Move on
……だから、人前で泣くなって。
定期演奏会の次の日。
感動的な本番が終わって、ついに今日は卒部式。……とはいっても、正直どんな式なのかはよくわかっていない。とりあえず、三年生の先輩たちと本当にお別れする日なんだろうな、というくらいだ。
昨日の定演で全力を出し切って、そのあともなんだかんだ遅くまで会場に残っていたから、疲れはまだ抜けきっていない。でもそんなことは関係なく、いつもの部活と同じように音楽室に百二十人近くが集まって、いつも通りに出席が取られる。
その“いつも通り”が、逆に少し不思議だった。今日で三年生がいなくなるのに、始まり方だけはいつもと同じだ。
やがて佐々木先生が音楽室の照明を落とし、前方のスクリーンに映像が流れ始める。各パートの三年生が作った、後輩たちへのビデオメッセージらしい。スコア順に始まるので、いきなりフルートから。どうやらテレビ番組のパロディっぽい。……面白い。というか、普通にクオリティが高い。いつの間にこんなの撮ってたんだろう。笑って見ていたら、不意に後輩一人一人へのメッセージが始まった。
おかしょー先輩から洸太先輩へ。
『洸太へ。春から三年だけど大丈夫かー? ま、洸太らしくやれば大丈夫! いつもパートを明るくしてくれて助かった! ありがとう』
「……ちょっと、こういうの本当ずるいっすよ」
そう言いながら、洸太先輩がもう涙ぐんでいる。それを見て、こっちまで少し胸が熱くなる。
次は一年へのメッセージ。柳先輩の声が流れた。
『橋本へ。同じ編成で隣で吹けて楽しかったよ。最初と比べて成長したね。もう少し笑い声小さくできるといいと思うよ』
音楽室に笑い声が広がる。……うう。夏にA編で隣で2ndを一緒に吹いた柳先輩からの言葉。単純に、すごく嬉しい。……けど、俺ってそんなに笑い声でかいか?
川瀬は、夏に同じC編だった堀部先輩からだった。
『川瀬へ。朝一番に朝練に来て頑張っているの、みんな知ってる。春からは先輩になるんだから、後輩の前であんま泣きすぎるなよ』
音楽室にふっと笑いが広がった。隣を見ると、川瀬はもう普通に涙ぐむどころじゃなく、しっかり目元を濡らしていた。頬まで少し赤くなっていて、いかにも“泣いてます”って顔だ。
「おいおい川瀬、言われたそばから泣いちゃってるじゃん」
誰かがそう言って、また小さく笑いが起きる。周りのみんなも、そんな川瀬を見て「ほらなー」みたいな顔をして、半分笑いながらよしよしするみたいに声をかけている。……いや、ほんとに。そんな可愛い顔で、すぐ泣くなよ。思わずそう思ってしまう。だって、あんなふうに素直に泣かれたら、周りだって構いたくなるに決まってる。
実際、みんな少し笑いながら、でもちゃんと優しい顔をしていた。そういう空気ごと、なんだか悔しい。いや、悔しいっていうのも違うか。ただ、ああいう顔を見せるのは俺の前だけでいいのに、みたいな、そんな勝手なことを思ってしまう。
でも同時に、川瀬らしいなとも思う。静かで落ち着いて見えるくせに、こういうところではちゃんと感情が顔に出る。そういうところ、ずるい。
そんな調子で、各パートの凝ったビデオメッセージが次々に流れていく。音楽室には笑い声と、涙で鼻をすする音が混ざっていた。
次は何が始まるのかと思ったら、佐々木先生お手製の部活通信が配られた。……といっても、俺たち後輩にじゃない。
卒部する三年生一人ひとりへ向けた、世界に一枚だけの“最後”の部活通信だった。卒業証書みたいに、先輩たちが名前を呼ばれて前に出る。そして、佐々木先生から一枚ずつ受け取っていく。コンクールの時ですら泣いていなかったフルートの三年生の先輩たちも、さすがにこの時は目が潤んでいた。何が書いてあるんだろうな、と思う。
――二年後、俺たちもこれをもらうんだろうか。……ていうか、その時佐々木先生、まだいるのかな。
そのあと、各パートごとにいつもの教室へ分かれ、思い思いに最後の時間を過ごす。俺たちフルートは、先輩たちへ色紙と花束を用意していた。さらに恒例というか、もはやお得意の、黒板いっぱいにイラストとメッセージも描いた。こんないかにもなイベントをしているのに、まだどこか実感が湧かない。本当に最後なんだな、とは思うけど、その“最後”がうまく手触りにならない。
やがて、また全員が音楽室へ戻る。いよいよ本当にお別れの時間だ。音楽室の扉を開けて、残される後輩全員がずらっと二列に並ぶ。その間を、三年生が通って帰る。いわばアーチみたいなものだ。でも実際は、途中で仲のいい後輩が声をかけたり、抱きついたり、じゃれ合ったりするから、全然スムーズには進まない。俺は川瀬と一緒に並んで、先輩たちを待った。
やがて、涙で顔をぐしゃぐしゃにした先輩たちが、こっちへ向かってくる。
「ありがとうございました!」
声をかけながら見送る。その中で、俺が密かに構えていた存在がこっちにやって来た。
優矢先輩だ。予想通り、ボロボロのイケメンのお出まし。ネクタイはもうなくて、ボタンもひとつ残らず完売している。優矢先輩は川瀬の前で立ち止まった。
「川瀬、これ」
「……え」
「これからも頑張ってな」
「ありがとうございます!」
小さな手紙を受け取る川瀬。ほんのり顔が赤い。しょうがない。こんなところで嫉妬してもどうしようもない。今は耐えるしかない。ぐっと歯を食いしばっていると、不意に優矢先輩が俺の方を見た。笑顔がやたら眩しい。
「橋本。川瀬のこと、これからもよろしく」
「……へ? あ、はい!」
思わず変な返事になる。……え?“これからもよろしく”って、どういう意味だ?頭が追いつかないまま、優矢先輩はそのまま行ってしまう。川瀬が受け取った手紙の中身も、めちゃくちゃ気になる。でも、それを聞くのはたぶん違う。聞いちゃいけない気がする。とりあえず、イケメン優矢先輩から直々に仰せつかったんだから、川瀬のことはちゃんと幸せにしないと、と思ってしまった。いや、何をどうするんだって話なんだけど。
三年生を全員見送って、また音楽室へ戻る。そこには涙でぐしゃぐしゃの部員たちと、同じく目を赤くした佐々木先生がいた。
こんな時でも、俺は意外と泣けなくて、少し悔しい。寂しくないわけじゃない。むしろすごく寂しい。でも、きっとまた会えるし、ってどこかで思ってしまう。そういうところ、なんか冷めてるみたいで、ちょっと嫌だ。
四月からの連絡事項が伝えられる。新年度のこと。新入生のこと。新体制のこと。話を聞きながら、ようやく少しだけ実感が湧いてくる。ああ、本当に先輩になるんだな、って。
憧れてきた先輩たちみたいに、俺たちも後輩に見られる側になる。頼ってもらえるだろうか。ちゃんと引っ張っていけるだろうか。というか、俺みたいなのが先輩で大丈夫なんだろうか。
そんな不安の中に、ほんの少しだけ期待も混ざる。
憧れられるような先輩に、なれるかな。
卒部式が終わった帰り道。
さっきまであんなに人がいて、泣き声や笑い声でいっぱいだったのに、校門を出ると急に静かになる。
「先輩たち、卒部しちゃったな」
なんとなくそう言うと、隣を歩く川瀬が小さく返した。
「……んね」
短い返事。でも、その声もどこか少しだけ寂しそうに聞こえた。
「俺たちも二年後、卒部するんだって思うともう寂しいんだけど」
思ったまま口にすると、川瀬が少しだけこっちを見た。
「はや」
呆れたみたいに言ってから、少し間を置いて続ける。
「……でも、ちょっとわかる」
その一言が、妙に嬉しかった。二年後。今はまだ遠いはずなのに、今日の卒部式を見たあとだと、急に現実味を帯びてくる。あの先輩たちだって、ついこの前まで普通に部活にいた気がするのに。たぶん俺たちの二年後も、同じくらいあっという間なんだろう。
しばらく歩いて、ふと思い出す。そういえば、優矢先輩。ボタン、ひとつも残ってなかったな。
――川瀬は、もらったんだろうか。
聞きたくない。でも、ちょっと気になる。というか、だいぶ気になる。
「川瀬さ」
「……なに」
「……優矢先輩のボタン、もらった?」
言ってから、我ながら何を聞いてるんだと思う。でももう遅い。川瀬は少しだけきょとんとした顔をした。
「ボタン? なにそれ」
……え?その反応は、もらってないってことか。
「……あー、女子でもないし、もらってない。そんなこと気にしてたの」
少しだけ可笑しそうに言う。いや、だって。それくらい仲良さそうだったし。そう思うけど、そのまま口には出せない。
「……手紙もらったから、それで十分」
川瀬はそう言って、少しだけ目を逸らしたまま笑った。ああ、ほんとに嬉しかったんだな、と思う。少し妬ける。でも、あまりにも素直に嬉しそうだったから、もうそれ以上は何も言えなかった。
「……そっか」
そう返すしかない。三年生が卒部するのは、もちろん寂しい。でも正直に言うと、俺にとっては“嫉妬の対象”が減るのが、ほんの少しだけ嬉しくもあった。優矢先輩みたいな、ああいう存在。俺がどう頑張っても敵わない気がしてしまう相手が、少し遠くなる。
じゃあ、四月からはどうなるんだろう。きっと川瀬みたいなタイプは、わかりやすく後輩を引っ張るような先輩にはならない。ぐいぐい前に出るタイプじゃないし、笑顔で場を回すわけでもない。
でも、たぶん。そういうのとは別の形で、密かに憧れる後輩は絶対に出てくる。静かで、ちゃんとしてて、賢くて、朝練も早くて、ソロも吹けて。そういうのに惹かれるやつなんて、いくらでもいそうだ。
そしたらまた、俺は嫉妬するんだろうか。……いや、たぶんするんだろうな。
俺たちの関係に、何かちゃんとした名前がついたら。そしたら少しは、このもやもやもなくなるんだろうか。もう、ただの友達じゃないことくらいはたぶんお互い、わかっている。でも、それ以上のことを口にするには、まだ少しだけ怖い。
川瀬はそんな俺の気持ちなんて知らない顔で、隣を歩いている。それが少しだけもどかしくて、でもその隣にいられること自体はやっぱり嬉しかった。




