第82話 俺の不安要素
食後のテーブルを片付け終わると、俺たちはソファに腰を落ち着けた。
二人の視線は、自然と窓の外へと向かう。
時刻は夜9時半。
窓から見える東京タワーは、まるで漆黒の海の上に宝石を散りばめたかのようだ。
いつもの見慣れたこの景色も、花凛と眺めるだけで心が満たされていくのを感じた。
「花凛、音楽変えていい?」
この時丁度流れていたDhruvの「double take」
いつもは好きな洋楽のR&Bのテンポが、なんとなく俺の気分を下げる。
友人の恋人に片思いする歌詞が、今の不安定な自分の心に突き刺さった。
花凛は、相楽より俺の事をちゃんと好きだって…さっき、そうはっきり言ったのに…
なのにすぐあいつの告白を断らなかった花凛の事が、俺の心に引っかかって離れない。
あの日江の島で俺の指輪をすぐに受け取らなかったのは、その気持ちが揺れてるからだ。
俺にはわかる―――今まで、ずっと花凛だけを見て来たんだから。
「うん。私ね、見たいYoutubeがあるの」
ワインの余韻が残る静かなリビングで、俺はリモコンを手に取った。
「Youtube?どれ」
「あ…、私ね、大学の近くを紹介する“留学生のVlog”見つけたんだ」
「ロンドンの?」
「うん。凱斗と一緒に見てみたい」
そう言われて、俺は指先で彼女の言うチャンネルを再生した。
一瞬の暗転の後、壁一面の大きなテレビ画面に、YouTubeのロゴが鮮やかに浮かび上がる。
画面いっぱいに広がるホーム画面には、俺がいつも見ているチャンネルやおすすめの動画のサムネイルが並んでいた。
「あ、それだよ!」
そう言われて視線を移した先には、「LSE」の留学生のVlog。
昨日花凛にロンドンに行くって打ち明けられ、寝付けなくてなんとなく見たからか…
そいつのチャンネルが、そこにずらっと並んでる。
彼女に言われるがまま再生したら、それは大学の周りにあるお薦めカフェの特集だった。
LSEのキャンパスの周りは、石畳の小道や狭い路地が入り組んでいて、ロンドンの古い街並みの面影が残っていた。
画面には、雄大な裁判所であるロイヤル・コート・オブ・ジャスティス(Royal Courts of Justice)の荘厳なゴシック様式の建物が見えてくる。
通りには、歴史を感じさせるパブや古くから続く書店などが並んでいて、学術的な雰囲気と、ロンドンの日常の喧騒が入り混じっていた。
『ここは、ザ・カフェ・アット・ザ・オールド・ウィッチェリーです。 LSEのすぐ近くにある隠れ家のようなカフェで、僕のお気に入りです。店内は居心地が良く、手作りのサンドイッチやケーキが人気なのです…』
「ここ行ってみたい!」
花凛の声は、期待に満ちているように感じる。
画面からは更にロンドンの石畳や赤い二階建てバスの映像が流れ出し、彼女は目を輝かせながら画面を追っていた。
俺はその横でソファに沈み込み、肩を軽く寄せて彼女の横顔を見守る。
こんなに楽しそうにしている姿を見ると、寂しさを口にするのが子供じみたわがままのように思えた。
「……そんなに、楽しみ?」
さりげなく、そう聞いてみた。
「うん! 早く行きたいなって思っちゃう」
「そっか」
返した声が少し掠れたのを、自分でも感じた。
だが花凛は全く、気づいていない。
夢中になって映像に見入っている…
花凛の夢を、全力で応援してやるって決めた。
なのに…それでも言葉が勝手に漏れてしまう――――
「……やっぱ…俺は、寂しいかな…」
一瞬、空気が止まった。
花凛は隣の俺に視線を移し、じっと見つめる。
その瞳には、切ない光が滲んでいた。
そんな花凛から、思わぬ言葉が飛び出す…
「…私も……」
「……えっ?」
「それ…考えないようにしてるのにっ…」
「花凛…」
「私も…ちょっと寂しいんだ…」
「ちょっと?」
冗談ぽく笑ってみせたけど、彼女のほんのり潤んだ瞳がすべてを物語っていた。
思わず、その頬に掌をそっと添える…
「凱斗と離れるのは、寂しい…」
その言葉を聞くと俺は軽く息を吐き、咄嗟にそばにいる花凛を抱き寄せた。
ソファの狭い空間で重なる互いの呼吸と柔らかなぬくもり。
言葉にしなくても、今の俺たちの気持ちは確かに通じ合っているよな…。
俺の中の漠然とした不安を、この時側にいるだけじゃ埋められない気がした。
彼女の手が、ゆっくりと俺の背中に回される―――
それを確かめてから、俺は優しく彼女の顔を覗き込んだ。
「俺…待ってるから。必ず成長して帰って来いよ?」
そう声を掛けたら、俺の腕の中で小さく頷いた花凛。
俺達は大丈夫だ。
相楽の事なんて、俺の考え過ぎだって…この時彼女の目を見てそう思おうとした。
花凛の気持ちは、俺と同じだ。
離れるのは寂しいけれど、それでも二人の関係はきっと揺るがない。
そう思いたかった。
ロンドンのVlogが流れ続ける画面を眺めながら、俺はふと思い立つ。
「花凛…」
「ん?」
「今さ、仕事結構余裕あるよな?」
「次のプロジェクト始まるまでだから…あと2週間くらいかな?」
「じゃあさ、来週温泉でも行かないか?」
「温泉?」
「俺も今週は余裕あるし、そうだな…箱根でも、ちょっと足伸ばして熱海とか?東京からすぐだろ?」
そう言ってから俺はスマホを手に取り、画面をいくつかスクロールした。
指を止めたのは、日帰りでも行ける近場の温泉地の画像。
「足湯だって」
花凛が、興味で目を輝かせてる。
「美味しいもの食べて、ゆっくり温泉に浸かって…。たまには、息抜きも必要だしな」
「わぁ…これおいしそう……」
その瞳は、俺のスマホの画面に映る料理をじっと見つめている。
「お前、さっき食べたばっかなのに…」
「え?」
「それまでに…」
相楽の事、はっきりさせて来いよ―――そう言いかけて言葉が止まる。
花凛を信じてないような気がしたし、何度も同じことを言いたくなかった。
俺をじっと見つめてる花凛に、なんて言おう…
「それまでに、なあに?」
「あ…風呂…」
「お風呂?」
「…露天風呂付き客室にするか…決めといて」
「……」
「……あ…俺…決めて予約しとくわ」
「………うん」
っていうか話そらすためとは言え、いきなり風呂の話とか…妙な空気流れたし!!
ロンドン行くまでに、色んなとこ行こうって思いついただけなのに、花凛に下心あるって勘違いされたらどうしよう!
なんか…半年もブランクあると、変な気を使う。
付き合いたての頃みたいだ…
「あ!!Vlog続き見ようぜ…」
「凱斗…」
「ん?」
俺がリモコンで動画を再開させようとしたその時だ。
花凛の方から、今度は俺に声を掛けて来た。
「私…ちゃんと…相楽君に話してくるね…」
「……」
「私の気持ちも…返事もちゃんと…」
花凛は、俺の表情で何かを感じたたんだろうか。
その目が、心配そうに揺れていた。
その言葉に、俺は思わず安堵のため息をつく。
相楽の存在は、確かに俺にとって大きな不安要素だ。
だけど花凛のその言葉は、その不安を吹き飛ばすのに十分だった。
「なら、決まりだな。今度の土日で、俺予約しとくから」
「凱斗と温泉、久しぶりで楽しみ!」
花凛の笑顔が、この夜一番輝いて見えた。
時計の針はもうすぐ10時を回ろうとしている。
シンデレラの魔法が解けるまで、あと少し。
俺はリモコンで画面を消すと、花凛を再び腕の中に引き寄せた。




