11枚目 姉は戻ったのではありません。商隊の札を置いていっただけです
戻る場所がある人は、戻るものだと思っていた。
家。
工房。
神殿。
薬師組。
商隊。
紙束にも、戻る場所がある。
神殿紙なら神殿へ。
薬包み用小布なら薬師組へ。
婚礼香紙なら婚礼先へ。
旅袋外包みなら商隊へ。
戻る場所が決まっていれば、札を書ける。
けれど、人は紙ではない。
戻る場所があるように見えても、戻らないことがある。
その朝、セレナ様は青壺の家へ戻らなかった。
*
ローデン商隊は、朝から荷を整えていた。
香紙工房の前に、荷車が一台。
水袋。
乾き布。
虫避け紙。
旅袋外包み候補。
値下げ転用分。
白香香見済だが神殿不可の紙。
薬師組不可だが外包み可の小布。
全部、札がついている。
ローデン様は、札を読む。
サナさんは、紐を読む。
セレナ様は、水袋の口布を読む。
わたしは、乾燥場から見ていた。
荷車の近くは、工房の風とは違う。
外の風がある。
道の砂。
車輪の油。
荷紐の乾き。
馬ではない脚の踏み跡。
ケンタウロスの蹄跡。
ローデン商隊の匂いがする。
そこへ、青壺の使いが来た。
一人ではなかった。
昨日の使い。
別の年嵩の女。
それから、リリア様。
白い肩掛け。
青い縁。
今日は、香玉をつけていなかった。
香りを控えたのだと思う。
それだけで、話が軽くないと分かった。
*
「姉さん」
リリア様は、荷車のそばで言った。
セレナ様は、水袋の紐を結び終えてから振り返った。
「リリア」
「少し、話せますか」
「水袋を終えたら」
「今でなければ、商隊が出てしまうでしょう」
「はい」
セレナ様は頷いた。
「ですから、水袋を終えます」
リリア様の笑みが、ほんの少し止まった。
でも、すぐ戻った。
セレナ様は、急がない。
水袋の口布を折る。
青い印布。
黒い印布。
灰色の印布。
それぞれ、結び目が違う。
水は同じではない。
印も同じではない。
結びも同じではない。
セレナ様は、最後に指で口布の乾きを確かめた。
「お待たせしました」
「姉さんらしいわ」
リリア様は柔らかく言った。
セレナ様は答えない。
青壺の年嵩の女が、一歩前へ出た。
「セレナ様。青壺の家として、正式にお話があります」
正式。
その言葉で、青い札が見えた気がした。
「はい」
「今回の件で、青壺の水見手順に不足があったことは、家でも認めました」
セレナ様は黙っている。
「水見名の記録。確認水と用途水の区別。婚礼香へ使う水と薬へ使う水の分離。香紙工房へ渡す前の蓋布乾き確認。これらを、改めて整えることになりました」
「よいと思います」
「そのため、あなたに戻っていただきたいのです」
乾燥場の風が、一度止まったように感じた。
戻る。
青壺の家へ。
リリア様は、悲しそうに微笑んでいる。
「姉さん。家も、姉さんの見方を必要としているの」
必要。
その言葉は、優しい。
でも、少し遅い。
紙が戻った後に、必要と言われる。
信用が傷んだ後に、必要と言われる。
止めきれなかった後に、必要と言われる。
セレナ様は、青壺の使いを見た。
リリア様を見た。
それから、荷車の水袋を見た。
「今は戻りません」
短かった。
*
リリア様の笑みが、また止まった。
今度は、少し長かった。
「今は、ということは、いずれは?」
「分かりません」
「姉さん」
リリア様の声が、少し震えた。
「青壺の家が、姉さんを必要としているのよ」
「はい」
「分かっているの?」
「はい」
「なら」
「ローデン商隊も、私を必要としています」
青壺の使いの顔が硬くなる。
「商隊と家では、重さが違います」
「違います」
セレナ様は頷いた。
「だから、私は今、商隊の水を見ています」
「家の水は」
「家の水だけを見るには、外の水を知りすぎました」
その言葉を聞いた時、わたしは控え帳を開きかけた。
まだ書かない。
でも、覚える。
家の水だけを見るには、外の水を知りすぎました。
重い言葉だ。
青壺の年嵩の女が言った。
「外で得た見方を、家へ戻せばよいのです」
「戻せるものは戻します」
「なら」
「私自身は、今は戻りません」
「なぜですか」
セレナ様は、荷車の水袋を指した。
「この水は、青壺の家では扱いません」
次に、乾き布を指した。
「この布は、青壺の家では濡らしません」
旅袋外包み候補を指す。
「この紙は、青壺の婚礼には使いません」
灰色の印布を指す。
「この札は、家の奥棚には置きません」
最後に、道の方を見た。
「でも、商隊では必要です」
ローデン様は何も言わない。
サナさんも何も言わない。
でも、荷車のそばで、その言葉はよく通った。
「青壺の家の水だけを見ていた時、私は止めきれませんでした」
セレナ様は言った。
「今は、荷の水も見ます。道の水も見ます。雨の後の布も見ます。壺の底も、外包みの湿りも見ます」
「それが、家より大事なのですか」
リリア様が言った。
柔らかい声ではなかった。
ほんの少し、硬かった。
「比べるものではありません」
「答えて」
「今、私が見るべき水は、ここにあります」
セレナ様は、そう答えた。
*
サイード様も来ていた。
少し遅れて、白香の下働きと一緒に。
昨日より顔色は悪くない。
でも、白香の袖は少し硬い。
糊を効かせすぎた布のように見えた。
「セレナ様」
サイード様は言った。
「白香の家としても、青壺の水見手順を再調整する際、あなたの知見を借りたいと考えています」
セレナ様は、サイード様を見た。
「白香の香見手順は」
「見直します」
「黒点確認済は」
「使いません。白香香見済と書きます」
「水未見、風未見は」
「書きます」
「止まった跡は」
「残します」
サイード様は、一つずつ答えた。
昨日より、ずっと乾いている。
それはよいことだと思った。
けれど、サイード様は続けた。
「その上で、白香と青壺が再び婚礼香を組むには、あなたの水見が必要です」
「必要なら、手順板を渡します」
「直接、戻っていただいた方が早い」
「早いことと、正しいことは同じではありません」
サイード様が黙った。
セレナ様は、サイード様を責めていない。
でも、逃がさない。
水のようだ。
隙間があれば入り、形が違えば形に合わせる。
けれど、濡れた跡は残す。
「私は、白香のためにも、青壺のためにも、香紙工房のためにも、ローデン商隊の水見として手順を渡します」
「人としては」
サイード様が言いかけた。
セレナ様は少し首を傾げた。
「人として?」
「青壺の長女として、戻る道もあるのではないかと」
リリア様が、サイード様を見た。
その目は、少しだけ安心していた。
サイード様が味方をしたと思ったのかもしれない。
でも、セレナ様は静かだった。
「戻る道はあります」
「なら」
「今、通る道ではありません」
*
リリア様が、一歩前へ出た。
「姉さん」
「はい」
「私、姉さんが嫌いで戻ってほしくないわけではないの」
その言い方は、柔らかかった。
でも、聞いていると、床の風が少し冷える。
「家が姉さんを必要としている。私も、姉さんがいてくれたら心強い。今回のことだって、姉さんが家の中にいてくれたら、もっと早く収まったかもしれない」
収まった。
また、その言葉。
分けるではなく、収める。
「だから、戻って」
リリア様は言った。
「姉さんも、戻ればいいのに」
その声は、少しだけ本物に聞こえた。
少しだけ。
寂しいのかもしれない。
困っているのかもしれない。
セレナ様を利用したいのかもしれない。
家のためかもしれない。
自分のためかもしれない。
たぶん、全部ある。
人の気持ちは、紙束より分けにくい。
セレナ様は、長く黙った。
それから言った。
「リリア」
「はい」
「私は、家にいた時にも水を見ていました」
「知っています」
「でも、止めきれませんでした」
リリア様の顔が、少し硬くなった。
「姉さんは、いつも強く止めすぎたの」
「そうかもしれません」
「だから、皆が困ったの」
「そうかもしれません」
「だから」
「でも、止めきれなかったものもあります」
セレナ様の声は、変わらない。
「私が強すぎたものもあります。私が足りなかったものもあります。家が聞かなかったものもあります。あなたが柔らかくしたものもあります」
リリア様の笑みが、消えた。
セレナ様は続ける。
「全部あります」
全部。
また、その言葉。
誰か一人ではない。
全部が少しずつ動いた。
「だから、家へ戻れば全部収まる、とは思いません」
リリア様は、黙っていた。
*
ローデン様が、荷札を一枚持ってきた。
「話の途中だが、これは置いていく」
商隊の札だった。
白くない。
厚い紙でもない。
油を薄く塗った、少し硬い札。
濡れてもすぐには破れない。
黒い点ではなく、角に小さな切れ込みがある。
切れ込みの数で、扱いが違うらしい。
ローデン様は、机に並べた。
一つ切れ込み。
不明荷。
二つ切れ込み。
留め荷。
三つ切れ込み。
用途決定待ち。
斜め切れ込み。
値下げ転用可。
丸穴。
水確認済。
横穴。
紐確認済。
黒点。
風確認済。
黒点は、ここにもあった。
でも、工房の黒い点とは少し違う。
ローデン様は言った。
「商隊用だ。工房でそのまま使えとは言わない」
セレナ様が続ける。
「でも、写せるところは写せます」
サナさんが、紐付きの札を一枚持った。
「これは、布に触れる荷用です。紐をほどいたら、結び跡が残ります」
セレナ様は水札を置いた。
「これは、水袋用です。濡れたら文字が浮くようにしてあります」
ローデン様は、わたしを見た。
「風抜き番」
「はい」
「お前の黒い点を商隊で写した。今度は商隊の札を置く」
「よいのですか」
「使えるなら使え」
「使えないものは」
「止めろ」
短い。
いつものローデン様だった。
わたしは札を見た。
不明荷。
留め荷。
用途決定待ち。
値下げ転用可。
水確認済。
紐確認済。
風確認済。
工房の札より、外の風がある。
道で使う札。
雨の中で使う札。
荷車の揺れで外れない札。
商隊の札だった。
*
青壺の年嵩の女が、少し困った顔をした。
「青壺の水札と混ざりませんか」
セレナ様が答える。
「混ざらないように、形を変えています」
「青壺の家では」
「使わなくてよいです」
「では、なぜ」
「香紙工房には、家の水だけでなく、商隊の水も来るからです」
セレナ様は、わたしを見る。
「ナディさんは、工房にいる。ですが、工房へ来るものは、工房の中だけのものではありません」
その通りだ。
神殿の紙。
薬師組の小布。
白香の壺。
青壺の水。
商隊の外包み。
婚礼先の不安。
全部、工房へ来る。
乾燥場に来る。
風に入る。
「だから、外の札も一つ置いていきます」
セレナ様は言った。
「家へ戻る代わりに、ですか」
わたしは聞いた。
セレナ様は、少しだけ笑った。
「代わりにはなりません」
「では」
「戻らない者が、何も残さないわけではありません」
そう言って、セレナ様は、黒い印布を一枚わたしに渡した。
小さい。
水袋用ではない。
札に結ぶための細い布だった。
「黒札扱いを、布で残す時に使ってください」
「黒い点ではなく」
「点が消える時もあります」
「布なら」
「残る時があります」
「濡れたら」
「濡れたことが分かります」
わたしは、その黒い印布を見た。
黒い点。
黒い布。
留め札。
水札。
商隊札。
増えていく。
また、増える。
でも、これは嫌な増え方ではなかった。
見えないものを見える形にするための増え方だった。
*
リリア様は、黒い印布を見ていた。
「姉さんは、本当に商隊の人になったのね」
「はい」
「家へは、札だけ置いていくの?」
「家へは、手順板を送ります」
「手順板」
「青壺家確認水とセレナ確認を分ける板。水見名を記録する板。蓋布乾き確認の板。香紙工房へ渡す前に見る板」
「それで、家に戻ったことになるの?」
「戻ったことにはなりません」
「なら」
「戻らずに、届くものもあります」
リリア様は黙った。
その目の奥に、苛立ちが見えた。
たぶん。
わたしの見間違いでなければ。
リリア様は、言葉を落とさなかった。
背景モブも、悪役令嬢も、ストーリーも言わなかった。
ただ、笑みが止まった。
わたしは、それを見た。
控えには、まだ書かない。
でも、覚えた。
「姉さん」
リリア様は、最後に言った。
「外は、そんなにいいところ?」
セレナ様は、少し考えた。
「いいところではありません」
「なら、なぜ」
「見るものが多いからです」
リリア様は、息を止めたように見えた。
「それが、姉さんにはいいことなの?」
「はい」
セレナ様は、はっきり答えた。
「私には、必要なことです」
*
ローデン様が、荷車の方へ戻った。
「出るぞ」
「はい」
サナさんが荷紐を確かめる。
セレナ様が水袋の印布を確かめる。
ケンタウロスの蹄音が、外で一つ鳴った。
ラグさんだろうか。
姿は見えない。
でも、商隊が動く気配がした。
青壺の使いは、まだ納得していない顔だった。
リリア様も、笑っているが、納得していない。
サイード様は、白香の手順板を見ている。
女主人は、商隊札を一枚ずつ机へ並べていた。
わたしは、セレナ様へ聞いた。
「戻らないのですか」
今さらの問いだった。
でも、聞いた。
セレナ様は、荷車の水袋へ黒い印布を結んでいた。
「青壺の家へ、ですか」
「はい」
「今は戻りません」
「なぜですか」
「家の水だけを見るには、外の水を知りすぎました」
朝と同じ言葉。
でも、近くで聞くと、少し違った。
冷たい拒絶ではない。
ただの事実だった。
「それに、ローデン商隊には、まだ分からない水があります」
「分からない水」
「はい」
セレナ様は少しだけ笑った。
「黒札を結ぶ先が、まだ多いのです」
わたしは頷いた。
分からないものは、なくならない。
場所を変えるだけだ。
青壺の家にもある。
香紙工房にもある。
ローデン商隊にもある。
だから、見る人も動く。
*
セレナ様は、最後にわたしの控え帳を見た。
「書いていますか」
「はい」
「私が戻らないことも?」
「書きます」
「家を捨てたとは書かないでください」
「はい」
「追い出されたとも、戻ったとも、書かないでください」
「はい」
「今は、ローデン商隊の水を見る者として出る、と書いてください」
「はい」
わたしは書いた。
――セレナ様。
――青壺の家へ、今は戻らず。
――家を捨てたとは書かない。
――追い出されたとも、戻ったとも書かない。
――ローデン商隊の水を見る者として出る。
セレナ様は、それを見て頷いた。
「ありがとうございます」
「よいのですか」
「何がですか」
「青壺の家の人が、怒ります」
「怒るでしょう」
「リリア様も」
「怒るかもしれません」
「それでも」
「水は、怒りが収まるまで待ってくれません」
その言葉は、女主人の言葉と似ていた。
紙は待たない。
水も待たない。
香りも待たない。
だから、見る。
*
商隊が出た。
荷車が動く。
水袋が揺れる。
黒い印布が揺れる。
サナさんの布紐が揺れる。
ローデン様は振り返らない。
セレナ様も、長くは振り返らなかった。
一度だけ、乾燥場の入口を見た。
それから、前を向いた。
リリア様は、その背を見ていた。
「姉さんは、変わったのね」
小さな声だった。
でも、聞こえた。
今回は、意味不明ではない。
普通の言葉だ。
ただ、風は冷たかった。
「外は、姉さんに合っているのかもしれないわ」
リリア様は、そう続けた。
柔らかい。
でも、少しだけ、遠ざける言葉だった。
青壺へ戻らない姉を、外に置く言葉。
セレナ様は、聞こえたかもしれない。
聞こえなかったかもしれない。
商隊の蹄音と車輪の音に混じって、答えはなかった。
*
商隊が去った後、乾燥場には札が残った。
商隊札。
黒い印布。
水確認済の丸穴札。
紐確認済の横穴札。
風確認済の黒点札。
値下げ転用可の斜め切れ込み札。
不明荷。
留め荷。
用途決定待ち。
女主人は、それらを机へ並べた。
「全部は使わない」
「はい」
「工房に合うものだけ写す」
「はい」
「名前も変える」
「はい」
「商隊札と工房札を混ぜるな」
「はい」
混ぜない。
それが大事だ。
青壺家確認とセレナ確認を混ぜない。
白香香見済と黒札扱いを混ぜない。
商隊札と工房札を混ぜない。
でも、使えるところは写す。
写す時は、意味を書く。
意味が抜けると、また飾りになる。
「ナディ」
「はい」
「新しい箱を作れ」
「また箱ですか」
「また箱だ」
「何の箱ですか」
「外札写し箱」
「長いです」
「では、外札箱」
「分かりました」
「黒い印布は、黒札箱には入れるな」
「はい」
「黒い点とも別だ」
「はい」
「だが、同じ棚に置く」
「はい」
別にする。
でも、遠ざけすぎない。
同じ意味の近くに置く。
難しい。
札が増えるほど、棚が増える。
棚が増えるほど、風が変わる。
また花弁を落とさなければならない。
*
リリア様は、まだ帰っていなかった。
青壺の使いは先に帰った。
サイード様も、白香の下働きと一緒に手順板を持ち帰った。
残ったのは、リリア様だけだった。
「ナディさん」
「はい」
「姉さん、戻りませんでしたね」
「はい」
「あなたは、嬉しいですか」
「分かりません」
「また、それ」
リリア様は小さく笑った。
「あなたは本当に、分からないと言えば何でも止められると思っているのね」
「思っていません」
「では?」
「分からないものを、分かったふりで流したくありません」
リリア様は、少し黙った。
「姉さんも、そうだったわ」
「はい」
「だから、家でうまくいかなかった」
「そうかもしれません」
「外では、うまくいっているように見える?」
「見えるというより」
「より?」
「役があるように見えます」
リリア様の顔が、少しだけ動いた。
「役」
「はい」
「姉さんには役があって、私にはないと?」
「言っていません」
「でも、そう聞こえたわ」
違う。
でも、うまく言えない。
リリア様にも役はある。
場を和らげる。
人の顔を見る。
言葉を置く。
家の窓口になる。
ただ、その役が、札の意味を薄くする時がある。
それをどう言えばよいのか分からない。
「リリア様にも、役はあります」
わたしは言った。
「どんな?」
「言葉を置く役」
「それは褒めているの?」
「分かりません」
「……本当に」
リリア様は、笑った。
少しだけ、疲れた笑いだった。
「イライラする」
小さな声。
でも、今度は隠す気がなかった。
わたしは手を止めた。
リリア様は、すぐに顔を戻した。
「失礼します」
そう言って、去っていく。
白い肩掛けは、今日はあまり揺れなかった。
*
わたしは控え帳を開いた。
――リリア様。
――セレナ様が戻らないことを確認。
――ナディへ、嬉しいかと問う。
――ナディ、分からないと答える。
――リリア様、小声ではなく発言。
――イライラする。
――背景モブ、悪役令嬢、退場、ストーリーと同系か。
――人を役に置く気配、継続。
書いてから、少し考えた。
今回は、小声ではない。
小声ではなく、発言。
隠しきれなくなっているのかもしれない。
それも書くべきか迷った。
女主人に見せると、女主人は言った。
「書くな」
「はい」
「隠しきれなくなっている、はお前の推測だ」
「はい」
「だが、小声ではなく発言、は事実だ」
「はい」
「それだけ残せ」
「はい」
推測は、香りに似ている。
確かにある気がしても、書きすぎると混ざる。
事実は、札にする。
推測は、分からないと書く。
その違いも、難しい。
*
夕方、外札箱ができた。
若い下働きが、古い札箱を削って持ってきた。
外札箱。
黒い印布。
商隊写し。
工房未採用。
そう書かれている。
「未採用も書くのですか」
下働きが聞いた。
「書く」
「なぜ」
「採用したと思われると困るから」
「なるほど」
「使う時に、女主人確認」
「風抜き番確認も?」
「はい」
「また増えますね」
「増えます」
「風抜き番、仕事多すぎませんか」
「多いです」
「やめたいですか」
「少し」
「やめるのですか」
「やめません」
下働きは、少し笑った。
「セレナ様みたいです」
「違います」
「違いますか」
「違います」
でも、少しだけ考えた。
セレナ様は水を見る。
わたしは風を見る。
サナさんは紐を見る。
ローデン様は荷を見る。
女主人は工房の帳を見る。
違う。
でも、少し似ている。
止めるものがある。
それぞれ、違うものを止める。
*
夜、花弁を一枚落とした。
商隊が去った後の風は、朝より軽い。
でも、荷車がいた場所には、まだ外の風が残っている。
花弁は、外札箱の前で少し止まった。
黒い印布の上へは落ちなかった。
少し手前。
工房の風と、商隊の風の間。
ちょうど、その境目に止まった。
わたしは、控え帳に書いた。
――外札箱前、風境あり。
――商隊札、工房札と混ぜず。
――黒い印布、黒点と同一視せず。
――ただし、同棚近接。
書いてから、セレナ様の行を見た。
青壺へ戻らず。
商隊の水を見る者として出る。
家を捨てたとは書かない。
追い出されたとも、戻ったとも書かない。
その行は、少し不思議だった。
戻らないことも、戻ったことも、どちらでもない。
人には、そういう札が必要なのかもしれない。
*
姉は戻ったのではありません。
商隊の札を置いていっただけです。
そう書くと、冷たく見える。
でも、今日見たことは、たぶんそれだった。
セレナ様は、青壺の家へ戻らなかった。
青壺を捨てたとも言わなかった。
家を憎んでいるとも言わなかった。
リリア様を罰したわけでもない。
サイード様を助けるために残ったわけでもない。
ただ、ローデン商隊の水を見る者として出た。
その代わりに。
いや、代わりではなく。
手順を置いた。
商隊札を置いた。
黒い印布を置いた。
水見名を残す考えを置いた。
戻らない者が、何も残さないわけではない。
そのことを、乾燥場へ置いていった。
わたしは、外札箱の蓋を閉じた。
閉じても、中身は消えない。
青壺の家へ戻らないセレナ様も、消えたわけではない。
ローデン商隊の荷車の水袋に、黒い印布が揺れている。
たぶん今ごろ、道の上で揺れている。
その印が濡れた時、セレナ様は見る。
工房では、わたしが花弁を落とす。
水と風は違う。
でも、分からないものを分からないまま通さないところは、少し似ている。
今日の花弁は、外札箱の前で止まった。
明日は、どこで止まるか分からない。
だから、明日も落とす。




