2023年5月、クラーロヴェフラデツキー・クラィ④
「…だって、メイアンもひとりで」
「どうだろ」
メイアンは眼前に広がる広い湿地に目を向けた。
「ディズマルをぶっ壊したのは半ば私怨だし、カンピーの暴走もあった。けれどそっから先、なにかするにつけ、誰かが大小手を貸してくれたよ。顕然と、隠然とね。だからウルテだって全部自分でやっちゃおうだなんて思わなくていい。プラメンラベの黒い子問題も、ブルディへのビーバー導入も、きっと誰かがいい知恵を持っている」
ウルテはやっと頷いた。メイアンは人の姿に戻った。ウルテも続く。
「よし、目処はついた。ポジェブラディ組は無事ケーキを買えたかな?プラハに戻ろうよ」
浅い流れの水面に黒い物体が浮かび上がって陽の光を弾いた。黒い鼻、円らな瞳がこちらを向いている。この辺りのいち家族の中の、不幸な位置にいる黒いビーバーだ。随分観察させてもらったっけ、と目を細める。するとそのビーバーも目を細めたように見えた。ビーバーの感情表現はどういったものなのか知らない。しかしなんだか笑みをもって会釈して返してくれたような、そんな気がした。
プラハに戻ったとき、スマホが鳴った。暖海からだった。今晩はプラハに戻れないという。理由は述べられていなかった。
ウルテが心配げに黙り込む。
「プラムがなんかやらかしたんだろうか…それともあの一角野兎?」
「ケーキ買いに行ってなんで帰れなくなるのさ」
ふとメイアンは別の考えが脳裡に浮かぶ。もしこ想像が正しければ、と思ったそのときウルテが立ち上がった。
「ポジェブラディに行ってくる」
「暖海さんがついてるよ」
「その暖海から連絡してきたってことは収拾つかないってことでしょう」
決定的だな、とメイアンはそっと息を吐いた。
「必要無いと思うけど?」
「メイアンは、いいよ。次の用もあるんでしょう。私は行くよ。…仮に暖海がなにか企んでいるにしても」
「プラムの保護者だから?」
「Noとは言わないけど、私がそうしたいからだよ」
「ウルテのしたいようにするなら止めない。もう暗い、鴉の目で飛べる?」
「ふふ、駄目なら列車を使うさ」
そう言ってウルテはまた駅へ引き返していった。
姿が見えなくなるとメイアンは徐にNSRを出した。暖海の意図は独りで行けということなのだろうと推察していた。ウルテを巻き込むなということなのかもしれないし、ウルテにこれ以上欧州での交友関係を広げさすなという鋭い警告なのかもしれない。いずれにしてもウルテは贋作問題には無関係だ。いちから説明するのも面倒なのは確かだ。
エンジンをかけると跨ってグローブを嵌めた。ヘルメットを被って上着のジッパーを首元まで上げる。宜しくねとNSRに呟いてスタンドを払い、スロットルを開く。国境線近くまではこれが一番早いだろう。
ゼップ・フォルラーニを訪ねたのはこの前の日曜日、二十一日だ。今日はもう二十六日、ゼップとの約束は二十八日だからもう一日と数時間ということになる。忘れていたわけではないが、焦りが無かったのは事実だ。まだ一週間ある、これは怠慢だったかもしれない。プルゼニを過ぎ、国境が近づいた頃には深夜に近かった。
老いない体だが、眠気はある。適当に投宿しようかとも考えたが、一旦国境は越えてしまいたい。一旦バイクを停めると一初にメッセージを送る。
>今からチェコからドイツへ入る。闇に紛れてミュンヘンに戻りたいから時間が取れない。ごめん。
返信は直ぐ来た。
>夜は眠るものなのに。
>リントヴルムと二十八日にパリへ発つと約束しちゃったんだ。ギージングに着いたら休ませてもらうつもり。
>わかった。こっちは土日休みだから気にすんな。
ほんの少し笑みが零れてしまう。一初は待ち構える気だ。
>寝床を借りたら連絡する。やだよ、ずっと身構えていないでね?
一初が苦笑いしてるさまが思い浮かぶ。
>昼飯の支度しながら待ってるよ。
それは大層入念な昼食の支度だなと思いながらスマホを仕舞い、NSRも仕舞った。




