2023年5月、フライシュタート・バイヤン⑲
ギージングに着いたのは午前三時を回っていた。かなり飛ばしてきたと思う。流石に静まり返っていて、NSRの乾式クラッチが甲高く響く。幹線道路から外れて直ぐメイアンは慌てて己を音漏れしないよう陣で包んだ程だ。
ソフィア・グートシュティッカー・パークに沿って走る。公園は海のように真っ暗だ。住宅街を前照灯で切り裂きながら進み、フォルラーニの自宅へと辿り着いた。以前西洋水木の精が勝手に押した呼び鈴を一旦躊躇ってから押した。この時刻では然しものゼップ・フォルラーニとて就寝してるのてはないかと一瞬思ったからだが、フォルラーニは直ぐに応対に出てきた。スロットが開いて閉まり、扉が開く。
出てきたのは最初に出会ったときの老人の姿だった。
「非常識な刻限だな」
「出来得る限り早く辿り着いてやろうという優しさだ」
「忘れていなかったのだから、歓迎する。初夏とはいえ冷える、入るといい」
老人らしい頑なな言葉が並んだが、内心では安堵があるようだとメイアンは口許を綻ばせた。
「バイクで来たのか。どこからだ?」
「途中バイクじゃないところもあるけど、プラハから。ゼップこそ、寝てなかったの?」
「…あぁ…いや、その…エヴァとは長いつき合いだが、絵を贈ったことがなかったなと、そのなんだ、今更だが」
「今描き始めても、直ぐには渡せないでしょうよ」
「うむ。描くのはそう時間は要らない、だから乾くまで元気でいてほしいと、伝える」
フォルラーニは鼻先や耳の先が朱く染まっていた。素直になるのは、悪くない。
「エヴァさんにセルジュには遺さないようにだけ念を押しなよ。あいつ、絶対に遺品とかそういう情念なんてなさそうだからね?」
フォルラーニは顎を引き、プラハからの大移動は疲れているだろうと軽食を出そうとした。
「いや、少し休ませてくれる?そこら辺のカウチでいいからさ。良い子のゼップも根を詰めないで眠らないと」
「言うね。客間がある、シャワーは朝でいいか?」
「ありがたいね、そうさせてもらう」
客間は独り暮らしのフォルラーニにしてみれば単に余っている部屋でしかないようだったが、エヴァが夫を伴って訪ったときに使えるようにしていたらしい。清潔で整っていた。
一初にメッセージを送る。
>着いた。
スマホを胸に載せ、ベッドに仰向けになる。灯は落としてある。目を閉じなくても殆ど闇だ。
が、不意に白くなった。
「…待ち構えてたでしょ」
「当たり前じゃん。ギージングがどこだかわからなかったからな」
「ミュンヘン郊外だよ、言わなかったっけ。ごめん」
「まあ、いいさ。独り?」
「暖海法師がウルテを引き受けてくれて、ポジェブラディでちょっとした引率係になってくれてる。レイヴンモッカーとリントヴルムを引き合わせる理由なんてどこにもないもん」
「気の回る方だな。明日はパリへ戻るのか」
「ゼップがエヴァさんの居所を知っていれば直接そちらへ行くけど。多分パリのセルジュ…セルジュ・デュファイエを訪ねてみないと居所は掴めないんじゃないかなあ」
「何故画商のところへ?」
「セルジュはゼップとエヴァさんの関係を微妙に食い違わせる為に、互いに直接連絡を取らないようにしていた節がある。無論、エヴァさんが行動力を発揮すればギージングのゼップの家を直接訪れることはできたよ。電話だってある。けど、段々と老いてきて足も重くなってきてた。元気なのはゼップだけ。でもゼップは仙の自覚なく贋作師やっててエヴァさんを訪ねることはない。間を取り持つのはエヴァさんの息子のセルジュ・デュファイエだけ。そうしてエヴァさんとゼップの間に物理的に隔たりができちゃったというわけ」
一初は少し考え込んでいるようだ。
「調べてみよう」
「えっ、や、いいよ」
「何故遠慮する」
「だっていっちゃんだって忙しいでしょう。お、お昼ご飯、なんだか手間かけて用意してたみたいだしっ」
一初はぶふっと吹き出した。
「あれか。兄さん達が昨日の夕方から出かけてて、昼過ぎに帰ってくるんだが、少し時間がずれ込むんでな、以前受けたリクエストに応えようと思っただけだ」
「リクエスト?」
「そ。お家点心とかやってみたいもんだねって、極々軽〜ぅいの。中国茶を二種類くらいと、点心メニューを幾つか。ああいうちまちましたものって手間がかかるだろ?だから下拵えっつか、もう揚げる蒸すの一歩手前くらいまで作っとこうかなってね」
「ほぇ〜、なに作ったの?」
「点心って、空腹つまり空心に小食を与える…点ずるって意味で、本来なんでもありなんだが、それっぽい方が雰囲気も出るから、海老餃子に焼売、小籠包、焼き蘿蔔糕、春巻き、杏仁豆腐、胡麻団子と愛玉子、蛋撻」
「…大変じゃん」
「そうでもない。餃子と小籠包は同じ皮を使う。春巻きの中身は市販の麻婆春雨だ。大根餅は上新粉だからストックがある。杏仁豆腐はなんちゃってだ、アーモンドエッセンスで香りづけした牛乳寒。胡麻団子は白玉粉。タルトの皿部分は百均でも売ってる」
「愛玉子は?」
「頼めば直ぐ届く。どうせ枸杞の実とかも必要だったんだ。あとは揚げて蒸して焼くだけ」
「いっちゃん、まめだねぇ…」
「メイアンにも作ってやるよ?早く村上に、来い」
言うと思った。
嘴の先で顎をくいと引っかけられてメイアンは真っ赤になる。人の姿であったなら、指で上向かされたのか、唇で戯れられたのか。どちらにしても際どい。
「いっちゃんに到頭餌で釣られるようになってしまった」
「こんなものでメイアンが釣れるなら幾らでも作るぞ?」




