第五十六話:不穏が芽吹くとき
「七海?」
あのあと失敗した珈琲の始末をして、もう一度豆を挽いた。あとはお湯を注ぐだけ――というところで手を止めて、七海を起こしに行く。
「入るよ」
七海の部屋の前。返事がない。まだ寝てるのかと思ってドアを開けた。
「あれ、起きてるじゃん」
入り口から見えたベッドの上で、七海がぼーっと天井を見ていた。起こす必要もなかったかな、と思いながらも、どこか違和感が胸に引っかかる。
「ほら。手、貸してあげるから起きて。ご飯できた」
七海がかろうじて俺の手を取った。
「ん」
短く声を発したのを確認して、俺はその手を引く。
「ちょっと疲れてるだけだと思う」
「心配いらない」
そう言って、七海の頭を撫でる。上の空な七海も、俺と同じことを考えていたりするのだろうか。
「病院は嫌」
それを肯定するように、言葉が紡がれた。
「無理して行かなくていいよ。ゆっくりしな」
きっと体と心に違和感があるんだろう。最近の激務をきっかけに、また……不穏な種が芽吹く予感。七海もきっとそれを理解して言ったんだ。
「大丈夫。俺はずっとそばにいる。いつでも支える準備はできてる」
それは俺の願いでもあり、決意だった。
「そっか」
どこか腑に落ちたように、七海は小さく笑みを浮かべる。
「朝ごはん何」
「パンと珈琲」
「えー、米じゃないのー?」と文句を言う七海は、いつもの調子だ。
「綾香ちゃんが焼いたやつだぞ?」
「なら食う」
俺に見せるこんな姿でさえ、心配かけまいと気を張る七海の優しさなんだろう。
「おはよー! いいにおいしてる!」
自室を出て階段を降りる。リビングのドアを開けた瞬間、明るい声が響く。綾香ちゃんの「おはようございます」という声も、少し遅れて聞こえた。
「また、鬱病が再発したら俺は……どうやって支えていけばいいんだ」
前よりも、もっと上手く立ち回れるのだろうか。そう思う一方で、感情のブレーキが効かなくなり、一日に何度も泣き、そして激高を繰り返す七海を思い出した。俺はまた、耐えられるだろうか。
そんな不安に表情を曇らせ、しばらく七海の部屋の前で息を整えるほか無かった。




