素人小説理論講座(改題アリ)
おはようございます。この度、小説を教えることになったあるちゅーる・らんぼーと申します。では、早速ですが、授業の方を始めたいと思いますが、一つだけ。このお話は『エッセー』というカテゴリーに入りますが、実は私、エッセー作品ばかりを書いているエッセイスト(としてなろうで活動させて頂いている者)なんです。
今から「小説を書く方法」を教えようというのに、肝心の作者はエッセーばかりを書いてきた。しかし、小説というものがあくまでの理想として自由というものを掲げなければならないのなら、別段、エッセーを書いてそれを小説と呼んでも構わないでしょう。私ははっきりと言わせてもらいますが、エッセイストです。ところが、それは小説家でもあります。それは小説というやつが何をどう書いても良いのなら、別にエッセーを書いてもそれを本人が「小説でもある」と言ったら、それは小説ということになりやしないか。
もう、小説の書き方についての授業は始まっています。そういうふうに私は小説を捉えているところがあるのです。なぜ、私が物語的な小説を書かないか。それは登場人物がいて、設定があって、それを物語に沿って進んでいくという「普通」の小説にいささか疑念を感じているからであります。そうであるならば、エッセーという形で「人間」論を展開したほうがずっとマシだと思うわけなのです。私は自分自身、物語小説の面白さが分からない人間だと思います。そこは非常に悩んだというか、不思議に感じていて、今でも違和感があります。
しかし、PVなどあってないようなものだし、PV数に関していえば、少ない方が良いんじゃないかと思う時があります。というか、だいたいの人が少なくても満足してるんじゃないかと思いますね。何千、何万と稼いでいる人には本当に申し訳ないですが、私たちのような読者の少ない文学者にも理想や希望があるんです。読者の少ない作品ってしたたかじゃないですか。ゴッホでも、宮沢賢治でも生前はほとんど活躍しなかった。死んだ後に、有名になったんですよ。それが私のことかと問われれば、それはないと答えますが、その点で夢や希望があることは事実なんです。
あと、我流で申し訳ないのですが、要するにツイッターの呟きのように書けばいいと思うんです。呟きにも書き方がいろいろあるので一概には理解しにくい点がありますが、それはここでは普遍的なものということです。それと、ツイッターのように書くということですが、つまりツイッターの文章というのはネット時代の文学の恩恵をこうむっているのではないかと思うのですよ。「それで書くと何かまずいよ」と言う人にはもちろん薦めることはできないです。ただ、それぐらいの軽い気持ちで書いた方がいいじゃないですか。別に上手く書けなくても、駄作でも構いません。売れなくてもいいし、読者が少なくてもいい。ただ、自分の一番言いたいメッセージを一番分かりやすい文体で繰り返し説いていくのがベストなんじゃないでしょうか。
やっと授業が終わりにさし掛かってきました。やっと書くのをやめれると思うと、とてもホッとします。作家は書いている時は得体の知れない何ものかと戦っているもんです。その戦いがもう少しで終わると思うと、胸を撫で下しますね。こんな小説家、駄目ですよね? でも、こんな作家の書く文章も「文学」という形でいえばそうなんです。そして、私も皆さんのような「小説」を書きたいと願い、欲しています。小説の書き方が書かれていないじゃないかと言われるのも当たり前ですが、でも僕には今回のこの「小説」が、みんなの書く「小説」と寸分狂わないものであると信じています。それは愛のやり取りという言葉でもってこの授業を締めさせて頂きたいことに拠ります。ありがとうございました。




