第3話
夜の居酒屋は、仕事帰りの会社員たちで賑わっていた。
グラスの触れ合う音や威勢のいい店員の声が飛び交う中、渚と橘のテーブルだけが、ぽっかりとエアポケットのように静まり返っていた。
「……来週から、本社の営業企画部に戻ることになりました」
ビールジョッキを両手で包み込みながら、橘が静かに切り出した。
「やっぱり……そうですよね」
渚は努めて明るい声を作り、小さく頷いた。
「もともと期間限定の助っ人でしたものね。短期間でしたが、橘さんのお手伝いができて良かったです。企画書の作成もたくさん助けていただきましたし」
「白石さん」
橘がまっすぐ渚の目を見つめた。その真摯な視線に、渚は胸がぎゅっと締め付けられる。
「本社のチームでは、かなり大きな新規事業を担当することになりそうです。……今度は、今までの比じゃないくらい忙しくなると思います」
「……頑張ってください。橘さんなら、きっと素晴らしい仕事ができますよ」
「ありがとうございます。それで……その」
橘は一度言葉を切り、ポケットからいつものマイ塩瓶を取り出した。
手のひらの中で転がる小さな瓶を見つめながら、彼はどこか寂しそうに微笑んだ。
「もう、白石さんにゆで卵を剥いてもらうことも、できなくなりますね」
その言葉が、渚の心に刺さった。
やっぱり、そうだ。
彼にとって、私は「ゆで卵をキレイに剥いてくれる便利な同僚」でしかなかったのだ。
本社に戻り、華やかな社長令嬢と肩を並べて大きな仕事をするようになれば、踊り場でゆで卵を頬張っていた日常なんて、きっとすぐに忘れてしまう。
胸の奥が痛くて、息が苦しい。
自分がこれほどまでに彼を好きになっていたのだと、突きつけられた瞬間だった。
「……そうですね。残念です。あの『ツルン』と剥ける快感が味わえなくなるのは、私にとっても大きな損失です」
渚は強がった。
これ以上惨めになりたくなくて、必死で「ゆで卵の殻を剥きたいだけの自分」を演じた。
「白石さんは……」
橘の声が少し低くなった。
「ゆで卵の殻が剥ければ、相手は誰でもよかったんですか?」
「え……?」
「僕じゃなくても……誰か他の人が食べてくれるなら、それでよかったんですか?」
橘の瞳に、揺れるような感情の影が落ちていた。
渚は驚いて固まった。そんな顔をする橘を、見たことがなかった。
「そんなわけ……」
言いかけて、渚は口をつぐんだ。
嘘だ。「誰でもいい」なんて、そんなはずがない。
毎晩スーパーで最高の卵を探していたのも、茹で時間を1秒単位で調整していたのも、全部——剥いたあとのあの笑顔を、橘に見せてほしかったからだ。
「……すみません。ヘンなことを聞きました」
橘は自嘲気味に笑うと、塩瓶をポケットにしまい込んだ。
「最後の日は金曜日ですね。もしよかったら……最後にもう一度だけ、白石さんのゆで卵を食べさせてくれませんか?」
「……はい。最高のゆで卵を、用意してきます」
二人はそれ以上、深い話をすることはなかった。
冷めた料理をつつき、静かにグラスを干して、その夜は別れた。
◇
金曜日の朝。
渚はキッチンで、固鍋の中の湯を見つめていた。
これが最後だ。
もう二度と、彼のために卵を茹でることはない。
スーパーで一番新鮮で形が整った特撰卵を選び抜いた。
温度管理も、冷却の手順も、これまでの経験のすべてを注ぎ込んだ。
氷水から引き揚げた卵は、完璧な美しさで輝いている。
(絶対に……失敗できない)
昼休み。
いつもの屋上へと続く階段の踊り場。
渚が待っていると、足音が聞こえ、橘が姿を現した。
どこかつやすやとしたいつものスーツ姿だが、その表情は固い。
「白石さん」
「橘さん。……どうぞ、座ってください」
二人は踊り場のベンチに並んで腰掛けた。
渚はタッパーから、最後のゆで卵を取り出した。
白く滑らかな球体。
渚は指先に神経を集中させ、ゆっくりとヒビを入れる。
——パリ。
心地よい音とともに、薄皮がめくれる。
指の腹を滑らせる。滑らかで、引っかかりのない感触。
ツルン。
どこにも傷ひとつない、完全無欠の白球が完成した。
これ以上ない、人生で最高の剥き心地だった。
渚の指先を通して、脳髄にまで快感が突き抜ける。
だが——いつもなら溢れ出るはずの歓喜が、今回はどこにもなかった。
胸にあるのは、ただ張り裂けそうなほどの寂しさだけだった。
「できました……。橘さん、どうぞ」
渚は手のひらにゆで卵を乗せ、橘へ差し出した。
橘はそれを見つめたまま、すぐには受け取ろうとしなかった。
やがて、大きな手がそっと渚の手を包み込む。
ゆで卵を挟んで、二人の手が重なった。
「橘さん……?」
「白石さん。……僕、嘘をついていました」
橘の声が震えていた。
「無性にゆで卵が食べたくなるなんて……本当は、そんなことなかったんです」
渚は目を丸くした。
「え……? でも、あの塩瓶は……?」
「あれは……白石さんと話すきっかけが欲しくて、必死で考えた口実だったんです」
橘は渚の手をぎゅっと握りしめた。
彼の温かい体温が、手を通して渚の心に流れ込んでくる。
「他部署から助っ人に来た日、僕は緊張していて……でも、隣の席で必死に書類と格闘している白石さんを見て、一目で惹かれました。もっと話したい、仲良くなりたいと思った。でも白石さんは仕事に真面目で、隙がなくて……そんな時、白石さんが指先を赤くして『キレイにゆで卵を剥きたい』って呟いているのを聞いたんです」
「……あ」
「不器用な僕だけど、ゆで卵を食べる役ならできるかもしれない。そう思って、あの日の夜、慌ててスーパーで塩瓶を買って……翌朝、思い切って声をかけたんです」
橘の顔が、耳まで真っ赤に染まっていた。
「ゆで卵が食べたかったんじゃない。僕は……白石さんと、一緒にいたかったんです。白石さんが一生懸命剥いてくれた卵を食べる時間が、僕の人生で一番幸せな時間でした」
渚の頭の中が、真っ白になった。
あの日からの出来事が、走馬灯のように駆け巡る。
屋上で美味しそうにゆで卵を食べていた彼の顔。
私の好きなお菓子を差し入れてくれたこと。
仕事で困った時に、いつもさりげなく助けてくれたこと。
全部、全部——私と繋がるためのものだったなんて。
「白石さん」
橘がまっすぐな瞳で渚を見つめる。
「本社に戻っても……もう『ゆで卵の協定』がなくなっても、白石さんと会いたいです。ゆで卵がなくても、僕と……付き合ってくれませんか?」
渚の目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「な、白石さん!? どうして泣いて……! あ、あの、困らせるつもりじゃ……っ」
慌てる橘の手を、渚は両手で強く握り返した。
「バカです……橘さん、大バカです……っ!」
「えっ!?」
「私……ゆで卵の殻なんて、どうでもよかったんです! 橘さんが『美味しい』って笑ってくれるのが嬉しくて……私、橘さんのことが好きだから、毎日卵を茹でてたんです……っ!」
「白石さん……!」
踊り場の静寂の中で、二人の想いが重なり合った。
握りしめられた手の中で、二人の熱に包まれた完璧なゆで卵が、そっと温もりを宿していた。
◇
それから、数ヶ月後。
休日の日差しが差し込む渚の部屋のキッチンで、二つの影が並んでいた。
「あーっ! また身が削れた……! どうして白石さんみたいにツルンっていかないんだろう」
橘が悲しそうな声をあげる。
彼の前にある小皿には、白身がボコボコに削れた、痛々しいゆで卵が乗っていた。
「ふふ、橘さんは力が入りすぎなんですよ。もっと優しく、薄皮の隙間に指を滑らせるんです」
渚はくすくす笑いながら、橘の手に自分の手を重ねた。
橘が本社に戻ってからも、二人の関係は続いていた。
休日になればどちらかの家に行き、一緒に料理を作ったり、出かけたりする穏やかで幸せな日々。
そして今では、不器用な橘が「白石さんのために、キレイなゆで卵を剥けるようになりたい」と言い出し、渚が剥き方を指導する立場になっていた。
「ううん、難しいなぁ……。でも、失敗したやつは僕が美味しく食べるからいいや」
橘は笑うと、ボコボコになったゆで卵にシャッとマイ塩瓶で塩を振り、パクリと口に含んだ。
「うん、やっぱり白石さんの茹で加減は最高だ」
「もう、お世辞が上手なんだから」
渚は呆れつつも、嬉しさを隠せない。
渚はもう、一人で闇雲にゆで卵を剥くことはない。
自分が剥いた卵を愛おしそうに食べてくれる人がいて、自分のために不器用な手で殻を剥こうとしてくれる人がいる。
(……うん。やっぱり、最高の剥き心地ね)
渚は橘が剥いてくれた、少し白身が欠けたゆで卵を受け取ると、そっと一口噛み締めた。
口の中に広がるのは、少ししょっぱくて、世界で一番温かい味だった。
(完)
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