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狐と踊れ  作者: 墺兎
148/342

2023年5月、京都㊾

土曜で、まだ世間はゴールデンウィークである。しかしセヴンホークにはぽっかりとできてしまった人生の空き時間だった。空き時間であるのに、自由は利かない。

あのとき、ちらと見えたもの。あれは、なんだ。

サイズ、形状はティンカーベルを直ぐに思い至らせた。しかし、濃い栗色の髪、腕には拘束具を匂わせるアクセサリー…サンダルも古代ローマの戦士を連想させた。現代的といえば、そこまでかもしれない。そういうファッションアイテムがあることはセヴンホークとて知っている。だがいとけない少女に唆すように囁いて、明らかに北叟笑んで、…その笑みを残して、消えた。

妖精フェアリー

人の形をしながらも、善でも悪でもない存在だと伝わっている。伝説でしかない筈。

あの薄い羽で、小さいとはいえ人の形をしたものを宙に浮かせる揚力を得るのは不可能だ。虫の体は軽く、羽は途轍もない振動回数で飛翔力を得ている。鳥が飛ぶのは、鳥の骨が空洞で見た目より軽いのと、翼と駆け上がる蹴り足の強さ、滑空力にある。大体、腕があるのに背中に羽があるとは、どういう理屈だ。

謎の存在がいたというだけでも混乱を極めるというのに、純恋はそれと話し、嗾けられた…と思われる。特別なにかを害してくることはないが、セヴンホークが逃亡すると思い込んでいる…あの妖精フェアリーは多分そう教え込んだ。

確かにセヴンホークは逐電を目論んでいる。純恋が妨げなければ今ここにはいなかっただろう。純恋の妨害は妖精フェアリーの教唆に依るものだ。

ここまでなら父親を恋しがる子供のいい話である。だが妖精フェアリーが一瞬残したあの嘲りを含んだ当意の笑み…あれは絶対に子供の為に心温まる薫染成功を寿いでいる顔ではなかった。子供を上手く操ったという底意地の悪い笑み。

純恋を操り、セヴンホークの行動を制限した。

そして制限されたセヴンホークを嘲った。

考えれば考える程不気味でしかない。ひと所に留まるのは危険だと判断した矢先。美智にクローン体であると暴露されてしまったこのタイミング。父親であるのに、娘の喉元に刃物を突きつけ人質として扱ってしまった直後。どれをとっても居られない居たくない居た堪れない状況下で留まれとは、残酷を通り越して惨虐である。

不気味の正体のひとつに、あれが妖精フェアリーだということもある。ここが英国なら、それなりに納得していたことだろう。欧州や北米ならそういうこともあるやもと諦め受け入れざるを得なかったのではないだろうか。だがここは日本だ。妖精という言葉はあるようだが、フェアリーと呼ばわって来たのではない。あんな…手足をすらりと伸ばして?透明な羽をつけて?身につけているものの傾向は現代では日本でも手に入るが、異国的要素が強過ぎる。土着のものとは思えない。妖精フェアリーとは持ち込まれるものなのだろうか?或いは自ら国境線を越えて乗り込んでくるものなのか?

もし妖精フェアリーの思惑に乗らずにセヴンホークがどこかへ消えたらば、どうなる?既に純恋は父親セヴンホークは共に暮らすのが最上と染め上げられているから、相当な悲嘆に暮れてしまうことだろう。そんな弱ったところへ意に沿わない怒りをぶつける…あり得る。妖精フェアリーが本当に制禦コントロールしたいのは、セヴンホークだ。だからセヴンホークに当たればいいが、彼が消えたら腹いせが向かう先はどこだ?手近で縁の深いところに向かう…純恋を容易く利用したのだ、当然のように鬱憤は純恋に向かうに違いない。

和歌山で純恋の喉笛に刃を突きつけたセヴンホークだが、あの場で最も抵抗力が弱く視覚的に効果の高い人質を選んだら純恋だった…のだと思っている。その裏で本気で人質として忌避すべきと思っていないセヴンホークには娘に対する情や愛に似た執着が無いのだが、セヴンホークはそこには完全に目を瞑っていた。人質として扱った罪悪感や後悔の弁明代わりに父親であろうとしている、それを彼は父性に目覚めたと思い込んでいたからだ。故にもう逃げ出したりはしない…と固まった決意を反芻する。多分、と自己弁護の余地が常に付随しているのを見えないことにしているのが、正しくない証拠。

己の思考と感情なのだ、的確でないことは芯のところでわかっているのに、偽りたい本音が塗り潰している。結果まだ遁走が視野にあり、妖精フェアリーを恐れるのだ。

朝になるまで純恋はセヴンホークの身体のどこかを必ず掴んでいた。体ごと抱きついてこないのは、彼の為出しでかした蛮行の報いだ。だが情の薄いセヴンホークにはそんな報いがあるとも知らずに、純恋の腰の引けた思慕だけで父親としての満足を得てしまっていた。と同時に役割も果たしていると勘違いも起こしていた。だから妖精フェアリーは夜通し現れなかったのだと。

「甘いな」

「甘いよ。でもまあこの家を離れなかったのが、好結果を生んだ。さて今日はどう出るかな」

メイアンは昨日やり残したバックギャモンの駒の残りを作っては日光に当てようとしたが、空は曇り充分な日光は望めそうにない。仕方なくUVライトを用意しながら言う。

「今日の夜は、雨?」

「ああ。明日も雨だろう」

「雨かぁ…濡れそぼる夜の京の街、尾灯テールランプが赤く滲むなかトレンチコートの襟を立てて身を竦めて闇に消える…なんて馬鹿げたハードボイルドを極めようなんて思いついたら、アウトだな」

「えらく極め極めだな」

「形から入るところがある」

「トレンチコートを破り捨てたらいい」

「あはっ、それやろう。燃やした方が効果覿面?」

「どちらでも構わんだろう。燃やせば燃えた痕跡が、破れば残骸が残る」

「これから糞暑くなる京都でトレンチコートを買い直すのは至難の業だろうなあ」

UVランプをセットし、できあがっている駒のバリを取って鑢をかける。

セヴンホークは出口を見失うというより見ないふりで逡巡を繰り返し身動きが取れなくなり、純恋はそれでも動き出すのではないかと監視の手を緩めず、時間だけが過ぎていった。傍目には父娘はボードゲームをしたりカードで遊んだりしているようにしか見えないことだろう。しかしそれらは純恋がセヴンホークを拘束する見えない枷であり、途切れることを彼女は絶対に許さなかった。

一方メイアンはのんびり作業を続け、昼食も家事も手伝って時間は緩やかに流れてゆく。

「こんちはぁ」

アキと久我は十分程置いてそれぞれの仕事を終えてやってきた。ハイネックのカットソーにキャミワンピースを合わせたアキは少しだけもじもじしている。

「アキ!可愛いじゃん!久我、似合うと思わない?」

「うん。姉ちゃん裾が動くスカートいいね。そんなの持ってたんだ〜?」

「も、も、持ってた」

「水色が季節に合ってるよね、メイアン」

「もっと褒めてやんな、久我」

「えぇ?だって姉ちゃん元から綺麗だし…あーでもこのおばさん結びは若くないよ」

久我は矢庭に手を伸ばし、早くも顔に血の気を上らせまいと奮闘しているアキの髪から飾り気の少ないシュシュを抜き取った。

「うわ、髪さらっさらじゃん」

久我は自慢げににこーっと笑う。

「ね?姉ちゃん綺麗でしょ?」

メイアンの両側にいつの間にか座っていた菫と熊がひそひそと言う。

「女殺し」

「ジゴロ」

「口八丁」

「将来ヒモ暮らし」

メイアンは慌てて両腕を回して菫と熊の口を塞ぐ。

「可愛く結び直してやんなよ、なっ」

菫と熊がどこまでなにを意図したのかわからないが、今久我の株を下げる必要はない。取り敢えずふたりはメイアンの手を暴れて外そうという気は無いようだ。なんで今忠遠はここにいないんだ。久我は気にならないのか、アキの背後に回ると項を撫で上げるようにして髪を纏めて括り直した。アキが結んだより弾力に富んだ躍動感があった。

仕上がり云々以前にアキが目を回しかけていた。項に触れられたのは相当刺激的だったらしい。これは先が思いやられるな、と両側から菫と熊に支えられるアキを見て思う。

「姉ちゃん大丈夫?」

「た、多分大したことない、からっ」

「五位鷺、氷水」

「はっはい!」

メイアンは久我を追って台所へ行くと、グラスを用意したもののそれを前に己の手を握ったり開いたりしている久我がいた。不思議そうに己の手を見ていた。

「どした」

「あ。メイアン。俺姉ちゃんになんかされたかな?」

いや寧ろしたのは久我の方だ。

「姉ちゃん首ってあんなだったかな?華奢っつーか、白くて、すべっとしてて…メイアン、ちょっと首見せてよ」

「やだよ」

「生際って、え、あれなに?ぞくってしたよ」

「アキの髪結ぶの、初めてなの?」

「ううん。昔から何度も…」

だからなんかされた、なのか。

メイアンは水差しを取り出すと氷を詰め、水を汲んだ。

「アキの項が綺麗だったんだろ。人間のパーツで艶かしい部分のひとつだ」

「艶かしい…」

グラスをもうひとつ取り出して盆に全部載せる。アキも久我も少し冷静になった方がいい。持ってゆけ、と盆ごと押しつける。

「俺…メイアン…」

久我は顔を歪めていた。そういう混乱を抱えてしまったか。

「二心を持ったなんて言わないよ、安心しな。魅を以前説明してくれたろう…不思議な力なんだ。あちこちに引っ張られることだって、あるさ。謎の多いゆるい世界。久我にも惹かれるものが沢山現れるときが来た」

「…俺そんなあっちにもこっちにも目移りするの?嫌だ!」

盆の上でガラス製品が触れ合ってがちゃがちゃと音を立てる。メイアンは盆を掴む久我の手に掌を重ねた。

「落ち着け。惹かれたからって、いけないのか?桜がいい。蓮華もいい。水仙もいい。蒲公英もいい。そう思うことは、罪か」

久我はゆるゆると首を振る。

「最終的に薔薇がいいなら、薔薇を愛でたらいい。牡丹がいいなら牡丹だけを確り守ってやればいいよ。薔薇と牡丹を一遍に、というとなると小器用にならざるを得ないが、久我にはできるか?」

「多分無理…俺花育てたことない」

「真っ白な大輪の牡丹が咲く瞬間は圧巻だぜ」

「薔薇だって、素敵だよ」

「棘のある花なんか選ぶなよ」

「棘なんか、ないよ」

「どうだか。ふふ、結局ね、花を育てるにはその花との相性が一番大事なの。いきなりカトレアを育てるとか言い出すなら、考え直せと言うよ」

「ああいう肉厚な花はちょっと…」

「まあ、先ずはアキに冷たい水。久我も喉を冷やしてこい」

アキが白い牡丹なのは良いなと思ったが、メイアン自身が薔薇だなんて烏滸がましい。それもピースを思い浮かべてしまった。世界中で花を咲かせるピースに謝って回りたい気分だった。

台所の花瓶には以前折紙で作って姿を与えた薔薇とチューリップがまだ飾られている。こんなの見たらまた泣きたくなるじゃんよ、と冷蔵庫の扉に額をつけた。茶の間に戻らなくちゃ、と思うも、動けない。行きたくないのではないのだが、億劫な気分だ。

…鬱になったみたい。

それを認めることすら暗澹たる気分になるのに、と思ったとき、尻ポケットに入れたスマホが揺れた。

この振動はメッセージだ。

開くまでもなく、一初からだった。

>苗、届いた。

もうこれだけで嬉しそう。流石に一気に軽くなるとはいかなかったが、すっと心が上向いた気がする。

>レモンとブルーベリーなのに、どちらもピンクレモネードなんて同じ品種名なのが、運命的ななような、笑えるような。

そうだろうそうだろう。そこは狙っていた。

>ブルーベリーなのに、ピンク色で完熟というのも逆説的で面白い。レモンは収穫して包丁を入れなければピンクとはわからない、拘ったピンクの在り方には目から鱗だ。

…ああもう、セヴンホークもグレイシャ計画も忠遠も久我もアキも放り出して、一初に駆け寄りたい。レモン苗とブルーベリー苗のように箱詰めされて運送会社に運んでくれとS(サービス)D(ドライバー)を呼んでしまおうかしらとさえ思ってしまう。

ブルーベリーは露地植えにしても多分耐えられるだろうが、レモンは心配だと続いた。特にピンクレモネードは白い斑が大きく入っていて、葉も薄い。雪以前に霜にすら負けてしまいそうだと一初は優しい分析を送ってきた。レモン苗に嫉妬してしまいそう。

>念の為どの苗も大きめの鉢に植えて夏中確り育てることにした。

今後樹を大きくして当然実らせることを考えて樹形を考えると、という内容を送ってみる。一初は果樹を育てるのが初めてらしく、そこに思い至らなかったことを反省しきりだった。ブルーベリーはシュートのような勢いのある枝が突然伸びてきて株全体が更新されるようなところがあるが、レモンは早く摘芯してしまうと樹形が下溜まりになって土撥ねで病害を起こしてしまうかもしれない。小さい苗に吝嗇ってごめん、と送ると明るい返事がきた。

>今後果樹が増えるかもしれない。こんな知識がつく機会がメイアンの選んでくれた苗からだなんて、嬉しいんだ。

苗を持参したかった。

一緒に植えて、共に見守り、額を突き合わせて寒さ対策を考えて実りを待ちたかった。

スマホの画面に額をつけて、もう唸る寸前だった。

>毎日灌水のときにふたつのピンクレモネードに恩着せがましく言っておくんだ。メイアンがおれとおれの庭に絶対に必要不可欠だとお前達を選んだのだって。メイアンの為に確り育って、美しい姿を絶対に見せるんだよって。

一初は無意識に泣かせる達人だよ、とメイアンは顔を覆う。

駄目だ、早く返信しなくちゃ。心配させてしまう。

画面に目を戻すと、先にメッセージが届いていた。

>無理すんな。

見抜かれていた。

>また逢いに行くから。いいや、もう全部()ちゃってこっちに来てしまえばいい。約束は、守りきれなくなるけど、メイアンが辛くて死にそうなのにそんなのに縛られてるなんて、愚かしい。

死にそうって程じゃないよ、と軽くなった心で返信する。もう少しなら、頑張れる。

そう、セヴンホークはあと少しなのだ。

>でも逢いに行くから。

心待ちにしちゃうじゃん、と画面に微笑む。

>ごめんまだ朱鷺なんだけど。

そんなことは構わない。寧ろその方がいい。人の姿で現れたらメイアンが襲いかかってしまうかもしれない。

ありがとう、と送る。

>変なの。ピンクレモネードをもらったのはおれなのに。可愛い苗達だ。大切に育てる。

文字の遣り取りだけでこんなに感極まってしまう。

…だのに、こんなときに動きをみせるのか。

顳顬の血管が強く打つ。

>呼ばれてるんだな。じゃ、また。

見ているのではないかと思う程一初は察しがいい。セヴンホークへ深い殺意を湧き上がらせながらメイアンはスマホを置く。セヴンホークは疲れて畳で眠ってしまった純恋の手を外し、布団へ運んだ。散らばるウノのカードを纏めて箱に戻す。ちらと純恋を見る。変化はみられない。

メイアンは妖精パイクの前に光の防御陣を張ったまま純恋の耳に近づけた。セヴンホークが背を向けて部屋を出ようとしている。相変わらずポケットには纏まった金の入った財布。玄関までの動線上には持ち出せる荷物が置いてあるのも知っている。妖精パイクが反応したということは今度もまた、否、今度こそ出ていこうとしている。

ぱちと純恋は目を開いた。

「起こした」

「merci.」

忠遠が台所の柱に寄りかかり、指を弾いた後の状態で立っていた。

「トレンチコートは?」

「荷物んとこ。悪夢の始まりだぜ、セヴンホーク」

妖精パイクは囁く。靴箱の横、先回りして、と。起き抜けの純恋はウノの箱を掴み、ふらつく足で階段を降りる。

「執念だな」

「下手に操らなくて済む」

階下にセヴンホークの姿がない。いや、トイレか。周到だこと。しかしその時間差が命取り。純恋は真っ直ぐ靴箱に向かうとセヴンホークの荷物を見つけ出した。纏めてあるから掴んで出奔してしまうのだと直ぐに思い至ったのだろう、乱暴にジッパーを引くと中身を次々と抉り出し、盛大に撒き散らした。殆どが衣類で、数も少ない。もしも拘束されるような事態になっても所持品から純恋達に辿りつかぬ為という用心もあってか、思い出になるような物がなにひとつ入っていなかった。純恋は明確にではないにせよ気づいてしまったのだろう、持って行き場のない怒りのようなものが言葉にできず唸りになる。具体化できず涙が溢れて、顔があっという間にべたべたになった。

「そういや美智さんは?」

「洗濯物を干しとる」

「階段の途中で腰でも抜かしてもらおう。大きな怪我しなきゃなんでもいいや」

「段々人非人だの」

「仙だも〜ん」

セヴンホークもそんな隙に出ていこうとしていたのだろう。が彼が見たものは乱暴に撒き散らされた荷物。空にされたバッグは陵辱されたようにだらしなく口を開いてへたれていた。その真横、品々の中心で純恋がゆらりと立つ。怒りで沸騰していたらしく、髪が汗で巻き上がって潰れぐちゃぐちゃに乱れていた。涙で顔にも貼りついている。幼い少女なのに、セヴンホークには鬼女のように映った。思わずたじろぐ。

「幼女の三白眼、怖ぁ〜い」

「そろそろ母親が干し終わる」

「まだまだ〜。娘が倒れちゃわないように少し風を送ろうか。あんまり冷たくなくていい」

「子供の怒りの汗は臭いぞ」

「そいつぁ十二分に嗅いでほしいね」

忠遠は指先を動かす。純恋の髪が少し動いた。風など起きない室内で空気が動いたことに気づいてセヴンホークは下唇を噛んだ。

メイアンは妖精パイクの姿を覆う防御陣を一瞬だけ解く。底意地悪そうな笑みを浮かべ囁く姿が見えた筈、しかしまた覆い隠す。セヴンホークは一歩踏み出したが、消えてしまったことで蹈鞴を踏んだ。妖精パイクは純恋の耳に囁いていた。お父さんとウノやろう?と。純恋は握り締めていたウノの箱を翳して一歩進み出る。血の気の引いたセヴンホークはその分退がった。

「ちょっとしたホラーになってきたな」

「まだまだ〜」

「物干しが終わった。窓を閉めたぞ」

ベランダを改造してサンルーム状にしたところから階段まで五歩。階段は全部で十六段。階段室にはなっていないから、玄関の様子が途中からよく見える筈。

純恋が徐らにウノを差し出す。差し出しただけでは箱ごと持ち去られるだけと考え直しカードを取り出した。

「階段に踏み出した。一歩、二歩、三歩」

「カードを飛ばせ。一枚、セヴンホークの頬を掠って柱に刺さる、三枚、階段上から八段目に並べて刺さる、それで女は足止めだ。あと十枚程適当にあちこちぶっ刺して」

メイアンはもう名前ではなく、娘、女とぞんざいに呼び捨てていた。固有名詞で感情移入したくないのだろう。

「他人使いが荒いのう」

カードが宙に舞い、不気味に純恋の周りを飛び交うや急に勢いを増してセヴンホークに向かってきた。然しもの彼もカードが意思を持ったように向かってくるとは予測が立たず、硬直していた。カードは空気を切り裂いてセヴンホークを掠り、彼の頬骨の上、目の近くを切って背後の柱に浅く刺さった。同時に、か、か、か、と音がして美智の次に足を下そうとしていた踏面ふみづらに斜めに三枚並行に突き刺さる。美智はすんでのところで踏み止まり、危うくその三枚が足に刺さるところだったことに腰を抜かし階段上でへたり込む。蹴込みの無いオープン階段を抜けて奥で、美智の横の段鼻に、手摺にと次々に色鮮やかなカードが刺さるさまは日常がそのまま凶器と化したホラー映画のよう。美智は力が抜けてずり下がってきそうになり、慌てて小柱を掴む。

「いい感じじゃん」

「百鬼夜行より面倒臭い」

「暗闇に奇抜なものが跋扈するのが怖い時代は終わったんだよ、忠遠さんよ」

セヴンホークはカードが凶器になったことにやっと気づいた。カードは子供の湿った手で何度も掴んだ所為で縁が膨らんでいるのに、新品の紙のように皮膚を切り裂く。黒く揃った裏面が狂って見えてくる。

「そうさな。山姥ギャルが流行った時は降参だと心底思ったわ」

「あれはあれで夜道のおっさん除けの効果があったんじゃない?」

「おいおい、効果のあったおっさん扱いはやめてくれ」

「被害妄想〜。さぁてポルターガイスト現象祭り、始めようかな?娘の散らばした物品を宙に浮かせて〜シャッフル!」

忠遠は教えておけばよかったと息を吐きながら言われた通りに純恋を中心に諸々の品々を空中に浮かばせた。まるで洗濯槽の中のように、上から下まで品物が偏ることなく浮かんで、反時計回りに回り始める。

「こういうのってコリオリの力の影響受けるの?」

「慣性の法則に従った方が省エネだ」

「吝嗇臭い」

美智の歯ががちがちと音を立てる所為でセヴンホークの考えが纏まりきらない。不規則に物が見えない流れにのっているように見えるが、この流れ、実はとても選択的だとセヴンホークは気づく。靴箱の上の木目込み人形はガラスケースに納められているが、それは全く影響を受けていない。同じく靴箱の上に敷いてあるドイリーも。三和土に並べられた靴も舞い上がっていない。つまり徹底的に純恋が撒き散らしたセヴンホークの荷物だけに絞られている。

忠遠はセヴンホークの空になったバッグを態と軌道を逸させて彼の横面に衝突させた。セヴンホークは煩わしそうに顔に押しつくバッグを投げ捨てると一歩踏み出す。

「駄目〰︎」

純恋を抱き締めて救出だなんて、安っぽい感動で終わらせてやるものか。察した忠遠は風を強め入ってこれぬよう妨害し、メイアンはまだ見えなくしたままの妖精パイクに純恋の指を少しだけ開かせる。ウノのカードが忠遠の風にのって連続的に舞い上がる。

「この隊列、キープできる?」

「嫌らしいことを。ハリウッドで重宝されるのでは?」

「最早SFXの時代すら終わったよ」

忠遠はカードの列を風の流れを泳ぐ海蛇のようにくねらせ一周回ってきたカードの列だが、矢庭に進路を変えセヴンホークに牙を向けて襲いかからせる。恐怖に堪らず肘を翳す。

「カードじゃん」

「カードなんだがねぇ。柱に突き刺さしたのは効果絶大であったな」

「つまり虚仮威し」

むべなるかな」

襲撃が空振りに終わったような様相でカードの列はまた流れに戻る。セヴンホークは両腕で防禦の姿勢だったが、それ以上の攻撃がないと目を開く。隊列はまた海蛇のように流れにのって周回していた。

「結局さあ、ちょっと強い風の中に飛び込んで行こうとか、傷ついても救い出そうとかって気魄が無いんだよねぇ。相手が謎の超常現象だから迂闊なことはできないって安全思考も重要だけどさ」

「超常現象だからこそ娘を一刻も早くその中心から奪回すべきでは?」

「そこが駄目なところなんだ。口にはしないけど、根底には子供は最悪また産ませればいいって野生生物だって最後の手段がべっとり染みついてるんだろう…子供なんか、人間なんか殖やすなって言われ続けて来たんだろうし。しつこく言われるって、どんなに反発していたとしてもその洗脳力は半端ない」

「思い上がりだな」

「グレイシャ計画が?」

「それは言うまでもなく。セヴンホークのまた産ませればという…驕っておる」

「グレイシャ計画で生まれて育ったから、歪んでるんだ」

「…ある意味この男はグレイシャ計画の成功作なのだな」

「人間を歪めるのはほんの十数年で足れるんだって実感。他者を尊重するって何千年もかけて獲得したというのに」

「グレイシャ計画式教育が蔓延したらばと思うと寒気がする」

メイアンは、不思議そうに忠遠をしげしげと見た。

「本性、人間?」

真坂まさか

「だよなぁ」

純恋はカードの隊列を防いだセヴンホークが遊ぶことを拒否したように見えたらしい。深い呼吸を繰り返し、恨みに目を昏く染めてゆく。

「さっきの、甘んじて受けていたら、どうだったかな」

「なに抜けた疑問を。俺が操っていたのだ、全身を切りつけるなりカードで覆って締め上げるなりしていたさ」

「それもそうか」

メイアンは妖精パイクをまた純恋の左耳に近づける。この荷物があるから、逃げちゃうの。

羽の辺りだけ防御陣からはみ出させ、娘にまたなにか入れ知恵をしていることを匂わせる。セヴンホークは思惑通りそこに勘づいて、到頭風と飛び交う物品の中へ踏み込んできた。羽もすっかり覆い隠して妖精パイクを右耳へ移動させる。ほら、早く逃げたいんだわ。

セヴンホークは先程まで羽の見えていた左耳の辺りに手を伸ばし、身を乗り出してきた。純恋はセヴンホークが妖精パイクを捕えようとしているのではなく己を懐柔しようと近寄ってきたように見えたのだろう。嫌、と叫んでセヴンホークを突き飛ばした。無論純恋の腕力ではセヴンホークに抵抗できる筈もない。忠遠が風を操り彼女の腕力の後押しをした。セヴンホークは面白いように転がり、階段の上り口に強か背中を打ちつけた。純恋は突風を突っ切るように歩み出る。乾いてきた髪が陽炎のように靡いては巻き上がる。

「トレンチコート、いこうか」

「娘の腕を上げさせる。キャッチさせて」

「諾」

妖精パイクが囁く。右手上げて。

純恋は言われた通り右腕を高く掲げた。先ずはカード…と忠遠が呟く。カードの隊列が純恋の前を横切る。まるで彼女のすることを見ていろと言わんばかりに。

「掴ませろ」

「Roger」

妖精パイクが一言、握って。

トレンチコートは吸い寄せられるように純恋の手に寄り、彼女はそれを掴み取った。これを着て逃げる気よ。妖精パイクに言われて純恋は憎々しげにコートを睨みつけ、左右の手に力を込めていた。

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