第2話
「……白石さん、いま何て言いました?」
橘が目を丸くし、マイ塩瓶を握りしめたまま呆然と渚を見つめた。
渚はコホンとひとつ咳払いをして、周囲の社員に聞こえないよう、少し身を乗り出して声をひそめた。
「だから、その……橘さんがよろしければ、ですけど。私が毎日、ゆで卵をきれいに剥いて差し上げましょうか?」
「えっ……でも、どうして? 白石さんはゆで卵が好きなんですか?」
「いいえ。むしろ黄身のパサパサ感が苦手で、自分ではほとんど食べません」
「ええっ!?」
橘の声が思わずひっくり返り、隣の席の葵が不審そうにこちらをチラリと見た。渚は慌てて「静かに!」と手で制する。
「私、ただ『ゆで卵の殻を完璧に剥く』っていう行為そのものが好きなんです。薄皮ごとツルンと剥がれた瞬間の快感がたまらなくて……でも、食べたくないから剥いた卵の処分に困ってたんです」
「処分……」
「ええ。いま我が家の冷蔵庫には、剥くのに失敗した歪なゆで卵が四つも眠っています。もし橘さんが食べてくださるなら、私としては大助かりなんです。利害が完全に一致しています!」
渚が力説すると、橘の表情がみるみるうちに明るくなった。
まるで砂漠でオアシスを見つけた旅人のような、輝かしい笑顔だった。
「本当ですか……! いや、僕にとっては夢のような話です! ぜひ、ぜひお願いしたいです!」
こうして、文具メーカーの片隅で、誰にも言えない秘密の「ゆで卵協定」が結ばれたのだった。
◇
その日の昼休み。
会社の屋上へと続く階段の踊り場で、二人はこっそり待ち合わせた。
「お待たせしました、橘さん」
渚がバッグから取り出したのは、タッパーに入った二つのゆで卵だった。
昨夜と今朝、自宅で入念な仕込みを行ってきた成果だ。
「これ、今日のために作ってきたんです。卵は新鮮すぎると白皮が剥がれにくいので、賞味期限ギリギリのものを買い、茹でる前に少しお尻にヒビを入れておきました。お湯には塩と酢を少々。茹で上がった直後に氷水で一気に冷やすことで、白身と殻の間に隙間を作っています」
「は、はぁ……すごいこだわりですね」
橘が感心したように目を輝かせる。
渚は膝の上に清潔なハンカチを広げると、気合を入れた。
「いきます」
卵の底、気室がある部分をコンコンと優しく叩き、細かなヒビを入れる。
そこから親指の腹を滑らせ、薄皮の「下」へと潜り込ませた。
——チリチリ。
薄皮が一枚のヴェールのように、白身からスルリと剥がれていく。
引っかかりはない。摩擦もゼロだ。
指先に伝わるのは、完璧な密着が解かれていく最高の触感。
(きた……! これ、完璧なやつ……!)
ツルン。
一筋の傷もなく、月のように滑らかで真っ白な白球が、渚の手のひらに転がり出た。
「できた……! 完璧です……っ!」
渚は思わず歓声をあげた。
胸の奥から湧き上がる圧倒的な達成感と快感。脳内麻薬がドバドバと分泌されているのが自分でもわかる。これだ。この瞬間のために、自分は生きていると言っても過言ではない。
「うわあぁ……綺麗だ……!」
橘が心の底から感嘆の声を漏らした。
渚の手のひらの上で輝くゆで卵を、まるで宝物でも見るような目で見つめている。
「どうぞ、橘さん。お納めください」
「あ、ありがとうございます……いただきます!」
橘は恭しく両手でゆで卵を受け取ると、ポケットからマイ塩瓶を取り出した。
シャッ、シャッと手際よく塩を振りかける。
そして——大きな口を開けて、カブリと白身に噛みついた。
「んむ……っ!!」
橘の頬が、幸福そうに緩んだ。
口をモグモグと動かしながら、目を細めて噛み締めている。
「うま……っ! すごいです白石さん! 表面が傷ついてないから、歯触りがツルッとしてて最高です! 黄身も絶妙な半熟と固ゆでの中間で、パサついてない……! こんな美味しいゆで卵、食べたことありません!」
「本当ですか!?」
「ええ、もう感動です! 生きててよかった……!」
実に美味しそうにゆで卵を頬張る橘の姿を見て、渚の胸の奥が、ちくっと小さく跳ねた。
いつも疲れた顔をしていた彼が、自分が剥いた卵ひとつでこんなにも満面の笑みを浮かべている。
これまで「殻を剥く快感」しか求めていなかった渚にとって、自分が生み出した「完全な白球」を誰かが愛おしそうに食べてくれる光景は、予想外に胸を打つものだった。
「あの、橘さん。どうしてそんなにゆで卵が好きなんですか?」
渚が尋ねると、橘は二つ目のゆで卵(こちらも渚が見事にツルンと剥いて進呈した)を手に取り、少し照れくさそうに微笑んだ。
「実は最近、ずっと大きなプロジェクトの責任者を任されていて……毎日プレッシャーで頭が破裂しそうだったんです。そんな時、ふと昔、亡くなった祖母が作ってくれたゆで卵の味を思い出して」
橘は塩を振りながら、懐かしそうに目を細めた。
「シンプルで、誤魔化しが効かなくて、優しくて。それを食べたら、なんだか心が落ち着くような気がしたんです。でも自分で剥こうとするとボロボロになって、余計に情けなくなって……だから、今日白石さんが剥いてくれた卵を食べた瞬間、なんか……救われた気がしました」
「橘さん……」
スーツの肩を少し落とし、素直な気持ちを語る彼。
いつもは物静かで真面目な助っ人社員の、等身大の素顔が見えた気がした。
「よし! 決まりました!」
渚は拳をぎゅっと握りしめた。
「橘さんの助っ人期間が終わるまで、私が毎日、最高のゆで卵を剥いて持ってきます! 橘さんはただ、それを美味しく食べて仕事を頑張ってください!」
「えっ、本当ですか!? でも、白石さんに負担が……」
「負担なんてとんでもない! 私はただ剥きたいだけですから! お互いのためです!」
「白石さん……! ありがとうございます!」
屋上の階段踊り場で、二人は強く手を握り合った。
ゆで卵の殻を剥く指と、塩を振る手。奇妙なパートナーシップが、ここに成立した瞬間だった。
◇
それからの日々は、渚にとって驚くほど鮮やかで楽しいものになった。
毎晩、スーパーで卵を選び、茹で時間を1秒単位で調整する。
お湯の温度、氷水につける時間、卵の個体差による殻の厚みの違い——渚の「ゆで卵研究」は熱を帯び、今やプロの領域に達しつつあった。
そして昼休みになれば、屋上へ続く踊り場で橘と落ち合う。
「今日の卵は、Lサイズで少し殻が薄めでした。剥き心地は星四つです」
「いただきます! ……ううん、今日も絶品です! 白石さんの剥いた卵を食べると、午後の仕事も乗り切れる気がします」
「ふふ、良かったです」
パクパクと美味しそうに食べる橘を横目で見ながら、渚は密かに胸を躍らせていた。
最初は単なる「欲望の処理(ゆで卵を食べてもらうこと)」だったはずなのに。
最近では、橘が「美味しい」と言って笑ってくれる瞬間の方が、殻がツルンと剥けた瞬間よりも何倍も嬉しく感じられるようになっていた。
彼が仕事で褒められた日は一緒に喜び、残業で疲れている日は少し柔らかめに茹でた卵を渡す。
橘もまた、渚が企画書に悩んでいる時はさりげなくアドバイスをくれ、彼女の好きなコーヒーを差し入れしてくれた。
ふたりの距離は、ゆで卵を一つ剥くたびに、確実に縮まっていた。
しかし——そんな穏やかで幸せな日々は、唐突に終わりを告げることになる。
助っ人期間の最終日まで、あと三日となった木曜日のことだった。
「ねえ、白石さん」
午後のオフィスで、隣の席の葵が怪訝そうな顔で渚に話しかけてきた。
「最近、橘さんとよく一緒にいるよね? 昼休みもどこか行ってるし。……もしかして、付き合ってたりするの?」
「えっ!? つ、付き合ってなんてありませんよ! ただの……その、業務上の交流というか……!」
渚は顔を真っ赤にして否定した。
しかし、葵はどこか冷ややかな、心配そうな目で渚を見つめた。
「ふうん。ならいいんだけどさ。橘さん、来週からは元の部署……本社の営業企画部に戻るでしょ? あそこ、社長令嬢の企画開発チームと合同で動くらしいよ」
「社長令嬢……?」
「そう。噂だと、向こうの令嬢が橘さんを指名したらしいの。橘さん、仕事できるし顔もいいから、向こうでかなり期待されてるみたい。……住む世界が違う人なんだから、あんまり変な噂が立つ前に距離置いた方がいいんじゃない?」
葵の言葉が、冷たい水のように渚の頭から爪先までを濡らした。
住む世界が違う。
そうだった。橘はもともと本社の優秀な社員で、この部署には一時的な助っ人として来ているだけだ。
自分と橘を繋いでいたのは、「完璧なゆで卵」というあまりにも奇妙で、くだらない約束だけ。
(私……何浮かれてたんだろう)
渚はぎゅっと胸元を握りしめた。
彼はゆで卵が食べたかっただけだ。私はゆで卵を剥きたかっただけだ。
そこに特別な感情なんて、最初からあるはずがなかったのに。
その日の夕方、橘からメッセージが届いた。
『白石さん、今日の夜、少しだけ時間をもらえませんか? お話ししたいことがあります』
スマートフォンの画面を見つめながら、渚の心臓が重く、苦しく脈打った。
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物語はここから【クライマックス】(全体の約30%)へと突入します。
助っ人期間の終了、本社の社長令嬢との噂、そして「最後のゆで卵」を巡る二人の葛藤と感情の爆発を描いていきます。
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