第81話 彼が見せた不安
半年ぶりの凱斗の部屋。
地下の駐車場から、住人専用のエレベーターに乗ってPHフロアにつくと、懐かしい見慣れた光景が広がった。
ここに来るのも、ほんとに久しぶり…
もう来ることなんて、二度と無いと思ってた。
凱斗が玄関の前に立ち顔認証パネルに顔を向けると、一瞬で認識が完了しドアのロックが静かに外れる音がする。
「花凛、入って?」
「うん」
ドアが開いた瞬間、ふわりと甘くそれでいて爽やかな香りが鼻をくすぐった。
それはこの部屋にいつも漂っている、彼を象徴する特別な香りだ。
「おかえり」
そう言って凱斗が私に微笑みかけるから、私もそれに「ただいま」と答えて、彼の後に続いた。
部屋の奥からは、夜景を映す窓が遠くで光を放っている。
何度も来たことのあるこの場所は、私にとって凱斗の家であると同時に、彼のそばにいられることで心がほどけていく特別な場所だった。
そこにまた、戻って来たんだ…
手に持っていた荷物をソファの横に置くと、凱斗は白いシャツの袖をめくりながらすぐにキッチンで手を洗い始める。
「おなかすいただろ?すぐ用意するから」
そう言って、アイランドキッチンの後ろにある冷蔵庫の扉を開けた。
「私も手伝うね?」
「あー、今日はいいからソファに座ってて?」
「そんな…悪いよ…」
「午前中、ローストビーフとソースの仕込みしといたんだ。だから、ソースあっためるだけ」
凱斗はそう言って、手際よく冷蔵庫からソースパンを取り出して火にかける。
「これ何のソース?」
「ん?イチジク」
「へぇ…」
「赤ワインと煮込んであるんだ。肉に掛けると味が引き立つかな?」
「おいしそう」
「だろ?ちょっと、味見してみて」
そう言って差し出されたスプーンを口に含むと、あまりの美味しさに思わず目を見開く。
イチジクの濃厚な甘さとワインの酸味が絶妙に絡み合い、これが彼の手から生み出されたことに驚きを隠せない。
「すごい!プロみたい」
「午前中、時間あったから…」
次はアルミホイルで丁寧に巻かれたお肉を、薄く切り分けてお皿に並べた。
彼は結構マメで、お料理が得意だ。
時間がある時は餃子だって皮から作る、こだわり派。
オーブンから香ばしいチーズの焼ける匂いが漂い、思わずお腹が鳴った。
「オーブンに入ってるのって、なぁに?」
「ポテトグラタン。お前好きだろ?」
そう言って彼はさりげなく微笑むけれど、並べられた料理はローストビーフに、ポテトグラタン、そしてフルーツサラダ。全部、私の好きなものばかり。
凱斗の心遣いに、思わず胸がじんわりと熱くなる。
気づけば私は隣に立つ凱斗の肩に、さりげなく頭をちょこんと寄せていた。
これはいつもの、私の癖だ。
並んでお料理をする時は、手際のいい凱斗の側で手持無沙汰になりよくこうしていた。
彼はふっと微笑んで何も言わずに、私の頭に合図のように自分の頭を一度だけこつんと優しく寄せる。
「花凛、テーブル準備してもらっていい?」
そう言われてリビングにある大理石のテーブルに、出来立てのお料理を並べていく。
テーブルに料理を並べ終えると、凱斗が「よし」と手を叩き、椅子を引いてくれた。
彼はキッチンの脇にあるワインセラーから、赤ワインを一本取り出して席に着く。
「これ、仲直り記念に開けよっか」
そう言って微笑む彼の手に、“カロン・セギュール”が握られている。
ラベルに描かれたハートのマークがとても印象的で、“また一緒にいられる”という幸せを象徴するような、温かみのあるワインだ。
凱斗は慣れた手つきでボトルにソムリエナイフをあて、静かにコルクを抜いた。
ポンと軽やかな音が響き、芳醇な香りがふわりと部屋に広がる。
彼は二つのグラスに丁寧にワインを注ぎ、一方を私に差し出した。
「ほら、乾杯しよ」
グラスを手に取ると、彼はまっすぐ私の目を見つめる。
「うん…」
「乾杯」
私は静かに自分のグラスを持ち上げ、彼のグラスにそっと合わせた。
カランと軽やかで澄んだ音が、静かな部屋に響き渡る。
それはまるで、止まっていた二人の時間が再び動き出したことを告げる合図みたいだ。
「食べていい?」
「どうぞ?」
微笑んだ凱斗に促され、まず手をつけたのは焼き立てのポテトグラタン。
表面の香ばしいチーズと、中からとろけるクリーミーなポテトが口いっぱいに広がる。
「おいしい!」
私の大好きな、ポテトグラタン。
“何が食べたい”って聞かれると、子供のころから答える定番メニュー。
「だろ?このホワイトソースにさ、若干ガーリック入れてるんだ。隠し味的な?」
「そうなんだ?」
「ほらローストビーフも。俺が取り分けてやるよ」
次に手渡された、ローストビーフを一切れ口に運ぶ。
薄くスライスされたお肉は、彼の特別なイチジクソースと絡み合い極上の味。
「美味しい!凱斗すごい!」
自然と口からこぼれた言葉に、彼は嬉しそうに微笑んだ。
この部屋で、凱斗と向き合って食事をしているなんて…
この半年間の空白がまるで嘘だったかのように、ごく自然な時間が流れていく気がした。
その時ワイングラスを傾けながら、ふと凱斗が真剣な表情になる…
「花凛…」
「ん?」
「お前…もうどこにもいかないよな…?」
「えっ?」
「あ…留学はいいんだ…。そう言う事じゃなくて…」
凱斗は一瞬言葉を濁すと、グラスを置き私に正面から視線を合わせる。
「…どういう事?」
「…オレ…もう少し早く、お前とは仲直りできると思ってたんだ。こんなに長くかかると思わなかった…」
「……」
「正直、俺たちの間に誰かが入る隙なんて、絶対無いと思ってたし」
「……」
「相楽…」
凱斗は、躊躇いながらその名前を口にする。
きっと…ずっと心のどこかに、引っかかっていたんだろう…
その名前を出した瞬間、一瞬私から目を逸らした。
「この半年…本当は俺が花凛を支えるべきだったのに…つまんない意地張ったせいで…」
「……」
「花凛が、あいつの事無下にできないのはわかるよ。大事な同僚だし、ましてやずっと力になってくれてたんだから…」
「うん…」
「だけど…お前、俺とやり直す気あるんだろ…?」
「…えっ…?」
「あ…、いや…お前見てると…」
「……」
「迷ってるように…見えるから…」
「……」
「…今日…ホントにちゃんと、あいつに断った?」
「あ…私は…」
「うん」
「昨日凱斗に会う事…前の日に話してて…」
「やり直すって、言ったんだよな?」
「あ…」
「え?」
「あ……凱斗に…「やり直そう」って言われたのかって聞かれて…」
「……」
「言おうとしたの…」
「……」
「でも…相楽君…私にも怒ってたって言うか…」
「……」
「なんで半年も、凱斗に連絡しなかったのかって…」
「それって…もしかして俺がいなくても、相楽がいたから?」
「えっ…?」
「俺も…お前から、すぐ連絡来ると思ってた…」
「……」
「あんなこと言われて、地味に凹んでたの俺の方だし…。別れるって言われてるのに、こっちから連絡できないって…意地になったんだ」
「……」
「だけど…朔から相楽のこと聞かされて…正直、慌てた…」
「朔ちゃん?」
「花凛が、あいつと一緒にアメリカ行くって」
「あ…それは…」
「わかってる。それは朔が、俺をたきつけるために言ったんだって…」
「……」
「だけどもし俺が連絡しなかったら、花凛このまま、相楽と付き合ってたかもって事?」
「……」
「お前、俺と相楽とどっちが好きなの?」
「そ…そんなの…」
「……」
「か…凱斗だよ…」
「ほんとに?」
「…うん」
「じゃ、俺とやり直すってすぐあいつに話して?言えるよな?」
「……」
「言いにくいなら、俺が言おうか?」
―――≪…そんな人に俺、桜庭を譲りたくない≫
そ…そんな事になったら…相楽君あんなこと言ってたし喧嘩になっちゃいそう…
凱斗…どうして、私と相楽君の事疑ってるの…?
江の島で、相楽君の事話しちゃったから?
「あ…大丈夫…。あんな風に感情的になった相楽君見たの、初めてだから…
ちょっとどうしていいかわからなかっただけ…」
「ほんとに?」
「ほ…ホントだよお…だ…大丈夫!ちゃんと言えるよ?私は凱斗が好きなんだから。」
「なら……花凛、今日うちに泊まりなよ…」
「……」
「嫌?」
「…え…あ…私…」
「……」
「あ…明日の用意何にもしてないって言うか…、…ほら!仕事あるし!」
「……」
「今日は、12時までに…帰りたいなぁ…なんて…」
「12時?」
「あ…明日早朝会議があるの。ほら、月曜日だし」
「あぁ…」
「でも…今週は帰宅も早いから、金曜とかなら大丈夫かな…?」
「花凛…」
「えっ?」
「じゃあ……それまでに…、相楽に言えるよな」
「金曜じゃなくても……あ、タイミング見て…明日にでもちゃんと話す…」
「約束だぞ…」
「うん」
凱斗は、小さなため息をついて側に置いてあったグラスに口をつけた。
凱斗…ずっと明るく笑ってても、きっと心配してたんだ…
はっきりしない私のせいで、不安にさせちゃったんだね。
相楽君にも…ちゃんと伝えなきゃ…だ。
「あ、凱斗…気を取り直して、もう一回乾杯しよっ」
「そんな気になれない…泊まりも拒否られたし…」
「だって…そんなの、事前に言ってよぉ…言ってくれたら、仕事持って来たのに…」
「え??言ってよかったの??」
「えっ?」
一瞬の沈黙の後、凱斗はやっと楽しそうに声を上げて笑った。
「なぁんだ。花凛、うちに泊まる気満々だったのか」
わざと悪戯っぽく笑った凱斗は、再びグラスを持ちにこやかに私のグラスに合わせてみせた。
「はい、乾杯♪」
「べ……別に…満々って…そこまで言ってないから!」
「まぁいいや。花凛は今は、シンデレラだもんな…」
「シンデレラ?」
「11時半になったら、下まで送っていく。タクシーアプリで呼ぶから」
「ありがと」
そう言って笑うと、凱斗はちらりと腕時計に目を落とした。
「後三時間だな…」
私達の時間は、たった三時間。
この時間が、永遠に続けばいいのに…
私は言葉には出さず、心の中でそっとつぶやいた。
この夜が、二人にとっての新しい始まりになりますように――――
そう願って…




