第99話 宰相の一手 ― 動き出す黒い水面
宰相室の扉が静かに開き、
一人の兵が深く頭を下げた。
「……宰相閣下。ご報告がございます。」
ヴァルガは書類から目を離さず、淡々とした声で言った。
「言え。」
兵は緊張したまま続けた。
「……王女殿下が、記録庫に入られました。
護衛のロウ殿と共に……
しばらく中に滞在されていたようで……」
ヴァルガの指が止まる。
「……記録庫に。」
兵は頷いた。
「はい。殿下が出られた後、
棚の一部が動かされていたとの報告が……」
ヴァルガはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、薄闇の中で光る刃のように鋭い。
「……王の診療記録だな。」
兵は息を呑む。
ヴァルガは立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。
「……ロザリン姫は、
“触れてはいけない場所”に手を伸ばした。」
その声は静かで、
しかし底に冷たいものが潜んでいた。
ヴァルガは机の引き出しから、
黒い封筒を取り出した。
兵が驚いたように目を見開く。
(……宰相閣下が……“影の部隊”を……?)
ヴァルガは封筒を軽く叩いた。
「……これを“影班”に渡せ。
王宮内の動きを……“音もなく”探らせろ。」
兵は震えながら受け取った。
「……はっ……!」
ヴァルガは続けた。
「ただし──
ロザリン姫には決して悟らせるな。」
兵は深く頭を下げ、静かに退出した。
部屋に静寂が戻る。
ヴァルガは窓辺に立ち、遠くの空を見つめた。
「……ロザリン姫。
あなたは……どこまで知るつもりだ?」
その声は甘く、
しかし底知れない冷たさを含んでいた。
「そしてロウ。
お前は……どこまでロザリン姫を守るつもりだ?」
ヴァルガの指先が机を軽く叩く。
「……面白い。
ならば……こちらも“舞台”を整えるとしよう。」
その微笑みは、嵐の前の静けさのようだった。
王宮の奥深く──
人の気配が薄い古い回廊を、
影班の一人が静かに歩いていた。
足音はない。
衣擦れの音すらない。
まるで空気そのものが形を持って、
動いているようだった。
彼は壁に沿って進み、
角を曲がるたびに一瞬だけ立ち止まる。
その動きは、
“見張る”というより“染み込む”に近い。
灯りの届かない場所では、
影と影の境界が曖昧になり、彼の姿は輪郭を失っていく。
(……ロザリン姫……
記録庫……そしてロウ……)
声には出さない。
思考すら音にならない。
ただ、
“見えない視線”だけが
ロザリンとロウの背中を追っていた。
その視線は、敵意でも好奇心でもない。
任務のための、冷たい観察。
ロザリンが歩けば、
影は半歩後ろの別の回廊を並行して進む。
ロウが振り返れば、
影はすでに別の柱の裏に移動している。
気づかれない。
気づかせない。
それが影班の存在理由だった。
そして──
彼は静かに、ヴァルガの命を胸に刻む。
(……殿下の動きを“音もなく”探れ。
決して悟らせるな……)
影は薄闇に溶け、
王宮の奥へと消えていった。
その気配は、
風よりも静かで、闇よりも深かった。




