2023年5月、フライシュタート・バイヤン㉑
「メイアン」
一初はゆっくりと回り込んでメイアンの正面に立つ。先程したように顎に肩の先を引っ掛け、顔を上向かせた。
「もう、なにもかも、放り投げてしまったって、いいんだぜ」
「…いっ…いっちゃん?」
「どれもこれも、メイアンは巻き込まれただけじゃないか。クレイウォーター?グレイシャ計画?薔薇の本家の跡継ぎ?贋作師?ビーバー?どれもこれも、メイアンが解決に導かなくてもいい話だ。クレイウォーターはレイヴンモッカー達に、グレイシャ計画は秋津運輸に、本家のことは本家に、贋作師は警察に、ビーバーはビーバーに、それでもいい筈だ」
グレイシャ計画のことは、何故秋津運輸なのだろうと引っかかったが、メイアンはぎくしゃくと顎を引く。
「あ、うん…」
「全部放り出して今直ぐ村上に来いよ。泥っ泥に甘やかしてやる」
顔を持ち上げられたままのメイアンはびくりと体を揺らした。息を呑んで竦んだのだ。一初は目を細めた。
「…愛いやつめ」
「だ、だっていっちゃん」
「おれが怖い?」
「きょ、極端なこと言い出すから…それも性急に」
「おれはいつも言ってきたつもりだが。無論、メイアンがそう易々と全部を放り出せないことを承知で言っている。だが背負うものを減らしたって、誰もなにも言わない。だのに寧ろ逆に余計に背負わせようとする。おれがそういうのに腹を立てていないとでも?」
「どう…して、いっちゃんが腹を立てるの」
「おれの大事な女に次から次へとなに押しつけてくれてんだって、怒りが湧かなかったらおれ、失格だろうが」
「失格って、いやいやいやいや」
軽い調子になりかけて、メイアンは言葉を止めた。顎を更に上げて一初の嘴から外すと、一初全体に腕を回した。
「…ごめん。いっちゃんだって、不安になるよね」
「狡いね」
「そういうつもりじゃ…そうだね。贋作のことはゼップが自分でなんとかする、させる。急がなきゃなんないのは、エヴァさんの寿命のことだけだから。他のことは、もう大体やっつけた。そりゃ、グレイシャ計画のことは全然片づいてはいないけれど、うん、表立って今やることじゃない。必ず、夏休みには村上に、戻るよ」
村上に行くではなく、村上に戻ると聞いて一初はメイアンには見えない角度で目尻を緩ませた。
「ん。わかっているなら、いいんだ。夏休みを安寧に過ごしたいって、そういう気持ちで欧州にいるんだっておれも理解してるさ。ピンクレモネード達もウルムの紅花橡も、皆んな待ってる」
ウルムの紅花橡でメイアンは身を硬くした。
「どした」
「あ…いや、その。いっちゃんの言う通りだったというか…その… 西洋大根草と西洋夏雪草と西洋水木の…その…種子を、だね」
「ん?やっぱり三種類も種子を押しつけられていたか。それは村上でも育つのか?」
「西洋大根草はゲウム、西洋夏雪草はメドゥスウィート、西洋水木はレッドドッグウッドって英名の方が通っていると思う、ミュンヘン近郊で手をかけなくても育つんだから、多分…平気」
メイアンは鈍々と身を離した。
「言ったろ。行く先々で種子を押しつけられるなよって。村上は豪雪地帯なんだからさ。ま、押しつける連中もわかってそうしたんだろう、気に病むな。次に逢うときにもらおう、早速播いておく。ゲウム…はあの花かな、庭の色味に合うピンクじゃなかったから考慮しなかったが。メドゥスウィートはハーブの括りで見かけたことがある。どちらもバラ科だったか。レッドドッグウッドってことは水木の仲間か。ドイツの内陸はどれだけ雪降るんだろうか、暑いのにも耐えられるのかなあ。勝手な連中だ。今発芽させればそこそこな大きさの苗にできるかな、まだ間に合うだろうか」
大抵の温帯植物の発芽適温は15℃以上である。丁度桜の散る頃が適宜であるから、既に二ヶ月程遅れてしまっている計算になる。
「面倒を、ごめん」
「なぁに、多分大丈夫さ。メイアンはまだかって責っつく連中が増えるだけ。折角歴史ある土地にいるんだ、旨いもんいっぱい食ってこい」
一初は嘴を頰に当てた。途端に周辺の白さが失われてゆく。
全てを投げ捨てて村上に来てしまえという誘いは途轍もなく魅力的だった。できることならそうしてしまいたい。否、一初の言う通り、そうしたとしても誰に咎められることもない。だがメイアンをまだ引き留めたのは行く先々でなんとなくやりかけになってしまったようなできごとの数々だ。全てに鳧をつけられるとは思っていないが、納得のできる道筋をつけたい。傲慢な気もする。
瞼がおりている感覚が甦ってくる。そうだ眠っていたのだと身体が思い出したらしい。それはもう目覚める時間なのだという意味でもある。今ここはミュンヘン、ギージング。一夜の恩に朝飯でも拵えよう。果たしてゼップは冷蔵庫になにをストックしてるのだろうかと、メイアンは身を起こし頭を掻いた。なにより熱いシャワーが先だった。




