え方ではなかった。


 見えないものを見える形にするための増え方だった。


     *


 リリア様は、黒い印布を見ていた。


「姉さんは、本当に商隊の人になったのね」


「はい」


「家へは、札だけ置いていくの?」


「家へは、手順板を送ります」


「手順板」


「青壺家確認水とセレナ確認を分ける板。水見名を記録する板。蓋布乾き確認の板。香紙工房へ渡す前に見る板」


「それで、家に戻ったことになるの?」


「戻ったことにはなりません」


「なら」


「戻らずに、届くものもあります」


 リリア様は黙った。


 その目の奥に、苛立ちが見えた。


 たぶん。


 わたしの見間違いでなければ。


 リリア様は、言葉を落とさなかった。


 背景モブも、悪役令嬢も、ストーリーも言わなかった。


 ただ、笑みが止まった。


 わたしは、それを見た。


 控えには、まだ書かない。


 でも、覚えた。


「姉さん」


 リリア様は、最後に言った。


「外は、そんなにいいところ?」


 セレナ様は、少し考えた。


「いいところではありません」


「なら、なぜ」


「見るものが多いからです」


 リリア様は、息を止めたように見えた。


「それが、姉さんにはいいことなの?」


「はい」


 セレナ様は、はっきり答えた。


「私には、必要なことです」


     *


 ローデン様が、荷車の方へ戻った。


「出るぞ」


「はい」


 サナさんが荷紐を確かめる。


 セレナ様が水袋の印布を確かめる。


 ケンタウロスの蹄音が、外で一つ鳴った。


 ラグさんだろうか。


 姿は見えない。


 でも、商隊が動く気配がした。


 青壺の使いは、まだ納得していない顔だった。


 リリア様も、笑っているが、納得していない。


 サイード様は、白香の手順板を見ている。


 女主人は、商隊札を一枚ずつ机へ並べていた。


 わたしは、セレナ様へ聞いた。


「戻らないのですか」


 今さらの問いだった。


 でも、聞いた。


 セレナ様は、荷車の水袋へ黒い印布を結んでいた。


「青壺の家へ、ですか」


「はい」


「今は戻りません」


「なぜですか」


「家の水だけを見るには、外の水を知りすぎました」


 朝と同じ言葉。


 でも、近くで聞くと、少し違った。


 冷たい拒絶ではない。


 ただの事実だった。


「それに、ローデン商隊には、まだ分からない水があります」


「分からない水」


「はい」


 セレナ様は少しだけ笑った。


「黒札を結ぶ先が、まだ多いのです」


 わたしは頷いた。


 分からないものは、なくならない。


 場所を変えるだけだ。


 青壺の家にもある。


 香紙工房にもある。


 ローデン商隊にもある。


 だから、見る人も動く。


     *


 セレナ様は、最後にわたしの控え帳を見た。


「書いていますか」


「はい」


「私が戻らないことも?」


「書きます」


「家を捨てたとは書かないでください」


「はい」


「追い出されたとも、戻ったとも、書かないでください」


「はい」


「今は、ローデン商隊の水を見る者として出る、と書いてください」


「はい」


 わたしは書いた。


 ――セレナ様。


 ――青壺の家へ、今は戻らず。


 ――家を捨てたとは書かない。


 ――追い出されたとも、戻ったとも書かない。


 ――ローデン商隊の水を見る者として出る。


 セレナ様は、それを見て頷いた。


「ありがとうございます」


「よいのですか」


「何がですか」


「青壺の家の人が、怒ります」


「怒るでしょう」


「リリア様も」


「怒るかもしれません」


「それでも」


「水は、怒りが収まるまで待ってくれません」


 その言葉は、女主人の言葉と似ていた。


 紙は待たない。


 水も待たない。


 香りも待たない。


 だから、見る。


     *


 商隊が出た。


 荷車が動く。


 水袋が揺れる。


 黒い印布が揺れる。


 サナさんの布紐が揺れる。


 ローデン様は振り返らない。


 セレナ様も、長くは振り返らなかった。


 一度だけ、乾燥場の入口を見た。


 それから、前を向いた。


 リリア様は、その背を見ていた。


「姉さんは、変わったのね」


 小さな声だった。


 でも、聞こえた。


 今回は、意味不明ではない。


 普通の言葉だ。


 ただ、風は冷たかった。


「外は、姉さんに合っているのかもしれないわ」


 リリア様は、そう続けた。


 柔らかい。


 でも、少しだけ、遠ざける言葉だった。


 青壺へ戻らない姉を、外に置く言葉。


 セレナ様は、聞こえたかもしれない。


 聞こえなかったかもしれない。


 商隊の蹄音と車輪の音に混じって、答えはなかった。


     *


 商隊が去った後、乾燥場には札が残った。


 商隊札。


 黒い印布。


 水確認済の丸穴札。


 紐確認済の横穴札。


 風確認済の黒点札。


 値下げ転用可の斜め切れ込み札。


 不明荷。


 留め荷。


 用途決定待ち。


 女主人は、それらを机へ並べた。


「全部は使わない」


「はい」


「工房に合うものだけ写す」


「はい」


「名前も変える」


「はい」


「商隊札と工房札を混ぜるな」


「はい」


 混ぜない。


 それが大事だ。


 青壺家確認とセレナ確認を混ぜない。


 白香香見済と黒札扱いを混ぜない。


 商隊札と工房札を混ぜない。


 でも、使えるところは写す。


 写す時は、意味を書く。


 意味が抜けると、また飾りになる。


「ナディ」


「はい」


「新しい箱を作れ」


「また箱ですか」


「また箱だ」


「何の箱ですか」


「外札写し箱」


「長いです」


「では、外札箱」


「分かりました」


「黒い印布は、黒札箱には入れるな」


「はい」


「黒い点とも別だ」


「はい」


「だが、同じ棚に置く」


「はい」


 別にする。


 でも、遠ざけすぎない。


 同じ意味の近くに置く。


 難しい。


 札が増えるほど、棚が増える。


 棚が増えるほど、風が変わる。


 また花弁を落とさなければならない。


     *


 リリア様は、まだ帰っていなかった。


 青壺の使いは先に帰った。


 サイード様も、白香の下働きと一緒に手順板を持ち帰った。


 残ったのは、リリア様だけだった。


「ナディさん」


「はい」


「姉さん、戻りませんでしたね」


「はい」


「あなたは、嬉しいですか」


「分かりません」


「また、それ」


 リリア様は小さく笑った。


「あなたは本当に、分からないと言えば何でも止められると思っているのね」


「思っていません」


「では?」


「分からないものを、分かったふりで流したくありません」


 リリア様は、少し黙った。


「姉さんも、そうだったわ」


「はい」


「だから、家でうまくいかなかった」


「そうかもしれません」


「外では、うまくいっているように見える?」


「見えるというより」


「より?」


「役があるように見えます」


 リリア様の顔が、少しだけ動いた。


「役」


「はい」


「姉さんには役があって、私にはないと?」


「言っていません」


「でも、そう聞こえたわ」


 違う。


 でも、うまく言えない。


 リリア様にも役はある。


 場を和らげる。


 人の顔を見る。


 言葉を置く。


 家の窓口になる。


 ただ、その役が、札の意味を薄くする時がある。


 それをどう言えばよいのか分からない。


「リリア様にも、役はあります」


 わたしは言った。


「どんな?」


「言葉を置く役」


「それは褒めているの?」


「分かりません」


「……本当に」


 リリア様は、笑った。


 少しだけ、疲れた笑いだった。


「イライラする」


 小さな声。


 でも、今度は隠す気がなかった。


 わたしは手を止めた。


 リリア様は、すぐに顔を戻した。


「失礼します」


 そう言って、去っていく。


 白い肩掛けは、今日はあまり揺れなかった。


     *


 わたしは控え帳を開いた。


 ――リリア様。


 ――セレナ様が戻らないことを確認。


 ――ナディへ、嬉しいかと問う。


 ――ナディ、分からないと答える。


 ――リリア様、小声ではなく発言。


 ――イライラする。


 ――背景モブ、悪役令嬢、退場、ストーリーと同系か。


 ――人を役に置く気配、継続。


 書いてから、少し考えた。


 今回は、小声ではない。


 小声ではなく、発言。


 隠しきれなくなっているのかもしれない。


 それも書くべきか迷った。


 女主人に見せると、女主人は言った。


「書くな」


「はい」


「隠しきれなくなっている、はお前の推測だ」


「はい」


「だが、小声ではなく発言、は事実だ」


「はい」


「それだけ残せ」


「はい」


 推測は、香りに似ている。


 確かにある気がしても、書きすぎると混ざる。


 事実は、札にする。


 推測は、分からないと書く。


 その違いも、難しい。


     *


 夕方、外札箱ができた。


 若い下働きが、古い札箱を削って持ってきた。


 外札箱。


 黒い印布。


 商隊写し。


 工房未採用。


 そう書かれている。


「未採用も書くのですか」


 下働きが聞いた。


「書く」


「なぜ」


「採用したと思われると困るから」


「なるほど」


「使う時に、女主人確認」


「風抜き番確認も?」


「はい」


「また増えますね」


「増えます」


「風抜き番、仕事多すぎませんか」


「多いです」


「やめたいですか」


「少し」


「やめるのですか」


「やめません」


 下働きは、少し笑った。


「セレナ様みたいです」


「違います」


「違いますか」


「違います」


 でも、少しだけ考えた。


 セレナ様は水を見る。


 わたしは風を見る。


 サナさんは紐を見る。


 ローデン様は荷を見る。


 女主人は工房の帳を見る。


 違う。


 でも、少し似ている。


 止めるものがある。


 それぞれ、違うものを止める。


     *


 夜、花弁を一枚落とした。


 商隊が去った後の風は、朝より軽い。


 でも、荷車がいた場所には、まだ外の風が残っている。


 花弁は、外札箱の前で少し止まった。


 黒い印布の上へは落ちなかった。


 少し手前。


 工房の風と、商隊の風の間。


 ちょうど、その境目に止まった。


 わたしは、控え帳に書いた。


 ――外札箱前、風境あり。


 ――商隊札、工房札と混ぜず。


 ――黒い印布、黒点と同一視せず。


 ――ただし、同棚近接。


 書いてから、セレナ様の行を見た。


 青壺へ戻らず。


 商隊の水を見る者として出る。


 家を捨てたとは書かない。


 追い出されたとも、戻ったとも書かない。


 その行は、少し不思議だった。


 戻らないことも、戻ったことも、どちらでもない。


 人には、そういう札が必要なのかもしれない。


     *


 姉は戻ったのではありません。


 商隊の札を置いていっただけです。


 そう書くと、冷たく見える。


 でも、今日見たことは、たぶんそれだった。


 セレナ様は、青壺の家へ戻らなかった。


 青壺を捨てたとも言わなかった。


 家を憎んでいるとも言わなかった。


 リリア様を罰したわけでもない。


 サイード様を助けるために残ったわけでもない。


 ただ、ローデン商隊の水を見る者として出た。


 その代わりに。


 いや、代わりではなく。


 手順を置いた。


 商隊札を置いた。


 黒い印布を置いた。


 水見名を残す考えを置いた。


 戻らない者が、何も残さないわけではない。


 そのことを、乾燥場へ置いていった。


 わたしは、外札箱の蓋を閉じた。


 閉じても、中身は消えない。


 青壺の家へ戻らないセレナ様も、消えたわけではない。


 ローデン商隊の荷車の水袋に、黒い印布が揺れている。


 たぶん今ごろ、道の上で揺れている。


 その印が濡れた時、セレナ様は見る。


 工房では、わたしが花弁を落とす。


 水と風は違う。


 でも、分からないものを分からないまま通さないところは、少し似ている。


 今日の花弁は、外札箱の前で止まった。


 明日は、どこで止まるか分からない。


 だから、明日も落とす。

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