第83話 翻弄される俺
「花凛…」
名前を呼んだ瞬間、俺はもう理性を手放していた。
その声に彼女が応えるようにして首を傾げた瞬間、堪えきれず唇を重ねる。
柔らかな花凛の唇の感触に、全身の血が一気に熱を帯びた。
離れていた半年間に積もった想いが、もう抑えられそうにない…
彼女に唇を重ねるたび、理性の境界線が曖昧になっていくのを感じる。
花凛を抱きしめれば抱きしめるほど、どうしようもない渇望と切なさが胸に溢れて来た。
俺は軽く開いたそれを押し開き、舌で花凛を探る…
温かさが流れ込んできて、胸の奥の空虚な部分が満たされていく気がした。
こんな風に抱きしめていれば、遠距離も相楽の事も…不安だって全部消えてしまうんじゃないか…愚かにもそんな錯覚さえする。
この時花凛の指が、俺のシャツをぎゅっと握った。
その小さな仕草でさえ、心臓の鼓動を小さく跳ねさせる。
その唇を求めながら、俺は彼女の後頭部に手を添えた。
逃げられないように、もっと深く自分の中に引き寄せるように…
「…ふっ…」
小さな声が、花凛から漏れる。
その響きに高ぶりが添えられ、俺は思わず彼女の腰を強く抱き寄せた。
「花凛…」
名前を呼ぶたびに、胸の奥が熱く締め付けられる。
俺は…
花凛と一年も離れるなんて、本当にできるんだろうか…
今時”遠距離”なんて、大したことないと思ってた。
声を聞くことも、顔を見る事も今の時代簡単だ。
だけど…
「…離れるのが…嫌だ…」
思わず口にしてしまい、笑ってごまかそうとした。
だけど、苦しいだけで声にならない…。
花凛を縛ることはできない。
だけど…見送る勇気も持てそうにない…
掠れる声が、自分でも驚くほど情けなく聞こえた。
けれどもう、綺麗ごとではいられない―――
もし彼女の隣に、別の誰かが立つ日が来たら――わずかな現実を帯び始めたそれに、息が詰まりそうだ。
「凱斗…私もう少しで、帰らなきゃ…」
その時小さくつぶやいた彼女の声に、胸がざわついた。
たったそれだけの言葉が、鋭く胸に刺さるように響く―――
時間を気にしている―――ただそれだけのことが、距離を置かれたようで苦しかった。
同時に、彼女の視線がちらりと時計へ流れるのを感じ取る。
とんなに熱を込めても、花凛の心は”ここにあらず”だ。
「花凛…やっぱ、今日ここにいろよ…な?」
思わず、言葉が漏れた。
触れる唇は温かいのに、花凛の心がこっちへ傾いてこない…
俺との温度差が、手に取るように感じられる。
「だって…明日仕事なんだもん…」
彼女の唇の隙間から、微かな声が漏れる。
”仕事”――
それに、胸の奥が一瞬で冷たくなった。
俺の頭を過るのは、相楽の存在だ。
あいつは花凛と同じ職場で、同じ時間を共有している。
半年前、俺と花凛に距離ができてからも、側にいたのはあいつだった。
そして今…あいつの存在が無視できないのも現実だ。
相楽は花凛に告白した。
花凛と同じMBAを取るためにアメリカに行くとは聞いている。
でも、あと一年の間に何が起きるかわからない。
今日花凛と話して、確実に彼女の中であいつの存在が大きくなってるのを感じた。
俺がどれだけ必死につなぎとめても、もし一年後…
花凛の隣に相楽がいたら―――
その光景を想像した瞬間、胸が焼けつくような痛みに包まれる。
「相楽より…俺だよな…」
自分でも情けないと思うくらい、震えた声が出た。
花凛は驚いたように目を見開き、それから俺の顔を正面から覗き込んだ。
「……なんでそんなこと聞くの?どうしちゃったの?凱斗…」
彼女は、そんな俺に戸惑いを見せる。
そんな顔…させたくないのに…
「……花凛…俺…めっちゃ後悔してる…」
「……」
「半年もお前の側から、離れた事…」
それを聞いた花凛は、両手で俺の頬を包み込んだ。
「大丈夫だよ。離れてても…私は、ずっと思ってたから」
そう言って優しく微笑むと、そっと俺の鼻先にキスをした。
「花凛…」
「どうしちゃったの…そんな弱気な凱斗珍しい…」
心配そうな目の前の花凛を、俺は思わず両腕でぎゅっと抱きしめた。
この半年間、花凛が俺を忘れてしまうんじゃないかと、何度も不安になった。
慌ただしい生活の中で、別の誰かを好きになってもおかしくないと…
夜、眠れない度に心をしめつけていたその恐怖を、今花凛のたった一言が溶かしてくれた気がする…
何でもっと早く連絡しなかったんだろう。
どうして意地を張ったりしたんだろう―――
こんなに胸の奥が切なく、どうしようもなく愛おしいのに…。
湧きあがる想いに突き動かされて、俺は再び花凛をこの胸に抱き寄せた。
「…俺も…。ずっと…花凛だけだった」
そう言った俺に、彼女は小さく頷く。
「私ね…やり残した仕事があるの…それがちょっと気になってて…」
「仕事?」
「うん…だから…帰りたいわけじゃないの…ホントはここにいたい…」
申し訳なさそうにそうつぶやいた花凛の頬に、俺は微笑んでそっとキスをした。
「なんだ…。それなら…仕方ないよな…」
本当は、どうってことない事なのかもしれない。
花凛が言う事を信じていれば、今まで通り一緒にいられるのかもしれない…
だけど…
「俺…お前の事好きすぎだわ…」
きっと…全ての答えは、これなんだろう―――。
思わずそうつぶやいた俺に、花凛は呆れたように笑った。
彼女は笑ってるけど、これは本当だ。
その気持ちを気にして、それにずっと振り回されて…
俺は…花凛に、翻弄されっぱなしだ。
それから花凛が帰るまでの少しの間、俺たちは二人で東京タワーを見つめていた。
窓辺で後ろから花凛を優しく抱きかかえ、彼女の肩にそっと顎を乗せてみるこの景色は、半年間ずっと願っていたものだ。
あの不安と孤独な夜を乗り越えて、ようやくたどり着いた場所。
俺の腕の中にいる花凛は、柔らかくてすごく温かい。
まるで失くしていたパズルの最後のピースが、ぴったりとはまったような感覚だった。
花凛は何も言わず、ただ静かに俺の腕の中で東京タワーを眺めている。
時折、俺の顔を振り返ったり、他愛もない事で笑ったり…。
その仕草一つ一つが、たまらなく愛おしい。
そんな彼女が、今の俺の不安を一つずつかき消してくれる気がした。
失うかもしれないと、さっきまで怯えていた時間が嘘のように、今はただ満たされた幸福感だけが胸に広がっていく―――
この腕の温もり、この柔らかな感触、そしてこの静かな時間。
これらすべてが、今ここに花凛がいるという確かな証だった。
「…花凛」
思わずその名前を口にして、抱きしめた両腕に力を込めた。
彼女は何も言わず、ただ俺の腕の中にさらに深く身を預けてくれた。
その小さな仕草だけで、俺の心は再び満たされていく…。
俺たちは、これからもこうしてずっと二人でいられるよな。
この時俺は、そう信じていた――――いや、信じていたかった。




