Chaotic
もうすぐ俺たちも先輩になるんだな。
定期演奏会のリハーサル。
体育館に実際の舞台の寸法を取って、本番の流れに沿って通していく。立ち位置、導線、入退場のタイミング、椅子や譜面台の動きまで全部確認しなきゃいけない。通してみると、思った以上に段取りがうまくいかなくて、時間はどんどん押していた。
「時間押してるから、もっと素早く入場できませんか?」
「なんのためにリハーサルやってるのか考えて」
ぴんと張った声が体育館に響く。正直、空気はかなり悪い。佐々木先生も、代替わりして仕切っている二年生の部長も、学生指揮者も、みんなぴりぴりしている。
でも、それも当然だと思う。全部、三年生の最後の舞台を成功させるためだ。
自分の出ない曲目の待ち時間。いつもなら川瀬にちょっかいをかけたり、くだらないことを言って笑わせたくなるけど、さすがにそんな空気じゃない。みんな張りつめていて、少しの私語すら浮きそうなくらいだ。それでも、こういう時こそ逆に、一言くらい話しておかないと落ち着かない。
「次、C編だろ。楽しみにしてる」
そう声をかけると、川瀬は一瞬だけこっちを見た。
「……うん」
短い返事。でも、その声も表情も、いつもより少しだけ硬い気がした。そりゃそうだよな、と思う。この空気の中で、ソロを吹く。しかも定演のリハとはいえ、この流れの中で。正直、本番そのものよりしんどいんじゃないかとすら思う。
編成ごとに、夏のコンクール曲を演奏していく。
最初は、川瀬たちC編。静まり返った体育館。張りつめた空気の中で、曲が始まる。そして、冒頭。川瀬のソロが入った瞬間、空気が変わった。本当に、一瞬で。さっきまであんなに固く、ぴりぴりしていた体育館に、柔らかな海風が通り抜ける。音だけで、場の温度が変わる。……すごい。思わず、息をするのを忘れそうになる。やっぱり、すごい。俺には到底できない。小編成なのに、いや、小編成だからこそなのかもしれない。音ひとつひとつの輪郭が近くて、その中でも川瀬のソロが持つ力は、どの編成より大きく感じた。人数の多さじゃない。あいつの音そのものが、空気を変えている。
演奏が終わると、やっぱり周りからそんな声が聞こえてくる。
「やっぱり私、川瀬くんのソロめっちゃ好き」
「ほんと綺麗」
なぜか、そういう感想を俺に伝えてくる人がいるのがよくわからない。いや、わかるけど。たぶん俺がいつも川瀬のことを気にしてるの、周りにもバレてるんだろうなと思う。でも、俺、一応ただの同期だし、同期ってライバルだと思うんだけど。
「ね、橋本もそう思うでしょ?」
そう言われて、うまく笑えない。そりゃ思うよ。誰よりも思ってる。思ってるけど、それをそんなふうに当たり前みたいに言われると、なんか少しだけ面白くない。
誇らしいような。悔しいような。でもやっぱり、どうしようもなく嬉しいような。胸の中でその全部がぐちゃぐちゃに混ざって、うまく名前がつけられない。ただひとつ確かなのは、川瀬のソロをまた聴けてよかった、ってことだけだった。
B編成の演奏が終わり、次は俺たちA編成。
この夏、何度も吹いた曲。当時はうまくいかなかったフレーズも、音程が不安定になりがちだったところも、演奏しながら、あの夏より少しだけ成長できているような気がした。もちろん、完璧なんて全然遠い。でも、それでも確かに、前よりは吹けている。そう思えたのは、たぶん先輩たちとこの一年ずっと一緒に音を重ねてきたからだ。
――この先輩たちと演奏するのも、あと数日。
ふいにそう思った瞬間、胸の奥に寂しさが差し込んだ。まだ終わっていないのに、終わりの気配だけが少しずつ近づいてくる。
そして、定期演奏会当日。ホールでのリハーサルを終えて、いよいよ三年生と演奏する最後の舞台が始まる。
去年の定期演奏会は、同じ中学の同期と一緒に観に来た。あの時は客席から見上げる側だった。中学でずっと一緒だった洸太先輩が、いつもよりずっと遠くて、ずっとかっこよく見えたのを覚えている。観客席が少しずつ埋まっていく様子も、会場の盛り上がりも全部なんとなく覚えている。
――今年は、舞台に立つ側なんだ。
そのことが、今になってじわじわ実感になってきた。
舞台袖で円陣を組む。恒例の、あの掛け声。今回は川瀬も一緒にいる。さりげなく。……いや、たぶん全然さりげなくないけど、川瀬の隣を陣取った。衣装姿の川瀬は、ただでさえ細いのに、いつもよりさらに華奢に見える。そんな川瀬と肩を組んで、三年の部長の声が響いた。
「ぶちかませーーーー!!!」
「おーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
全員の声が重なる。
その瞬間、緊張が一気に熱へ変わる。
「入場開始します!」
出番まではもう少し時間がある。楽屋のモニターからホールの様子を見ると、観客がぞろぞろと入ってきていた。去年、自分が座っていた側の席が、今年は知らない誰かたちで埋まっていく。たぶん、俺の両親もあの中にいるはずだ。そう思うと、なんだか少しだけ落ち着かない。
いよいよ定演が始まる。
全員での演奏に続いて、各編成ごとのステージ。休憩を挟んで、衣装から制服に着替える。後半はまた全員で、ポップスや、観客も巻き込んで楽しめる曲が続く。
客席に両親の姿も見えた。なんとなく照れくさい。川瀬と一緒に舞台上にいるところを見られていると思うと、少し不思議な気分になる。
すごく楽しい。でも同時に、終わってほしくないという気持ちも、ずっと胸のどこかにあった。
最後の曲が終わる。一瞬の静寂のあと、客席から恒例のアンコールが起こる。
アンコール曲は、吹奏楽の言わずと知れた名曲――『宝島』。
この曲になると、三年生は舞台の前方に一列に並ぶ。俺たちはその後ろで演奏する。前に並んだ先輩たちの背中を見る。その向こうに、満員の客席が広がっている。
どこかから鼻をすする音が聞こえた。演奏しながら涙ぐんでいる人も多い。後ろ姿だけでも、それがわかる。でも、フルートの先輩たちはそこまで泣いていない。むしろどこか楽しそうに見えた。
……ああ、なんかフルートパートらしいな、と思う。
そう思いながらふと横を見ると、川瀬の顔が視界に入る。ほんの一瞬だけだったけど、やっぱり少し鼻が赤くて、目元もわずかに潤んでいた。ああ、川瀬もちゃんと寂しいんだ、と思う。それがなんだか妙に嬉しくて、でも同時に少しだけ羨ましくもなった。
俺はこういう時に、思ったより泣けない。寂しくないわけじゃない。むしろ、終わってほしくないとはちゃんと思ってる。でも演奏しながら涙が出るとか、そういうふうにはならない。
明日も卒部式で会えるし、先輩たちとはまたどこかで会える気がしている。そうやって、どこかで冷静に考えてしまう自分がいる。そういうところ、少しつまらないなと思う。
だからこそ、ちゃんと目を潤ませている川瀬を見ると、余計に胸がざわつく。川瀬のそういうところが、少し眩しい。
『宝島』の軽快でキャッチーなリズムが、逆に俺たちの涙を誘う。明るい曲なのに、妙に刺さる。笑って終わろうとしてるみたいで、余計にだめだ。
演奏しながら、ふと二年後のことを想像した。
二年後。俺たちが前に立ち、みんなに見送られる側になる。大好きなフルートパートの五人の同期とも。川瀬とも。そう思うと、胸がぎゅっと苦しくなる。
あと二年しかない、と考えるか。まだ二年ある、と考えるか。この一年は、本当にあっという間だった。たぶん、気づいたらすぐに最後の定期演奏会を迎えてしまうんだろう。そう思うと、今この瞬間が急に惜しくなる。先輩たちの背中を見ながら、音を重ねながら、俺はただ思った。
終わらないでほしい。でも、終わるからこそ、この時間はきっとこんなにきれいなんだ。
アンコールも終わり、この演奏会の幕が閉じる。楽屋に戻ると、感傷に浸る間もなく撤収作業が始まった。譜面台をたたんで、椅子を運んで、楽器を片づける。さっきまでのきらきらした舞台の空気が、急に現実に引き戻されていく。
撤収がひと通り落ち着くと、今度はロビーで写真を撮る人たちの姿があちこちにできはじめた。
「八時半には全員帰ってー!」
そんな指示はもう誰の耳にも入っていない。
時間までめいっぱい、それぞれが大好きな先輩たちと写真を撮っている。笑って、泣いて、肩を組んで、花束を持って。さっきまで舞台に立っていたのと同じ人たちなのに、もう少しだけ“終わり”の顔をしている。
こういうとき、俺はどうしても自分から「一緒に写真撮ってください」って言えない。普段はあんなにうるさいくせに、こういうところだけやけに臆病だ。別に断られるわけないってわかってるのに、変に一歩が出ない。
そういえば、川瀬は――
なんとなく視線を向けた先に、川瀬の姿があった。優矢先輩と、写真を撮っている。……やっぱりか。少し離れているのに、それだけで妙に胸がざわつく。写真を撮り終えたあと、優矢先輩が涙で少し顔の崩れた川瀬の頭を、軽く撫でた。
――やばい。そんなの、見たくなかった。
優矢先輩にとって、川瀬はただの後輩なんだろうか。いや、たぶんそうなんだろう。そう思う。思いたい。でも、ああいうふうに触れられてるのを見ると、どうしてもだめだ。別に、違うパートの先輩と仲良くなっちゃいけないなんてルールはない。そんなのわかってる。わかってるけど。……本当にこれは、ただの嫉妬だ。自分でも嫌になるくらい、わかりやすい。
「陽翔ー! おかしょー先輩たちと写真撮ろー」
不意に、洸太先輩の声が飛んできた。俺がぼうっと遠くを見ていたのを見かねたのか、それともただの人数合わせか。たぶん洸太先輩は、良い意味で何も考えていないんだろうなと思う。
「はい、チーズ!」
シャッターの音。今の俺、ちゃんと笑えてるだろうか。そんなことを考えながら、とりあえず口角だけは上げた。
そのあとも、ロビーのあちこちで写真を撮って、話して、笑って、泣いて。でも結局、全部がいつも通りみたいでもあって、やっぱりまだ実感が湧かない。
いつも通りみたいに先輩たちと別れて、いつも通りみたいに楽器を持って帰る。でも、たぶん明日が終わったら、その“いつも通り”はもうなくなる。
帰り道。ふとスマホを見ると、母さんからメッセージが来ていた。
《川瀬くんのソロ素敵だったね!》
……ああ、やっぱりそこか。事前に川瀬のソロのことを話していたから、ちゃんと聴いていたんだろう。母さんらしいなと思う。自分から話していたくせに改めて言われると、また胸の奥が少しだけざわついた。誇らしいような。でも、少し悔しいような。
《陽翔たちのA編もさすが!かっこよかった!》
続けて送られてきたその一文を見て、思わず少しだけ笑ってしまう。……なんだそれ。なんか、負けず嫌いな俺へのフォローみたいにも見える。いや、さすがにそれは考えすぎか。
でも、そんなふうに思ってしまうくらいには、今日はずっと川瀬のことを気にしていたんだろうな、と自分でもわかってしまった。
定期演奏会は終わった。三年生との最後の舞台も、もう終わってしまった。それなのに、胸の中にはまだ整理しきれないものがいくつも残っている。
全部が混ざって、うまく言葉にならないまま、夜の帰り道だけが静かに続いていた。




