第25話 宰相の罠
王城の朝は、どこか重たかった。
陽光は差し込んでいるはずなのに、廊下の空気は妙に冷え、石壁に落ちる影はいつもより濃い。
昨夜の出来事──ロウが中庭で魔術師たちを退けた一件──は、王城全体に静かな波紋を広げていた。
騎士たちの間では、ロウの名がひそやかに囁かれていた。
「月の守護者の力が戻りつつあるらしい」
「宰相閣下が不機嫌だ」
「近いうちに何か起こる」
そんな噂が、冷たい風のように王城を駆け抜けていく。
ロウはその中心にいた。
だが本人は、噂に耳を貸すことなく、淡々と巡回の準備をしていた。
ただ、胸の奥にひっそりとしたざわめきがあった。
──宰相は、必ず動く。
昨夜の魔術師たちの動きは、明らかにヴァルガの指示だった。
ロウはそれを理解していたし、ヴァルガが自分を排除しようとしていることも分かっていた。
それでもロウは、剣を握る手を静かに落ち着かせた。
守るべきものがある限り、恐れはない。
ただ、冷静に、淡々と、やるべきことをやるだけだ。
そのとき、背後から足音が近づいた。
「ロウ。宰相閣下からの命令だ」
騎士団長が封筒を差し出した。
ロウは受け取り、封を切る。
中には短い文面が記されていた。
──“姫様の安全のため、月影の森の調査に向かえ”──
ロウの眉がわずかに動く。
「……今、森の調査ですか?」
「そうだ。王印も押されている。従うしかない」
ロウは封筒を指先でなぞった。
王印は確かに本物だ。
だが、文面は不自然だった。
(……宰相の仕業だ)
ロウは静かに息を吸い、封筒を閉じた。
「分かりました。すぐに向かいます」
騎士団長は安堵したように頷き、去っていった。
ロウはその背を見送りながら、胸の奥で冷たい決意を固めた。
(罠でも構わない。行くしかない)
王城の中で宰相と争えば、姫に迷惑がかかる。
ならば、外で決着をつけるしかない。
ロウは馬を引き出し、鞍に手をかけた。
その横顔は、昨夜ロザリンに見せた柔らかさとは違う。
鋭く、静かに、戦う者の顔だった。
その頃――
ヴァルガは王城地下の、薄暗い宰相執務室で報告を受けていた。
魔術灯の青白い光が、彼の顔を不気味に照らしている。
「ヴァルガ様、
ロウは命令書を受け取り、森へ向かいました」
魔術師の報告に、ヴァルガは満足げに目を細めた。
「よくやった。あとは森で始末するだけだ」
机の上には、古い魔術式が描かれた羊皮紙が広げられていた。
月影の森に仕掛けた結界の図だ。
「月の力を封じる結界……ロウがどれほど強くても、これには抗えまい」
ヴァルガは指先で羊皮紙をなぞりながら、低く笑った。
「姫の花の力を奪う計画に、……あいつは邪魔だ。
月の守護者など、もう必要ない」
その声は、氷のように冷たかった。
ロザリンは自室の窓辺に立ち、庭を見下ろしていた。
花々は風に揺れ、柔らかな光をまとっている。
けれど、その美しさが今日はどこか遠く感じられた。
胸の奥に残る温かさと、不安。
ロウが自分のために誓ってくれた言葉が、何度も心の中で反響する。
──僕の命は、あなたのために使う。
──あなたを守るために、生きる。
その言葉は、ロザリンの心を支えてくれる一方で、
ロウが危険に晒される未来を予感させた。
「……ロウ。あなたを危険な目に遭わせたくない……」
ロザリンは胸元を押さえ、小さく息を吐いた。
その指先はわずかに震えていた。
その日の午後。
ロザリンはロウの姿が見えないことに気づいた。
侍女に尋ねると、
「宰相閣下の命令で森へ向かわれました」と告げられた。
ロザリンの心臓が跳ねる。
「そんな……!
ロウは、私のそばを離れるはずがない……!」
胸の奥に、嫌な予感が広がる。
──ロウが危ない。
ロザリンは震える手でスカートを握りしめた。
「ロウ……どうか無事で……」
その祈りは、まだロウには届いていなかった。
月影の森へ向かう道、
ロウは馬を走らせながら、背後に漂う“気配”を感じていた。
風の音に紛れて、魔術の微かな揺らぎが聞こえる。
(……つけられている)
ロウは目を細めた。
森へ向かう道は静かで、鳥の声すら聞こえない。
まるで森全体が息を潜め、ロウを待ち構えているようだった。
馬の足音だけが、乾いた土を踏みしめる。
ロウは胸の奥に浮かぶ、ある記憶を思い出していた。
森での誓い。
そして昨夜、再び口にした誓い。
──僕の命は、あなたのために使う。
その言葉が、ロウの心を強く支えていた。
「姫様を守るためなら……どんな罠でも越えてみせる」
ロウは馬の手綱を強く握り、
月影の森へと駆けていった。
その先に、ヴァルガが仕掛けた“本当の罠”が待っているとも知らずに。




