2:誰が為に文字を書く?
ええと、前回何を話しましたっけね。
文章にとって大事なこと、そんな話ですか。
「誰かに読まれる」
というのが文章の存在意義であると書きました。
それじゃ、今回の話をする前にちょっとした文字列を引用します。
「南セ A13
3 う パs 98円?」
どうです、何書いてあるか全然分からないでしょう。
辛うじて末尾の「98円」が値段だかなんだかを書いてると分かるくらいでしょうか。
コレ、私の買い物メモです。
どの店で何を買うか書いておかないと忘れますからね。
さて。
「誰かに読まれる」ことを前提とした時、気を使わねばならないことがあります。
また問いかけても良いんですが、これはざくっと言っちゃいます。
即ち、
「その誰かって、誰さ」
ということ。
上に書いたでしょう、自分だけが読むメモであれば、自分にだけ解れば良いのです。文法とか単語とかがしっかりしている必要はありません。
でも、「誰か」が他人であったとしたら?
例えばあなたが突然上のようなメモを渡されて、「これ買っといてね」と言われたらどうでしょう。困りませんか。
他人に文字を、文を読ませる為には
「誰に読ませるのか?」
を、意識しなくては始まりません。
そして勿論、書くべき内容もやり方も、その「誰」によって変わります。
ここは話し言葉と同じ。
友達と赤ちゃんと親に全く同じ態度で同じ口調で同じ内容を話す人はいないと思います。いやまあいるかも知れませんが、いたら変な人でしょうな。
誰に読ませるかを意識すること。
実のところ、それだけで文章の質は変わってきます。
何故なら、「自分以外の誰か」に何かを伝える為には、ルールが必要だからです。
難しい話じゃありません。
カギ括弧の中にある文字列は会話や強調を示す、とか。
+という記号は足し算に使う、とか。
Mgはマグネシウムを表す、とか。
そうしたルールを共有することで始めて文章は「自分以外の誰か」に意味を伝えられます。
「いや、世間では+って記号は足し算に使うんだろうけど、俺の中だとこの記号は割り算に使う物だから、4+2は2だよ」
とか、主張するのは勿論好きにしてよろしい。
けれど、それが「自分以外の誰か」に了解されるかどうかは別問題です。
今回のまとめ。
文章を「自分以外の誰か」に読ませるのなら、相手を意識して、共有しているルールに従う。
ということ。
おお、簡潔にまとまった……!
2013年7月8日編集 タイトルを修正。