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ラミア香紙工房 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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10/12

10枚目 ざまぁではありません。帳に残った手順違いです

 戻った紙は、乾かせる。


 戻った布も、洗える。


 戻った壺も、中を替えられる。


 戻った札も、書き直せる。


 けれど、戻った信用は、すぐには乾かない。


 濡れた紙より遅い。


 湿った紐より重い。


 香りの移った蓋布より、戻り道が見えにくい。


 神殿から戻る。


 薬師組から戻る。


 婚礼先から戻る。


 商隊が買わない。


 白香の名が止まる。


 青壺の水が止まる。


 工房の棚も止まる。


 その全部が一度に来ると、乾燥場は広いのに狭くなる。


 その朝、女主人は奥帳を持って、乾燥場の中央へ座った。


 誰かを責めるためではない。


 たぶん。


 でも、誰も責められずに済む日でもなかった。


     *


 最初に来たのは、神殿の使いだった。


 今日は紙束を持っていない。


 書き付けだけだった。


 紙がないのに、重い。


 女主人は封を切った。


 赤い封紐が机の上へ落ちた。


 神殿の使いは、目を伏せている。


「読みます」


 女主人が言った。


 乾燥場にいた者たちが、手を止めた。


 若い香読み。


 下働き。


 白香の下働き。


 青壺の使い。


 わたし。


 みんなが、奥帳ではない書き付けを見た。


 女主人は読んだ。


「白香・青壺共同香紙について、神殿での受け取りを一時停止する」


 一時停止。


 その言葉は、黒札より重かった。


「祈祷紙としての香りの安定が確認されるまで、薄香紙、婚礼兼用紙、神前置き紙の受け取りを見合わせる」


 神殿の使いは、小さく頭を下げた。


「神殿として、白香の家と青壺の家を拒むものではありません。ただ、祈祷の場で香りが変わる紙は置けません」


 声は静かだった。


 怒鳴らない。


 だから重い。


 わたしは控え帳に書いた。


 ――神殿。


 ――白香・青壺共同香紙、受け取り一時停止。


 ――香り安定確認まで。


 ――薄香紙、婚礼兼用紙、神前置き紙。


 ――祈祷場不可。


 手が止まらない。


 止まると、抜ける。


 抜けると、後で戻る。


     *


 次に来たのは、薬師組だった。


 薬師組の使いは、神殿より早口だった。


 怒っている時の薬師組は、乾いた葉のような音がする。


「薬包み用小布は、当面、香紙工房の風抜き控え付きのものだけ受け取ります」


 女主人は頷いた。


「白香経由は」


「止めます」


「青壺経由は」


「水確認だけでは足りません」


「薬師組側で見るか」


「見ます。ただし、工房控えが必要です」


 薬師組の使いは、机に小さな札を置いた。


 薬包み用小布。


 工房風抜き控え付き。


 白香式黒点札のみ不可。


 青壺確認水使用時、薬師組再確認。


 香り強きもの不可。


 甘香残り不可。


 棚香戻り不可。


 湿粉判別妨げ不可。


 不可が多い。


 でも、薬師組の札は分かりやすい。


 何がだめかが、乾いている。


 わたしは写した。


 薬師組は、薬を包む。


 婚礼を包むのではない。


 祈りを包むのでもない。


 薬を包む。


 だから、甘い香りは邪魔になる。


 その当たり前が、白香式黒点札では軽くなっていた。


     *


 三番目に来たのは、ローデン商隊だった。


 ローデン様。


 サナさん。


 セレナ様。


 荷車は一台だけ。


 今日は買い付けではない。


 確認に来たのだと、すぐ分かった。


 ローデン様は、乾燥場の入口で止まった。


 中へ入る前に、床を見た。


 それから、女主人を見る。


「入ってよいか」


「入れ」


「荷は少ない」


「見れば分かる」


「買うものも少ない」


 その言葉で、白香の下働きが顔を伏せた。


 ローデン様は、遠慮しなかった。


 荷を買う人は、買わない時も言う。


 黙って買わないより、たぶんましだ。


 たぶん。


 サナさんは、布を見る。


 セレナ様は、壺を見る。


 わたしは、二人の見る場所を見た。


 サナさんは、紙束より先に紐を見る。


 セレナ様は、香りより先に壺の底を見る。


 ローデン様は、札より先に、帳の置き場を見る。


 役が違う。


 見る順が違う。


 だから、分けられる。


「ローデン商隊としては」


 ローデン様が言った。


「白香式黒点札だけの荷は買わない」


 白香の下働きが、肩を震わせた。


「香紙工房の風抜き控え付きなら買う」


 わたしは顔を上げた。


「ただし、用途別だ」


 ローデン様は続けた。


「神殿紙は買わない。薬師組用も買わない。旅袋外包み試し、虫避け外包み、香り付き荷札、値下げ転用分なら見る」


 買う。


 でも、全部ではない。


 買わない。


 でも、全部捨てるわけではない。


 用途で分ける。


 ローデン商隊らしいと思った。


 セレナ様が、一歩前へ出た。


 腰の水札が、小さく揺れた。


「青壺家確認水の札も見せてください」


 青壺の使いが、少し硬くなる。


 セレナ様は、青壺の使いを見た。


 姉。


 長女。


 出された人。


 戻らない人。


 その全部の顔ではなく、水を見る顔だった。


「水は、青壺の家で確認されています」


 青壺の使いが言う。


「誰が」


 セレナ様が聞く。


「家内の水見が」


「名は」


 青壺の使いは、少し詰まった。


「家の確認です」


「名は」


 もう一度。


 声は強くない。


 でも、逃がさない。


 青壺の使いは、ようやく名を言った。


 わたしは控えへ書いた。


 青壺家確認水。


 水見名、記録。


 セレナ確認とは同一視しない。


 セレナ様は、わたしの控えを見て、小さく頷いた。


     *


 サイード様とリリア様が来たのは、その後だった。


 白香の家からは、サイード様。


 青壺の家からは、リリア様。


 二人が同じ時に来ると、乾燥場の空気が別の場所になる。


 婚礼の場のように整えられる。


 白い袖。


 青い縁。


 柔らかい香玉。


 よい声。


 よい姿。


 よい組み合わせ。


 けれど、机の上には、戻った札が並んでいる。


 神殿停止。


 薬師組制限。


 ローデン商隊買い控え。


 白香式黒点札再戻り。


 青壺家確認水分離。


 優しい香りではない。


 帳に残った手順違いだ。


 サイード様は、机の前で止まった。


 リリア様も止まった。


 リリア様は、セレナ様を見た。


「姉さん」


「リリア」


「また、商隊の方として?」


「はい」


「青壺の家の者としてではなく?」


「今日は、ローデン商隊の水を見る者として来ています」


 同じような言葉を、前にも聞いた。


 でも、今日は重い。


 青壺の使いがいる。


 神殿の使いもいる。


 薬師組もいる。


 白香もいる。


 全部の前で、セレナ様は商隊の者と名乗った。


 リリア様は、少し悲しそうに笑った。


「姉さんは、本当に外の人になったのね」


「外の水も見ています」


「家の水は」


「家の水も、水です」


 セレナ様は言った。


「ただし、家の顔とは別に見ます」


 リリア様の笑みが、ほんの少し止まった。


     *


 女主人は、奥帳を開いた。


「今日は、誰かを罰する日ではない」


 乾燥場が静かになる。


「ただし、何もなかったことにする日でもない」


 もっと静かになる。


 神殿の使いが立つ。


 薬師組の使いが立つ。


 ローデン様は腕を組む。


 サナさんは布束の横にいる。


 セレナ様は水札のそばにいる。


 サイード様は白香の札の前にいる。


 リリア様は、少し後ろに立つ。


 わたしは控え帳を持つ。


 女主人が言う。


「神殿」


「受け取り一時停止です」


 神殿の使いが答える。


「理由」


「香りが重いものと軽いものが混じる。祈祷場で安定しない」


「薬師組」


「工房控え付き以外の薬包み小布を止めます」


「理由」


「甘香、棚香、薬臭確認妨げ、湿粉判別不適」


「ローデン商隊」


 ローデン様が答える。


「白香式黒点札だけの荷は買わない。用途別なら見る」


「理由」


「止まった跡がない」


 短い。


 一番短い。


 でも、一番刺さる。


 女主人は頷いた。


「白香」


 サイード様が、少し息を吸った。


「白香式黒点札の運用に不備がありました」


「不備の内容」


「黒点確認済の意味が曖昧でした。白香香見済と、黒札扱いを混同しました。水見、風見、紐見、置き場見を十分に分けていませんでした」


 言えた。


 サイード様は、言えた。


 白香の下働きたちが、少し顔を上げた。


 リリア様もサイード様を見た。


 サイード様の顔は白い。


 でも、言った。


 白香の名で止める。


 昨日の女主人の言葉が、少し残っているのかもしれない。


「青壺」


 女主人が言った。


 青壺の使いが答える前に、リリア様が口を開いた。


「青壺の家としては、確認水の扱いと、姉の商隊での判断が混同されたことに」


「違う」


 女主人が切った。


 リリア様の言葉が止まる。


「青壺の使いが答えろ」


 青壺の使いは、困ったようにリリア様を見た。


 リリア様は、微笑んだ。


 微笑んだが、女主人は見ていない。


 青壺の使いは、仕方なく答えた。


「青壺家確認水と、セレナ様確認の水見が、外から見て分かりにくくなりました」


「内部では」


「家の確認として通したものを、誰が見たかまで明示しませんでした」


「今後」


「水見の名を記録します。青壺家確認と、セレナ様確認は分けます」


 セレナ様は何も言わなかった。


 ただ、控え帳を見るわたしを見た。


 書け、という目だった。


 わたしは書いた。


     *


 リリア様は、まだ立っていた。


 女主人は、ゆっくりそちらを見た。


「リリア様」


「はい」


 リリア様は、いつもの声に戻っていた。


「今回、場を和らげようとしたことは分かる」


「ありがとうございます」


「だが、和らげた言葉で、止める意味が薄くなった」


 乾燥場の空気が変わった。


 白香の下働きが、目を伏せる。


 青壺の使いも、少し固まる。


 リリア様は、微笑んだままだった。


「私は、誰かを傷つけないように」


「知っている」


 女主人は言った。


「だが、結果として、傷が広がった」


 リリア様の笑みが、少しだけ遅れた。


「私だけのせいではありません」


「そうだ」


 女主人は、すぐに言った。


「リリア様だけのせいではない」


 リリア様の顔が、少し明るくなる。


 そこへ、セレナ様が口を開いた。


「毒を盛った者はいません」


 静かな声だった。


「だから、誰か一人を罰して終わりにはできません」


 リリア様の肩が、ほんの少し下りた。


 安心したように見えた。


 でも、セレナ様は続けた。


「ただし、止める札の意味を薄めた者はいます」


 乾燥場が止まった。


「混じった水を、清い言葉で通した者もいます」


 セレナ様は、白香の札を見た。


 次に、青壺の確認水札を見た。


 最後に、リリア様を見た。


「これは毒ではありません」


 セレナ様は、戻った紙束を指した。


「でも、信用を傷めました」


 リリア様の笑みが、消えた。


 本当に一瞬だけ。


 けれど、消えた。


     *


 サイード様は、リリア様の横で黙っていた。


 いつもなら、リリア様をかばうように言葉を入れる。


 今日は入れなかった。


 白香の札を見ている。


 黒い点。


 白香香見済。


 黒点確認済。


 婚礼兼神殿薄香可。


 薬包み転用可。


 その文字が、机の上で全部、軽く見えた。


 軽くしたのは、誰か一人ではない。


 サイード様も軽くした。


 白香の香見も軽くした。


 青壺の確認も軽くした。


 リリア様の言葉も軽くした。


 工房も止めきれなかった。


 わたしも、もっと早く言えたかもしれない。


 誰か一人の毒ではない。


 でも、全部が少しずつ動いた。


 その結果、止まる場所がなくなった。


 女主人は、奥帳へ書いた。


 ――神殿、受取一時停止。


 ――薬師組、工房控え付き以外停止。


 ――ローデン商隊、白香式黒点札のみの荷を買わず。


 ――白香、黒点確認済の文言使用停止。


 ――青壺、水見名の記録開始。


 ――リリア様、危険情報の言い換えにより停止意味を薄化。


 薄化。


 その字を見た時、リリア様の手が動いた。


「その書き方は」


 声が少し震えていた。


「私が、わざと危険を通したように見えます」


「わざとかどうかは書いていない」


 女主人が言う。


「結果を書いている」


「でも」


「リリア様が、黒札、留め札、黒点、確認札の言い換えに関わったことは事実だ」


「場を荒らさないためです」


「その結果、止める意味が薄くなった」


 リリア様は黙った。


 わたしは、控え帳に同じことを書いた。


 手が重い。


 でも、消さない。


     *


 ローデン様は、机の札を見て言った。


「商隊なら、これは役割違いだ」


「役割違い」


 サイード様が繰り返す。


「水を見る者が水を見る。布を見る者が布を見る。風を見る者が風を見る。香りを見る者が香りを見る。荷を見る者が荷を見る」


 ローデン様は、わたしを見る。


「それを、全員が全部見たことにすると、荷は崩れる」


 サナさんが頷いた。


「布もそうです。よく結べていても、違う結びなら別の扱いです」


 セレナ様も言う。


「水もそうです。清い水でも、薬へ入れてよいとは限りません」


 女主人が言う。


「香りも同じだ。よい香りでも、神殿紙、薬包み、婚礼紙、旅袋外包みでは違う」


 全部、同じことを言っている。


 でも、見るものが違う。


 役が違う。


 役が違うのに、全部を優しい香りで包もうとした。


 だから戻った。


 リリア様は、静かに聞いていた。


 静かすぎて、怖かった。


     *


 決定は、夕方までかかった。


 一つ。


 白香式黒点札は、工房では黒点札として扱わない。


 二つ。


 白香香見済札として扱う。


 三つ。


 神殿紙、薬師組小布、婚礼香紙は、香紙工房の風抜き控え、白香香見、青壺水見名、布紐確認、用途確認がそろうまで再出荷しない。


 四つ。


 青壺家確認水は、水見名を記録する。


 五つ。


 セレナ確認は、青壺家確認とは別に記録する。


 六つ。


 リリア様による客前文言の言い換えは、女主人確認なしで札から本来文言を外してはならない。


 七つ。


 サイード様は、白香の名で通すだけでなく、白香の名で止める責任を負う。


 八つ。


 戻った紙束は用途別に再試験する。


 九つ。


 用途不明のものは、値を下げても用途が決まるまで出さない。


 十。


 黒い点ではなく、止まった跡を見る。


 十もある。


 多い。


 とても多い。


 でも、戻った紙の数よりは少ない。


     *


 解散の前、サイード様が女主人へ頭を下げた。


「白香の名で止める手順を、家へ持ち帰ります」


 声は硬かった。


 悔しさも残っている。


 でも、言った。


 女主人は頷いた。


「持ち帰れ。柔らかくしすぎるな」


「はい」


 サイード様は、リリア様を見た。


 リリア様は微笑んだ。


 いつものように。


 けれど、サイード様はすぐにその笑みに寄らなかった。


 白香の下働きへ向いた。


「今日の札を写せ」


「はい」


「黒点確認済は使わない」


「はい」


「白香香見済と書く。水未見、風未見ならそう書く」


「はい」


 白香の下働きが、少しだけ息をついた。


 怒られるのではなく、手順が来た顔だった。


 それなら、少しはましだと思った。


 リリア様は、それを見ていた。


 笑っている。


 でも、目の奥は笑っていない。


     *


 青壺の使いは、セレナ様へ頭を下げなかった。


 ただ、少しだけ言った。


「家へ、今日の水見名の件は伝えます」


「お願いします」


「リリア様の窓口は」


「家の窓口としては、そうなのでしょう」


 セレナ様は言った。


「ただ、水は窓口を通ってから濡れるわけではありません」


 青壺の使いは黙った。


 リリア様の表情が、また少し止まる。


 セレナ様は続けない。


 続ける必要がないからだろう。


 水は、濡れる。


 窓口の前でも、後でも。


 札の前でも、後でも。


 家の顔の前でも、後でも。


 濡れるものは濡れる。


 だから、水見がいる。


     *


 人が帰った後、乾燥場には紙の匂いが残った。


 強い香りではない。


 疲れた紙の匂いだった。


 女主人は、奥帳を閉じなかった。


 乾ききっていない墨があるからだ。


 わたしの控え帳も、まだ開いている。


 リリア様の行は、奥帳には入らない。


 でも、控えにはある。


 ――背景モブ。


 ――悪役令嬢、退場。


 ――ストーリーを乱すの。イライラする。


 ――人を役に置く気配、継続。


 今日、もう一つ書くか迷った。


 リリア様は、小声を落とさなかった。


 でも、笑みが止まった。


 サイード様が白香の札を写せと言った時。


 セレナ様が水は窓口を通ってから濡れるわけではないと言った時。


 女主人が危険情報の薄化と書いた時。


 そのたびに、リリア様の笑みは止まった。


 言葉はない。


 だから、控えにはこう書いた。


 ――リリア様、複数回、笑み停止。


 ――発言なし。


 ――対象、白香手順、青壺水見、危険情報薄化。


 ――意味、不明。


 ――消さず。


 女主人が横から見た。


「それは奥帳には入れない」


「はい」


「だが、残せ」


「はい」


「その顔で紙が動くこともある」


「はい」


 顔で紙が動く。


 言葉で紙が動く。


 家の名で紙が動く。


 白香の名で通る。


 青壺の顔で柔らかくなる。


 神殿の印で重くなる。


 薬師組の不可で止まる。


 ローデン商隊の買わないで値が落ちる。


 全部、紙を動かす。


 なら、顔も風の一部だ。


     *


 夜、わたしは花弁を一枚落とした。


 乾燥場に人は少ない。


 戻った紙束は、用途別に分けられている。


 神殿不可。


 薬師組不可。


 婚礼再試験。


 旅袋外包み候補。


 白香香見済。


 水未見。


 風未見。


 青壺家確認水。


 セレナ確認とは別。


 危険情報薄化。


 この言葉だけ、少し重い。


 リリア様を責めるための言葉ではない。


 たぶん。


 でも、責められたように見えるだろう。


 だからといって、柔らかくしすぎると、また戻る。


 花弁は、机の脚の近くで少し揺れた。


 人がたくさん立っていた場所だ。


 衣の風がまだ残っている。


 白香。


 青壺。


 神殿。


 薬師組。


 商隊。


 全部の風が、少しずつ残っている。


 でも、昼よりは分かれている。


 混ざったままではない。


     *


 ざまぁ。


 その言葉は、わたしの控え帳にはない。


 聞いたこともない。


 誰かが倒れて、誰かが笑ったわけではない。


 サイード様はまだ白香の家の人だ。


 リリア様はまだ青壺の窓口だ。


 神殿は怒鳴らなかった。


 薬師組は全部を捨てろとは言わなかった。


 ローデン商隊は買える用途を残した。


 セレナ様は、妹を罰しなかった。


 女主人も、誰か一人を悪いとは書かなかった。


 ただ、帳に残った。


 白香式黒点札。


 止まった跡なし。


 危険情報の薄化。


 青壺家確認とセレナ確認の混同。


 白香香見と水見、風見、布紐見、置き場見の混同。


 神殿受取一時停止。


 薬師組制限。


 ローデン商隊買い控え。


 それは、笑うための記録ではない。


 次に同じ紙を戻さないための記録だ。


 だから、これは、ざまぁではありません。


 帳に残った手順違いです。


 そう書くと、少し変な言葉になる。


 だから、奥帳にはこう残った。


 ――同件、再発防止手順へ移す。


 女主人は、その一行を書いて筆を置いた。


 わたしは、控え帳を閉じた。


 今日は、閉じてもよいと思った。


 完全に終わったわけではない。


 でも、混じったままではなくなった。


 神殿は神殿。


 薬師組は薬師組。


 婚礼先は婚礼先。


 白香は白香。


 青壺は青壺。


 商隊は商隊。


 セレナ様はセレナ様。


 リリア様はリリア様。


 サイード様はサイード様。


 わたしは、乾燥場の風抜き番。


 花弁は、黒い点の札の下ではなく、奥帳の前で止まった。


 今日の風は、帳へ向かっていた。


 なら、書く。


 戻った紙が、次は戻らないように。


 優しい香りが、止める意味を薄めないように。


 黒い点が、また飾りにならないように。


 そして、誰かの笑みで、紙束が勝手に動かないように。

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